2章 ふたつ名 Ⅴ 追想セイレン ①
セレスタインはフォルスネイムのの解釈を聞き終えると、一つ小さなため息をついた。しばらく何かを思案すると、医師に向き直ってこう切り出した。
「確かに、あなたの推測は、昨今流行りの推理小説の域を出てはいないものの、概ね間違っていないと思います。あの日、姉様は恐らく、嫌がるあの子を無理やり岬の断崖へ引きずっていき、共に飛び降りたのでしょう。その手に人魚姫の物語を持っていた、というのは、今となっては確かめようがありませんが、それほど無理のある推理ではない。確かに姉様は、人魚姫という物語に特別な愛着があった。取り付かれていた、そういってもいいほどに。ですが、あなたの推理と私の想像では、決定的に異なっている点があります。
それは悪夢の正体です。そして、あなたが言及していない、あの子が吐いている嘘に関する点です。あなたの答えは医師としては正解なのでしょう。だが、私はあなたが知らない事実を知っている。私はあの子の母親の実の妹なのです。セイレンという人間について、あなたがゴシップ誌や知り合いの精神科医から得た以上の情報を、私は知っている。世間一般で語られている姉様とは異なる姿。その本性と言ってもいい、世では知られざる面を。
話して差し上げましょう。そもそも今まで黙っていたことが、間違いだったのかもしれません。身内の恥であり、一族の、財閥の醜聞に属することであったため、話せなかった。いえそれだけなら、私は話していたでしょう。この話しができなかったのは、誰よりも母親に焦がれ、今でも帰りを待ち続けている不憫な娘、クラムシェルのためだったのです。
お分かりだと思いますが、改めて念を押しておきます。
今から話す事は、誰にも話してはなりません。日記や診察記録に残すことも禁じておきます。もしも秘密がばれた場合、それはあなたの口からということになる。そうなった場合、あなたの命の保障はできかねます。私達には、そのようなことなど、雑作もない。私のお話ししている意味が、ご理解いただけますね。
悪夢の正体――それは、あの子が姉様に虐待を受けていた、その記憶だと思います」
セイレン姉様は、小さい頃から神童としてその名を轟かせておりました。頭脳は明晰で、芸術的な感覚にも驚くほど優れていた。神童とは言い過ぎではなく、それに相応しい才覚の持主でした。それに気付いた両親から、財閥独自の帝王学を叩き込まれ、徹底した英才教育を受ける中で、その才能を伸びやかに育て上げられたのです。十人以上の専属の家庭教師が、セイレンお姉さまのためにそれぞれの哲学を注ぎ込んだのです。
長じてからマリブロの再来と呼ばれるようになったのは、その教育の影響があったからです。世間で軽々しく使われる天才という言葉、それは、姉様に関しては間違っていなかった。確かに、生まれもって天から与えられたものが、違っていた。ただその上には、「狂える」という言葉を冠した方が相応しかったでしょう。
姉様は才能に溢れる一方で、エキセントリックで、サディスティック、ことさら独善的な人間でした。財閥の長子として帝王学を学ぶ中で、そうなったのではないと思います。恐らくは才と同じく生まれつきのもの。現実離れしているというか、常軌を逸していた性を持っていました。ある種のサイコパスと言ってしまっていいほどに。他の人間では躊躇してしまうところ、踏み込めないところで、平気で足跡を付けながら突っ走るところがあった。怖いもの知らず、というか、怖いもの見たさ、というか、私からしてみれば、破滅願望としか思えない行動が、幼少期より多々見られたのです。
また、他人を認められないという性格的な欠点を持っておりました。これは帝王学的にいえば、先天的な王の資質の一種とされるようですが、私はそうは思いません。人としての欠陥であると思います。周囲のものが言うことを聞かなかったり、言われたことができないとき、相手の人格を否定し、攻撃しました。自分が容易くできてしまうからでしょう。できないことが分からない、できない人間の心理を理解することができない。許容できないのです。私も、そんな姉様にはずいぶんと苦しめられました。
私たちは共に育ちましたが、家庭教師も、授業内容も、教育方針も全く異なるものでした。姉様は両親よりその才を認められ、その才を可能な限り伸ばすためのカリキュラムが財閥の帝王学者によって組まれていたのです。私はと言えば、幼い頃こそ帝王学を受けておりましたが、その才能を早々と見限られると、両親の関心は薄れ、姉様とは異なる家庭教師達に、比較的自由なスケジュールで育てられておりました。
成長していく姉様をその傍らで眺めながら、私が感じていたことは、このような人間に権力を持たせてはいけない、という思いです。
ただ両親は違っておりました。私達の両親は、姉様のそのような面まで含めて、財閥を継ぐに相応しい人格、才能だと絶賛していたのですから。
姉様は今でこそ「セイレンブルーの人魚」という呼び名が広まっておりますが、各方面で多彩な二つ名がありました。
