2章  ふたつ名 Ⅳ 破裂する泡 ③

 さて、悪夢の引鉄が判明したことで、症状が改善する糸口がつかめたように二人には思えた。たとえ、人魚姫がなぜ悪夢に引鉄なのか、悪夢の正体とは何かが分からずとも、とりあえず人魚姫の物語を読むことをやめてしまえば、悪夢の見なくなるはずだろう、と。しかし日記との際と同様に、期待は再度、裏切られる。

 続くクラムシェルの告白によれば、彼女は悪夢が頻発し始めた時期に、不眠症に耐えかねて、所有する全ての人魚姫の書物と図書館の本を燃やしていたのである。このままでは、悪夢に押し潰されてしまう――そう感じて、手元に置いていた人魚姫の物語を、暖炉で一晩かけて燃やし尽くしてしまったというのだ。

 「――ええ、それ以後は新しい人魚姫を借りることも、買うこともしておりません。

 自分でも不思議です。理由は分からないのです。あれだけ執着し、読まずにはいられなくなっていた人魚姫の物語、その書物に、興味がなくなったのです。以前のような気持ちが、消えてしまったのです。確かそれは、悪夢の頻度が本格的に増して不眠症に陥り、睡眠薬に頼らざるを得なくなった頃のことです。人魚姫のことを考える余裕も、欲求も、いつの間にか失ってしまったのです。だからもうずいぶんと人魚姫は読んでおりませんし、手元にもありません」

 つまり、この証言の時点で既に彼女は、人魚姫の物語を読むことをやめてしまっていたのである。引鉄である人魚姫の物語を読むことなく、悪夢は連夜クラムシェルを襲うようになっていたのである。

 この理由に関するフォルスネイムの分析は、

 「悪夢が頻発するのと機を同じくして人魚姫の物語に興味を失ったのは、もやは引鉄として人魚姫を必要としなくなったからだと推察される。すなわち、悪夢が呼び水としての人魚姫を使うことなく、クラムシェルの記憶の奥底から這い出してこられるようになった、ということの表れではないか。

 悪夢の正体が何かは、医師により見解が分かれるところだが、どちらにしても、その記憶が蘇る日が近づいているのではないだろうか。つまり、悪夢とは失われた何らかの記憶であり、それが蓋を開けて表層へと出てこようとしているのではないだろうか。一方でクラムシェル自身は、思い出したい記憶と思い出したくない記憶、その狭間で、思い出したいという想い、思い出したくないという恐怖という矛盾した二つの感情を抱え、結果として精神のバランスを崩してしまったのではないか」

 というものであり、これに関しては他の医師やセレスタインの意見も一致している。

 しかしなぜ、それの引鉄が人魚姫という物語であったのか、その理由そのものに関しては、クラムシェル自身も含めて分かってはいなかったのである。

 この段階で、フォルスネイムは悪夢の正体に関して考察し、推測として一つの結論を出している。そしてセレスタインもまた、医師たち対話を交わす中で、自分なりの解答を導き出していた。どちらの答えも、クラムシェルが咄嗟に発した一つの台詞を鍵として導き出されたものである。その台詞とは、先に取り上げた、クラムシェルが悪夢に魘された夜に錯乱して発した言葉、

 「はなして、ママ」

 という無意識下での叫びである。

 というのも、この言葉を最初に発して以後、クラムシェルは何度もこの言葉が口にするようになっていたからである。悪夢に魘されているクラムシェルを呼び起こそうとした召使や医師、看護師が、微かな譫言の中で何度も耳にしているのである。この台詞を発する以前では、悪夢に魘されているクラムシェルは、苦しそうに悶え、呻き声を上げることはあっても、意味を成す言葉を喋ることは殆どなかった。しかし、錯乱して初めてこの台詞を叫んでからは、はっきりと譫言として発しているのを何度も確認されているのである。それが発せられるのは目覚める瞬間が多かった。この台詞を叫ぶと同時に、クラムシェルは悪夢から目覚めるということが度々あったのである。

 この一つの台詞を鍵として導かれたフォルスネイムとセレスタインの解答は、しかし全く異なったものである。

 次に記すのは、クラムシェルを身近で観察し続けたフォルスネイムの考察である。人魚姫の件が発覚後しばらくしてから、セレスタインはフォルスネイムに、悪夢の正体に関してその時点での見解を求めている。その時の対話の記録を抜き出したものである。

 「――私が思いますに、白い悪夢とは、やはり、海難事故の記憶である可能性が高いと考えられます。お嬢様は頭部挫傷によって一度全ての記憶を失い、脳障害の影響からか言語そのものも失っていました。結果、強烈な幼児退行症も発症していた。その後、少しずつ記憶を取り戻していきましたが、それは断片的なシーンのようなものでしかなかった。ことに、事故当時の記憶は、その前後のことは一切覚えておらず、遡ってすっぽりと失われています。事故前でお嬢様が最後に思い出した記憶は、母親の日記に記されていた、事故の一ヶ月前に旅行に連れて行ってもらったことです。つまり、それから事故までの一ヶ月間の記憶は、まるまる抜け落ちてしまっているのです。

