2章 ふたつ名 Ⅴ 追想セイレン ③
以上のように、二人の意見は異なっている。
フォルスネイムは、悪夢とは、事故当日の母親による無理心中の記憶である、そう推測し、セレスタインは、母親による日記には記されていない虐待の記憶である、そう考えている。医師は、悪夢をもう一度、記憶の奥底に封じ込めるべきだと考え、叔母は、悪夢という虐待の過去を認め、思い出すことで、悪夢を乗り越えるべきだ、そう考えていた。
互いの推察を話し、意見を交わした二人はこの後、クラムシェルを悪夢から解き放つための方法を話し合っている。二人が出した結論は、悪夢と向き合い、乗り越えなければならない、というものだった。このまま精神のバランスを崩したままでは、クラムシェルの人生に台無しになってしまう。悪夢が虐待であれ、事故の記憶であれ、それを一時的に封じ込めたとしても、いつかまた、何かが切っ掛け噴出してくるかは分からない。悪夢が事故の記憶だった場合でも、母親の狂気、真実の姿を受け止める強さこそが、クラムシェルのその後の生を輝かせるはず、そう判断したためであった。
ある日ついに、セレスタインによって、母親から虐待を受けていたかを確かめる言葉が告げられている。
「――私達は、家族でしょう。嘘は吐かないでほしいのよ」
夕食の場で、優しく、愛情深く諭すように切り出した。そしてこう尋ねている。
「貴女は姉様に、いいえ、お母様に暴力を振るわれていたのではないの? 悪夢とは、その記憶ではないの。それに気付いていながら、お母様を愛するあまり、気付かない振りをしているのではないの? もしもそうならそれは間違って――」
そこまで口にしたところで、セレスタインの言葉は、クラムシェルの思いがけない激しい反応によって遮られている。
「お母様がそんなことをするわけがないでしょうっ」
そう叫んだクラムシェルは怒気を纏い、全身を震わせていた。
「お母様は優しかった。私のことを心から愛してくれていた。私のことだけを考えてくれていたわ。殴られたどころか、手を挙げられたこともない」
そう激しく感情を叩きつけたのである。
苛烈な意思で虐待を否定し、そればかりかセレスタインに詰め寄り、罵った。従順で聞き分けがよかったクラムシェルからは、考えられない態度の急変であり、かつて見たことがない激昂であった。
クラムシェルはあっけにとられるセレスタインを強い視線で睨み付けると、
「もう二度と、馬鹿げたことを言わないで」
そう吐き捨てて、夕食の場から立ち去ったのだ。
クラムシェルの怒りはそれでは収まらなかった。
ある噂が修道院で流れ、それがゴシップ紙に掲載されたのである。それは、セレスタインがクラムシェルを財産狙いで狂人扱いし、殺害しようとしている、というものであった。
驚いたセレスタインがその噂の出所を探ると、何とクラムシェル本人であることがわかった。クラムシェル自身がその妄想を周囲に吹聴し、噂として広め、ゴシップ誌の記者に漏らしたことが判明したのである。彼女はそれまで虚言症の被害を免れていたセレスタインへ矛先を向けると、様々な悪評と妄想を吐き散らすようになったのである。
その内容にセレスタインは驚愕し、クラムシェルの扱いに困り果ててしまう。何とか話し合いをし、それ以上の妄想を振りまかないように諭したものの、腫れ物を扱うようにしか接することができなくなった。医師もクラムシェルの妄想を宥めることで精一杯だった。
やがてクラムシェルはげっそりとやせ細り、眼差しだけが炯炯と狂気の色を帯びるまでになっていった。悪夢はますます色濃く彼女の現実を浸食し、生気を奪っていった。医師とセレスタインは打つ手を失い、更に強烈な睡眠薬を処方するなどの対処療法しかとれなかった。クラムシェルの妄想は激しさを増し、現実と虚構の区別がつかなくなっていった。周囲が持て余す中、それでも治療の糸口さえ見つからず、その病名さえも定めることはできない状況であった。
セレスタインは、クラムシェルを、精神病患者として閉じ込めざるを得ない状況にまで追い込まれていた。
しかし状況は再び好転する。
治療不可能と思われる悪夢が、一夜にして消え去ったのは、頻繁に悪夢に苛まされるようになって三カ月後のことであった。
クラムシェルを悪夢から解き放ったのは、医師の治療でも、叔母の言葉でもなかった。少女は自分自身の力で悪夢の正体を突き止め、封印し、克服することに成功するのである。
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