七天マリヴロの再来、美神テナイの化身、新薬調合の錬金術師、ロマンスの女帝、アルビオン家の天災、黒林檎の魔女…
好ましいものだけではなく、ゴシップ誌や陰口などで使われるものもございました。中でも姉様自身が気に入っていた二つ名がございます。それは、黒林檎の魔女というものです。実は、この二つ名を広めたのは、姉様自身なのですよ。他人に付けられる二つ名が気に入らないといって、自らのこの仇名が広まるように仕組んだのです。それに乗せられ、世間はこの不吉な二つ名で姉様のゴシップ記事を書きたて、その名を広めました。姉様はその記事を読みながら、実に愉快そうな表情を浮かべておりました。それだけで、姉様が常人とは異なる精神を持った人間だとお分かりになるはずです。
身近で姉様を知る私が、彼女を表現するに相応しい言葉を、三つ挙げましょう。歪んだ完璧主義者、独占欲の権化、才長けた独裁者、これこそが姉様の本質を現す言葉です。
姉様は、自分の作品の製作過程を他人に見せることを徹底的に嫌いました。それは、完成作品に先入観を持って欲しくないため、そう関係者には言っていましたが、違います。姉さまは、失敗するところを誰にも見せたくなかったのです。他人の失敗を認められない一方で、自分の失敗も許せなかった。認めたくなかったのです。ですから、数多の失敗作を作っては誰にも目に付かぬように焼却して処分しておりました。満足のいく作品が完成するまでは、決して、誰にも、披露することをしなかった。病的といわれるまでに、それは徹底していました。
歪んでいる、と冠したのは、自分の失敗を見せたくないばかりに、失敗の全てをなかったことにしてしまう、という側面があったからです。これは比喩でもなんでもない。
姉様は失敗したことを、全て、本当に忘れてしまうのです。そのようなことなどなかった、記憶していない、と。現実を自分の意思で、理想で、偏見で、書き換えてしまうことができた。記憶の改竄を、自らの意志によって行うことができたのです。
極端に言えば、姉様は、思い込みで世界を自在に作り変えてしまうことができた。大地は丸いという定説を、思い込み一つで覆してしまうことができた。他の誰もが違うと言っても、それを否定することができた。だからこそ、新しいものを生み出し、その想像力と意志の力で、強引に世界を象ることができたのです。
私は、姉様に幼い頃より劣等感を抱いておりました。何もできない無能者、そう姉様には思われておりました。幼少期は姉様に勉強やレッスンを教わることもありましたが、姉様はすぐに苛立ち始め、呆れ、怒鳴り、最後には決まって暴力を振るうのです。それも誰にも見られていない場所で。両親に言おうとも、姉様を溺愛する両親は、私を非難する始末でした。
私は姉様を恐れ、教わるのを拒絶するようになりました。姉様は私のことなど、できそこないの召使いか執事見習い程度にしか思っていなかったでしょう。
その一方で、独占欲というものも強烈でした。両親の愛情、周囲の視線、優れた芸術作品、それらを集めずにはいられないのです。そして自分の所有物に対して、他のものが手を触れることを嫌いました。
かつて私と姉様が修道院に通っていた頃のことです。私が他の生徒から嫌がらせをされたのです。よくある、出自を妬んだ陰湿で他愛無いものです。姉様は修道院では一年次から支配者として君臨しており、逆らえるものなど一人としていなかった。だから、その矛先が私に向けられたのです。
姉様自身は既に私への興味を失っており、召使としても扱ってもらえなくなっていたのですから、嫌がらせをした生徒達も、姉様が見咎めるとは思っていなかったでしょう。
しかし、私は姉様に何も言っていないにも関わらず、私に嫌がらせをした生徒達がみな、一人ひとりと修道院を去っていったのです。それも、修道院中の生徒からあらぬ噂を立てられ、濡れ衣を着せられた挙句の、不名誉極まる退学処分でした。
後で分かったことですが、それは姉様が裏で糸を引いて行ったことでした。最初は私のことを気にかけてくださったのだと思いましたが、そうではなかった。姉様は、私を自分の所有物の一つだと思っていたのです。興味を失ったとはいえ、自分の所有物に手を出されたことにプライドを傷つけられ、腹を立てていたのです。
後から判明した退学した者達へのその後の処遇は、聞くだにおぞましいものでした。退学後、全員が精神を病み、入院してしまったほどに。調べてみると、生徒達の親の稼業も、時を経ずして成り立たなくなっておりました。そこにも、姉様の意思が働き、財閥の権力が行使されたふしがありました。
それから、私は姉様を心底恐れるようになりました。
長じてから姉様はゴシップ誌に載るようなスキャンダルを幾つも巻き起こし、財閥に泥を塗りました。やがて精神のバランスを崩し、創作活動も、研究も、任された経営も行き詰りました。
両親もしばらくは財閥の力で姉様を守っておりましたが、それにも限界があった。血族から、一族の長子としての責任を問われるようになっておりました。そんな頃です。姉様が、父親が不明の子を身ごもったのは。
