2章  ふたつ名 Ⅳ 破裂する泡①

 このように、入学して一年が過ぎた頃から、クラムシェルは頻度を増していく悪夢によって心のバランスを崩し、医師たちの努力も虚しく、その精神状態は悪化の一途を辿っている。そのままでは心身ともに限界が来てしまうことは明らかであった。それを救おうとする主治医フォルスネイムとセレスタインの解答は、当然、一つ。

 悪夢からの解放、である。

 フォルスネイムもセレスタインも、かつてはクラムシェルに対して腫れ物のような悪夢に触れぬようにしていた。しかし、悪夢が夜ごとにクラムシェルを悩ませ、現実を侵食してしまうまでとなっては、その正体としっかりと向き合わなければならなかった。そのことが、二人からクラムシェルに告げられた。

 しかし当のクラムシェルの反応は虚ろなものであった。このときクラムシェルは、悪夢に関してフォルスネイムにこのように話している。

 「悪夢の正体と向き合わなければならないなんて、分かっているわ。でも、どうしても思い出せないのよ。目覚めたときには、既に忘れてしまっているのですもの。夢の欠片さえ残されていないの。覚えているのは、真っ白い、どうしようもなく恐ろしいものから逃げていたというイメージ、その恐怖感だけなのよ。

 そう、夢の内容ではなくて、目覚めたときの悪夢のイメージだけは、言葉にできる。

 真っ白な空間で、巨大な何かが蠢きながら背後から襲いかかってくるのよ。私は前も後ろも分からず、何処に向かっていいのか、何処を目指せばいいのかも分からないまま、いつまで逃げ続けるの。終わりのない、目的さえ分からない逃避行。ただただ不安でどうしようもない。立ち向かうことなんてできはしないわ。だって、飲み込まれてしまうのだもの。あの真っ白な悪夢に。そうなったら、きっともう二度と帰ってはこれない。それだけは確信できる。覗き込もうとするだけで体は竦んでしまい、悪夢の奥深くに引きずり込まれてしまうのよ。悪夢を見た翌朝は、そんな強烈なイメージと耐え難い恐怖、全身にかいた冷たい汗だけが、私には残されているの」

 フォルスネイムはこの台詞に、クラムシェルの悪夢と対峙する事への恐怖と諦めを感じ取っている。

 また、ここで追記しておきたいのは、この当時、セレスタインがクラムシェルと二人きりになったある時、医師と擦り合わせた見解とは全く別の問いかけをしていたことである。

 セレスタインは悪夢の正体について、クラムシェルにこう問いかけているのだ。

 「クラムシェル、嘘はやめてね。本当に、あなたは思い出していないのね。悪夢が何か、分かってはいないのね。知っていて、知らない振りをしている…思い出しているのに、忘れてしまった振りをしている…そうではないのね」

 その質問に対し、クラムシェルは凡そ珍しいことであるが、セレスタインへ強い反発を示している。

 「どういうことでしょう、叔母様。まるで、私が悪夢の正体を隠しているかのような言い草ではありませんか。改めて申し上げますが、断じて私は思い出してなどおりません。叔母様こそ、私の悪夢がどのようなものか、既にご存知のような物言い。どうぞ、隠さずにおっしゃってくださいませんか。私がどのような悪夢を見て、それをどのような理由で隠しているとお考えなのか」

 その強い敵意が込められた返答に、セレスタインは口をつぐみ、それ以上の言及を避けている。このやり取りから、セレスタインがこの時点で、悪夢の正体について一つの可能性に思い至っているのは明白である。そしてそれを、医師には言えずにいる、ということも推測される。

 この時点でセレスタイン自身は、悪夢に関してある考えを抱いていたものの、それを告げるのも、悟られることも躊躇っていたものと考えられる。その理由としては、彼女自身の思い描いた真相が、もし正しかった場合、クラムシェルを深く傷つけ、また財閥にも多大なる損害を及ぼす内容であったからであろう。

