2章 ふたつ名 Ⅵ 夢の水先 ①
その日、薬の力を借りてしか深い眠りを得ることができなかったクラムシェルが、まる一昼夜もの間、昏々と眠り続けて目覚めてこなかった。心配して寄り添う医師と叔母の目の前で目覚めたクラムシェルは、睡眠薬の過剰摂取を疑われ、「睡眠薬なんて、飲んでいないわ」そう答えた。そして与えられていた睡眠薬を、そのまま二人に突きつけた。
そして、久方ぶりの清清しい笑みを浮かべて告げたのだ。
「悪夢の正体が、わかったのよ。もう、悩まされることはないわ。すっかり消え去ってしまったから」
驚きを隠せない二人を前に、クラムシェルは晴れやかな表情を浮かべ、自らの力で突き止めた悪夢の正体に関して、こう答えを出している。
――あの悪夢は、お母様が幼い頃に読み聞かせてくれた物語だったのよ。
以下は、クラムシェルが二人に語った、悪夢の真相である。
ええ、間違いないわ。あれは、とてもとても恐ろしい物語だった。
いえ、どのような物語だったかは覚えていないわ。私が覚えているのは、それが人魚姫の物語だったということだけ。
そう、人魚姫よ。あの悪夢は、お母様が読み聞かせてくれた、人魚姫の物語だったのよ。うんと幼い頃、お母様が人魚姫の物語を読んでくれたことが、確かにあった。けれど、そのお話は、今の世間で語られているような、語り継がれているような、人魚姫の物語じゃない。別の人魚が主人公の、お母様が創作した物語だったのよ。だから私は、他の人魚姫の物語に違和感を覚えていたの。
人魚姫は、こんな話じゃない。これは、私の知っている人魚姫ではない、と。
かといって、どんな人魚姫だったのか、それは分からなかった。とても恐ろしくて、悲しい物語だったことははっきりと分かるのだけれど、話の具体的内容は思い出せなかった。そのことが、ずっと自分自身でも不思議でならなかった。
お母様は私が幼い頃から、色々な物語を読み聞かせてくれていたわ。素晴らしい語り手だった。私は、小さい頃から、お母様が読み聞かせてくれるのが大好きだった。お母様の口から紡がれるお話を、毎晩とても楽しみにしていた。記憶を取り戻してからは、その想い出を、何度も思い出していたわ。
そして、私はついに思い出したのよ。
お母様が、自分で創作した人魚姫の物語を、読み聞かせてくれたことを。
幼い私が、その物語を聴きながら、あまりに怖くて泣き出してしまったことを。
そう、私はお母様の前で、大声で泣いたのよ。お母様の話を聞きながら、恐ろしくてその場から逃げ出したかった。それでも逃げることも、耳を塞ぐこともできなかった。どうしても、物語の続きが聴きたかった。その一方で、先を聴くのがたまらなく恐ろしいのよ。先を知りたいのに、続きを話してほしくない。そんな不思議な気持ちにさせるお話しだった。恐ろしくて逃げ出したいのに、続きを語ってほしい。そんな、人魚姫の物語だった。
そのときの怖かった思い出が、気持ちが、私の中にトラウマとしてずっと残っていたのよ。それまでたくさんの絵本や物語をお母様から読み聞かされていたけれど、そこまで物語に入り込み、感情移入し、揺さぶられた経験は、確かその時が初めてだった。
ええ、思い出したわ。思い出した時の感情が、今も強烈に残っているのよ。きっとお母様の創作した人魚姫の物語が、幼い頃の私にとって、他の子供だましの絵本やお説教じみた御伽噺とは一線を画すものだったからよ。人魚はお母様の作品の重要なモチーフ。お母様が語り聞かせてくれた人魚の物語も、きっとその作品の一つだったのよ。
そう…なぜ、人魚姫の物語を読むと、決まって悪夢を見たのか。
それは、お母様が人魚姫を語り聞かせてくれた時の感情を思い出すから。
悪夢を見るのに、どうして繰り返し読んでしまうのか。なぜ衝動的に繰り返し買い集めずにはいられないのか。なぜ、読むたびに、人魚姫の物語に違和感を覚えてしまうのか。
それはお母様が話してくれた物語が、全く異なる物語だったから。
人魚姫はこんな物語じゃない――私がそう感じたのは、何よりもその結末だった。
人魚姫の物語を読むたびに、こんなお話じゃない、こんな結末じゃない、そんな思いがしてならなかった。でも、どんな物語で、どのような終わり方だったのかはどうしても思い出せなかった。そのことが頭の中で、いつも引っ掛かっていた。
お母様が人魚姫の物語を読み聞かせてくれていたことを思い出した時、その違和感の正体も、分かったのよ。
それはね、お母様が途中で語るのをやめてしまったからだったのよ。
私はお母様の話を聴きながら、大泣きしてしまった。あまりにも怖くて、あまりにも悲しくて。お母様はそんな私を見て、創作した人魚の物語を語ることをやめてしまったのよ。
思い出せないのも当然でしょう。だって、最後まで聞いていないのだもの。結末が決まらなければ、それは物語として完成しない。最後に至るまでの物語は、結末によってその意味を変容させる。だからきっと、それがどのような物語であるのか、私には思い出せないのよ。もしかすると、お母様もまだ結末まで書き終えていなかったのかもしれない。その結末を考えあぐねていて、語り終えなかったのかもしれない。
ラストシーンまで聞かずに物語が終わったことで、幼かった私の心に、そのときの感情が殊更焼き付くように残されてしまったのね。記憶に、傷跡として刻み込まれるほどに。
だから人魚姫の物語を思うとき、私は相反する二つの夢想に囚われるのよ。
思い出せそうで、思い出せない。思い出したくないのに、思い出したい。違う物語だとは分かっているのに、どんな物語である分からない――
それは、物語が途中で終わってしまっていたから。
そのことに気付いた途端に、私は悪夢が怖くなくなった。嘘みたいに一瞬にして、恐怖は搔き消えてしまった。
不思議ね。あれほど怯えていた悪夢の正体なんて、分かってしまえば何も怖くない。だってただの嘘、架空の存在なのだもの。私はお母様の創作した物語に怯え、恐れていたの。
それにしても、流石はお母様ね。私がまだ幼かったとはいえ、消えることのない恐怖を心に刻み込む、そんな物語を創作するなんて。しかも、物語そのものは忘れてしまっているというのに。
でも、分かってしまえば、もう怖くなんてないわ。
私が悪夢の正体に気付いたのは、一昨日のことだったわ。その瞬間、霧が晴れたような気持ちになって、睡眠薬なんか飲む必要もなく、瞬く間に眠りに落ちていった。それからは悪夢どころか一切の夢を見ることなく、深く眠ることができたわ。
そう、丸一日眠り続けていたのね。こんな安らかに深く眠ったのは、いつ以来でしょう。今朝の清清しい気持ちを、何と言い表せばいいかしら。そう、まるで呪いから解き放たれたかのように、すっきりした気分よ。
私の中にはずっと、いつも心の片隅に、今夜も悪夢を見るのではないか、そんな恐れがあった。でも、もうそんな恐れはない。一瞬で、幻として掻き消えてしまった。
だって、あの悪夢は、たかが物語でしかないのですもの。現実ではない、紙に描かれた架空の出来事、絵空事でしかなかったと、そう気付いたのですから。
私はもう、悪夢を怖れる必要はなくなったのです。
そう気づいたことで、私は私を悩ませ続けてきた悪夢から、やっと解き放たれたのです…。
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