 海難事故がどのようなものであったのか、真実は分からない。だが、医者として、当時のカルテや症状から推測はできる。お嬢様のお母様は、エキセントリックな芸術家で有名な方でしたが、私は改めて詳しく調べてみたのです。もともと様々な逸話があるお方ではありましたが、それ以上に色々な情報が、まあゴシップじみたものも多かったですが、見つかりました。精神科に通っていたこともあった。その当時の主治医は、流石に情報を私に流すようなことはありませんでしたが、こう言っておりました。

 あの方は天才ではあったが、ゆえに狂気に取り付かれていた、と。

 まあ、それらのことに関しては、共に育った貴女様のほうがお詳しいと思います。様々なエピソード群から、お嬢様のお母様が精神的に不安定な人物であったことは疑う余地がない。ご自分の日記にはそのようなことは記されてはおりませんが、日記は都合よく美化されて書かれるものです。

 お嬢様の頭の傷は、恐らく岩礁にぶつかってできたものです。引っかかっていたドレスの切れ端からも、お嬢様が、白亜邸の岬から落ちたのは間違いないと思われます。

 では、なぜ落ちたのか。正直申しまして、お嬢様が自ら飛び降りるとは考えにくい。

 そこで鍵となるのが、『はなして、ママ』というあの台詞――あれは記憶の奥底から浮かび上がった泡。無意識で発したあの台詞こそが、事故当日の失われた記憶の欠片だと考えられるのです。

 今からお話しすることは推測でしかありませんし、言い辛いことではありますが、はっきり申し上げましょう。

 お嬢様は恐らく、行方不明となったお母様と一緒に、あの岬から落下したのです。

 つまり――あの事故は、母親による無理心中だったのではないでしょうか。

 お母様が、嫌がるお嬢様の手を引き、二人でその身を投じたのです。

 お嬢様は運よく即死を免れ、浜辺に流れ着いた。お母様はまず間違いなく、岩場に体を叩きつけられて亡くなっているでしょう。あの岬の崖から落ちてお嬢様が助かったこと自体が、奇跡に等しい。

 お嬢様が思い出した記憶の全てが、幸福な母子の想い出に纏わるもの。一つとして、不幸な記憶はない。だから、事故当時の母親の狂気を思い出すのが恐ろしいのでしょう。考えても見てください。あの岬を、正気を失った母親に手を掴まれながら、断崖へと引き摺られていくことを。どれほどの恐怖が、お嬢様を襲ったのかを。その恐怖が、事故の衝撃、強烈な傷みと相まって、過去を思い出す障害となっている。障害といっても、それは安全装置のようなもの。強烈な恐怖と傷みは、思い出してはいけないものなのです。トラウマになってしまうため、脳が事故防衛本能から制限をかけるのです。私は可能性の一つとして、以前からこの推察を立てておりました。ですから、無理に過去を思い出させるようなことをしなかったのです。

 今、お嬢様を悩ませている悪夢の正体とは、その狂気の母親との無理心中の記憶。そのようなものなど、思い出さないほうがよいのです。そのような現実など、例え真実であっても、お嬢様に突きつけてはいけないのです。思い出した記憶の断片。素晴らしいお母様との記憶だけを抱き続けていけるのならば、それでいいのです。

 ですから私としては、悪夢を呼び覚ますことなく、このまま記憶の奥底に再び封じ込める手だてを探すべきだと思います」

 セレスタインはフォルスネイムのこの見解に対し、ひとしきり頷き、自らの中で咀嚼した後、異なる質問を重ねている。

 「では、人魚姫のことはどうお考えですか。なぜあの子が、人魚姫の物語に異常なほどに執着する――いえ、していたのか。なぜ人魚姫が、あの子の悪夢の引鉄であったのか。そのことは、どのように説明が付くのでしょう」

 「そのことですが、私も考えてみたのです。人魚姫にあれだけ固執し、それが悪夢の切っ掛けになるということは、過去の記憶の扉を開く鍵になっているからだと思われます。事故の当日、人魚姫の物語を読んでいたのではないしょうか。それがお嬢様自身で読んでいたのか、お母様が読み聞かせていたのかは分かりませんけれど。

 ええ、確かに年齢的には読み聞かせるような年齢ではありません。だがご存知のように、彼女の残した日記には、娘のためにたくさんの物語を読み聞かせてやっていたことが記されています。お嬢様が自分で読むことができるようになってからも、お母様は好んで読み聞かせを行っていたことが綴られています。」