 八方塞がりと思われたこの状況で、思わぬところから事態は動き始める。

 クラムシェルに関して奇妙な情報が修道院からセレスタインへと寄せられたのである。

 それは修道院の図書館の司書からであり、用件は、貸し出し図書の返却の督促であった。クラムシェルが多くの図書を借りたまま、返却期限が過ぎてしまっている、というのである。体調を崩してしまったため返却を忘れてしまったのだろう、軽い気持ちで報告を聞いていたセレスタインは、書名を聞いて言葉を失った。

 それは「人魚姫」であった。四冊の返却督促の書物、その全てが「人魚姫」の書物であったのだ。

 セレスタインは急遽、司書からクラムシェルの図書の貸し出し記録を取り寄せた。クラムシェルは数多の本を借りていたが、その殆どを期日内に返却していた。そして記録されていた書物の多くは、クラムシェルから感想とともに聞かされたことのあるものであった。だが、注意深く記録を遡っていくと、すぐに奇妙な点に気付いた。貸し出された書物の中に、人魚姫が何度も登場しているのだ。同じ人魚姫を本を何度も借り出しては返却していることに留まらず、他の書物、他の言語、他の版元、他の国の人魚姫の書物を片っ端から、時を隔てながらも定期的に借り出しているのである。数ヶ月に一度、時には一ヶ月に一度、クラムシェルは他の書物と共に何らかの人魚姫の書物を借り出し、そしてその本に限っては必ず翌日に返却しているのだ。

 このときセレスタインは、一つの事実に思い当たっている。

 ――あの子が悪夢を見始めたのも、私が与えた人魚姫の絵本を読んでからのことではなかったかしら…。

 セレスタインはこのことに気付いたとき、得体の知れない異様さを感じ、また無視することのできない違和感を覚えている。その正体を探るため、セレスタインはクラムシェルが人魚姫を借り出した期日と、診察記録から悪夢を見た日を照らし合わせてみた。すると、やはりというべきか、驚くような結果が浮かび上がった。

 クラムシェルが悪夢の症状を訴えたのは、何れも人魚姫を借り出したその翌日であった。つまり、人魚姫を借り出したその夜は決まって、悪夢に魘されていたのである。

 セレスタインにその事実を知らされたフォルスネイムも、驚きを隠せなかった。奇妙な点が幾つもあった。

 なぜクラムシェルは何度も人魚姫という書物を借り出しているのか。

 なぜ、人魚姫の物語を借り出したその夜に限って、悪夢を見るのか。

 更に、当然、クラムシェル自身も、人魚姫が悪夢の切っ掛けであることに気付いているはずである。にも拘らず、その事実を誰にも告げず、しかも、あれだけ悪夢を恐れているにも関わらず、再び人魚姫を借り出しているのは、一体どういうことなのか。

 これらの点は、一つの疑問へと集約される。即ち――

 人魚姫の物語とは、クラムシェルにとって何なのか。

 そしてセレスタインの更なる調査で、新たな真実が発覚する。

 クラムシェルが街の書店でも、何冊も人魚姫の物語を買っているのだという。図書館と同じように、版元の異なるものを買うこともあれば、他の国の版のものを取り寄せて買うことも、積み上げられた同じ本を纏めて購入することもあった。クラムシェルは、色々な種類の人魚姫の物語を買い漁っていたのである。

 その報告を聞いたセレスタインは、クラムシェルの人魚姫という物語への異常な執着心に、寒気を覚えている。

 この事実は、セレスタから人魚姫の件を聞いたオブシディアンが、書店に問い合わせて発覚したものであるが、クラムシェルは訝る書店主に対し、こう説明している。

 「私は人魚姫のコレクターで、世界各国の人魚姫の物語を集めているのよ」

 また別の書店主への聞き取り調査では、

 「人魚姫の物語、絵本の国ごとの色使いの違い、描かれ方の違いをテーマにレポートを書こうと考えているの」

 そんな発言をしたことも判明したのである。

 このことから、この奇異な行動に関して、クラムシェル自身も奇異だと自覚し、カモフラージュのために、言い訳めいた嘘さえ吐いていることが分かる。

 人魚姫の借り出し数、購入数は、日記を書かなくなってから増えている。それに伴って、悪夢の頻度も急上昇しているのである。人魚姫の物語が直接の悪夢の引鉄となっていることは、素人目にも明らかであった。

 人魚姫の冊数は、借り出した物を含めると、三十冊を越えていた――

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