父親が誰であるのか、姉様は決して明かそうとはしませんでした。或いは、どの男が父親なのか分からなかったのかもしれません。姉様は実に奔放な夜を送っておりましたから。
ええ、財閥において、血の継承は何よりも大切なこと。莫大な財と権限を分け受け継ぐかもしれないのです。遺産争いや、家督継承争議などの後顧の憂いを立つためにも、その出自ははっきりさせておかねばならない。下手をすれば、私達本家が、他の血族の家系に乗っ取られてしまう可能性もある。
両親にも、他の血族の一門から、様々な圧力があったはずです。私でさえ、精神を狂わせてからの姉様の尻拭いで、ほとほと困り果てていたほどです。
そのことで私は姉様を責め立てました。しかし、私の言葉には耳を貸さず、姉様はうっとりと陶酔した顔で、自らの僅かに膨らみかけた腹を愛おしそうにさすりながら、こう言い放ったのです。
「この子は、最高の素材、きっと生涯最高の作品にしてみせる」
ぞわりとしました。その目に宿った強烈な光に、そこには狂気を感じずにはいられなかった。私は幾度も、そのような眼差しを、そこに宿った光を見たことがあった。姉様がその光を宿したとき、決まって想像を越える悲劇が起こっているのです。どのような悲劇か、それは申し上げられません。一切の記録には残っていない。財閥が、あらゆる権限を総動員して握り潰し、塗り替え、この世から消し去ったことの数々…それは姉様の狂気の発露だった、とだけ申しておきましょう。
姉様はおっしゃいました。
「もう財閥には迷惑をかけない。経営からも、研究からも、芸術からも手を引き、この子を育てることに、私は専念するわ。私が自ら最高の教育を施すわ。芸術家として、最高の環境を与えてあげるのよ。財閥は、そのために万全のサポートだけしてくれればいい。財閥の継承権など放棄しても構わない」
言葉だけをみれば、愛情深い母親の台詞のように思えます。ですが、姉様を知っている自分からすれば、やはり常軌を逸していると思わずにはいられないのです。
姉様は少しだけ私に話してくださいました。その理想の教育計画、その一端を。世俗とは離れた環境で、たった二人きりとなって理想の教育を施す。芸術家として選び抜かれたものだけを与え、子供ために世界を作り上げる。そんな話を、夢見るようなうっとりした顔で聞かせて下さいました。
それだけ聞くと、さほどおかしなところはない。しかし考えてもみて下さい。幼稚舎にも通わせず、友達も作らせず、世間とは隔絶された環境、海辺の崖に建てられた屋敷での、二人きりでの暮らし。友人どころか、二人の暮らしを知るものは誰もおらず、あの子の名を知るものさえも、一人たりとも発見されていないのですよ。
どうですか、異常だとは思いませんか。そもそも、姉様の口にした理想的な教育、というものが、私達の常識の範疇に収まるものではないことを、姉様を知らぬ人は分からないのです。
考えてみて下さい。絵画を描く芸術家が、自分以外の人間に作品を手伝わせたりしようとするでしょうか。一筆たりとも許しはしないでしょう。それと同じなのです。
そのことを頭に留めた上で、姉様の台詞を、今一度思い出して下さい。
――この子は、最高の素材、きっと生涯最高の作品にしてみせる…
そう、姉様は、お腹の中にいる赤子を、既に自分の作品のように考えていたのです。歪んだ完璧主義者であり、才長けた独裁者であり、独占欲の権化である姉様が、あの子を所有物として捉えていたのです。
その後、姉様は赤子が流れてしまったとだけ言い残し、世間から姿を隠しました。傷つき疲れ果てた体と心を療養するため、マスコミや財閥関係者の目から逃れるためだということでした。ええ、その所在だけは私達、近親の親族には伝えられておりました。生まれてきた娘と暮らすつもりであった屋敷で隠遁生活を送っている、というものです。
そして、幼少期より姉様を知るオブシディアンが、その面倒の一切を見ている、と。
ええ、子が流れてしまったというのを、私は信じておりました。なぜ?
主治医からもその報告がありましたし、ハリ様からご報告を受けたからです。
当時は、妊娠自体も嘘、姉様の虚言癖の一種だったのではないかと訝ったぐらいです。
奇妙なのは、子が流れたと私に伝えた時、姉様に悲しみの色は見えなかったことです。
報告を受けたとき、流石に傷心しているのではないかと、慰めの言葉をお掛けしました。
「残念でしたわね、姉様」
それを聞いた姉様は、爽やかな笑顔を浮かべ、何とこう言ったのです。
「これで周囲にとやかく言われることはないわね。清々したわ。体も軽いし、ダンスも踊れる。一気に数キロの贅肉を落としてダイエットをした気分ね。すっきりしたわ」
そう言うと、私の目の前で楽しそうにダンスのステップを踏んだのです。信じられますか。それが姉様の常識なのです。
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