 「しかし、あの屋敷には、一冊も人魚姫の書物はなかった」

 「そうなのです。私もそれが不思議でした。しかし、お嬢様があれだけ人魚姫の物語に執着しているのですから、屋敷にはその本があってしかるべきだ。ですから考えてみたのです。あるはずのものがないということは、答えは複雑ではない。お嬢様が成長したため捨ててしまっていたか、或いは…海に二人で落ちていくときに持ち出していたか、です」

 「持ち出してた? 人魚姫の書物を、ですか? なぜそんなことを」

 「人魚姫の物語のラストシーンをご存知でしょう。恋に破れた人魚姫が、王子を恨むこともなく、海へと身を投げて泡になってしまう、というものです。

 セイレン様は、恋多き方だった。さらには、倫理に縛られない奔放な方だった。お嬢様の父親が誰かは定かではありませんが、その候補者は両手の指では足りないほどです。派手な恋愛遍歴があり、彼女のために人生を狂わされた殿方は多く、また逆に、あの方自身も、幾度かの自殺未遂騒動を引き起こしております。それが本気であったのか、パフォーマンスであったかのかは分かりませんし、恋愛がらみだけが理由ではないでしょう。創作活動の行き詰まり、研究の頓挫なども考えられます。

 ただ、貴女様に以前教えていただいたように、人魚姫の物語はセイレン様も幼少期から好んでいた物語。それに、長じてからは、自身が『セイレンブルーの人魚』と呼ばれておりました。人魚とは、お母様が芸術家としての壁を打ち破ってからの作品群において通低する特徴であり、一貫したモチーフであった。

 そのことは、貴女様もご存知でしょう。

 このことから推測されるのですが、そもそも人魚姫にとりつかれていたのはお嬢様ではなく、恐らくは、セイレン様の方だったのではないでしょうか。

 悲劇のヒロイン病という精神病をご存知ですか?

 それは幸福を恐れる心の病。恋が成就してしまうと、途端にその恋への興味を失い、想いは色あせてしまう。うそ臭いものになってしまう。そして新たな恋を探そうと、褪せた恋を偽物だったと捨ててしまう。手の届かぬものばかり欲しがり、それを手にするためには手段を選ばない。周囲の迷惑など顧みない。にも関わらず、いざ手に入ってしまうと、再び捨て去ってしまう。

 手が届かぬものほど欲しくて仕方がなくなってしまう、そんなやっかいな精神構造です。

 これは天才肌の芸術家や大企業家にしばしば見られる特徴ですが、私がセイレン様の過去の行動を遡って調べたところ、彼女はまさにその典型。その美貌や才覚、出自、手にした権力そのものも突出していたために、その症状にも歯止めが利かなくなっていたのでしょう。手に入らぬものばかりを追い続けるようになり、その結果は決まっております。終わらぬ切望と、繰り返される失望、そして底知れぬ絶望です。

 セイレン様はきっと、そんな恋を繰り返してこられたのでしょう。幸福を恐れるというのは、物語が終わってしまうことが怖いからです。ハッピーエンドで終わる物語は、その先がない。だから、終わらない恋に焦がれる、人魚姫のような悲劇のヒロインに憧れてしまうのです。

 繰り返し申しますが、全ては推察の域を出ないこと。恐らく事故の起こった日、そういった絶望の類が、セイレン様を衝動的に突き動かしたのではないでしょうか。人魚姫に憧れる一方で、叶わぬ恋に絶望したあの方は、その身を海へと投げた。片方の腕で、人魚姫の物語を抱き、もう片方の腕で、公にできない娘を道連れにして。あの岬を飛び降りたのではないでしょうか。

 これは私の推理、いや妄想の類でしかありません。証拠はない。ですが、お母様のことを知れば知るほどに、私はこの推理に確信めいたものを感じてしまうのですよ」

 フォルスネイムはこのようにクラムシェルの深層心理を解釈し、事件の概要、悪夢の正体、人魚への執着を分析している。これに対し、セレスタインは異なる観点から、クラムシェルの症状を読み解いている。次に記すのは、フォルスネイムの推理が披露された後、セレスタイン当人の口で語られた、悪夢に関する考察である。

 それを聞いたフォルスネイムは、その話の内容に関して、取調室でこう表現している。

 「私が推理を披露した後、セレスタイン様から俄かには信じがたい告白を聞いたのです」

 それは、セレスタインによる姉セイレンの追想である。といっても、フォルスネイムにの取調室での回想録を基にしたものだ。無論、フォルスネイムが全てを覚えていた訳ではなく、文字として残されていた部分は僅か、尋問時に傷みに耐えかねて言い繕った部分もある。調書は読みにくく、意識が朦朧としていて支離滅裂な箇所も散見された。流石に悲鳴などは記録されていないが、原文のまま記すには読むに耐えない。そのために私が、セレスタインが語ったように編み直したものであり、語り口やディテールについては読みやすいように体裁を整えたものだ。

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