2章  ふたつ名 Ⅲ 日記の完成④

  それらの症状は苛烈であり、 先に記したように修道院でクラムシェルを崇めていた人々にも波紋を与え、時に刃物となって人間関係を切り裂くこともあったし、鈍器のように人格を粉砕してしまうようなことさえもあった。それらのエピソードに関しては、ここでは述べない。

 ただその結果、展翅様という二つ名で呼ばれていたクラムシェルには、その周囲から人々が去った後、新たな二つ名が与えられている。その名にこの頃のクラムシェルの修道院での立場がよく表されている。

 曰く――魔女の娘。

 修道院の生徒たちは、密かにクラムシェルをそう呼ぶようになっていった。

 この名は、少女の吐く呪いの言葉、撒き散らす毒から来たものであったが、別の意味も含んでいる。アルビオン財閥と、行方不明の母にちなんだものでもあった。

 この二つ名の意味を説明するために、アルビオン財閥について少し記しておきたい。

 アルビオン財閥は創成期はチョークの製造などで財を成し、それから化学物質を扱う会社へと業態をシフトしていった。絵具や染料などを化学薬品によって調合し、市場を開拓していった。いわば色彩に纏わる分野のパイオニアとして成長した。その過程で、所有する化学物質の研究機関が目覚しい研究成果を挙げ、それを足がかりに巨大な製薬会社へと成長した企業である。扱うのは医薬品だけではない。むしろ、農薬、殺虫剤など、いわば毒薬の類で急激に業績を伸ばした。

 そのこともあって、よくゴシップで書かれたのが、財閥が人体実験を行っているのではないか、法に触れるような臨床実験を秘密の施設で行っているのではないか、という疑惑である。それは業界関係者の間で実しやかに語られるほど信憑性の高いもので、財閥の化学薬品の研究機関はそれほど急進的でかつ画期的な研究成果を上げていた。また、農薬では、人体への影響などを省みずに、殺虫効果や、農作物の発色効果を重視したものも多く、多くの被害例が報告されていた。それを買収などの手段でもみ消した疑惑も数多くあった。

 財閥はそのような成長を遂げた企業であり、各国の研究機関などからは、実験データの盗難、漏洩、秘匿など、産業スパイの疑惑なども多数報告されている。

 さらには某国の軍用の毒ガス兵器の開発にも手を貸しているとも噂され、財閥が扱っているのは医薬品ではなく、毒薬とその解毒薬である、と揶揄する報道関係者も多かった。

 実際に、アルビオン財閥の企業体質、その経営手腕は、自らの血に通う毒を敵対相手に注ぎ込むことで、中毒症、依存症を蔓延させ、アルビオン財閥なしではいられなくさせる、という点にあった。財閥は生き馬の目を抜く数多の業界をまたにかけ、まさしく多様な極彩色の毒をもって毒を制してきた。

 財閥はこの成長期以後、恐ろしい二つ名を冠することになる。有識者たちから、ある隠語で囁かれるようになる。

 ブラックアップルウィッチ――毒林檎の魔女、と。

 こう呼ばれるようになったのには、他にも幾つかの理由がある。

 まず、財閥のシンボルマークが白林檎であったこと(これは世界で生産されるホワイトアップルの殆どに、財閥の研究所で開発された農薬が使用されていた頃の名残である)。

 そしてまた、十数代にも渡って直系に男子が生まれず、女当主が財閥の統帥となることが続いたこと(これに関しては、男子が生まれない呪いをかけられたのだ、とか、農薬による影響ではないか噂されている)。

 更に、その歴代の女性当主と娘らが、代々ライバル企業の所有者と婚姻関係を結び、ほぼ乗っ取りに近い形でその資本と規模を肥え太らせていったこと(財閥では、新しい分野の進出は、自社開発ではなく婚姻関係による合併、子会社化によって行われた。有望で価値の高い技術と基盤、販路ごと根こそぎ奪ってきた。そのこと如くが成功し、財閥は飛躍的な成長を遂げてきた)。

 そしてセイレンは、その次期当主と目されていた人物であったのである。

 クラムシェルが魔女の娘と呼ばれるようになったのには、このような背景があった。誰がそう呼び始めたかは判明していない(皆、頑なに自分ではないと主張している)が、修道院の生徒たちは皆、財閥や大企業の子弟であり、グループ企業も含めれば誰もが何処かで繋がっている。そのことを考えると、噂が広まったのは驚くようなことではない。

 こうしてクラムシェルは、憧憬の的であった展翅様から、魔女の娘として忌み嫌われる存在にまで、その立場を貶めるという転落劇を演じることになった。

 この頃の医師への発言で、虚言症、妄想症、視線恐怖症のすべての症状を象徴する、興味深いものがある。

 クラムシェルは医師との対話中にこう口にしたのである。

 「周囲の人たちがみな、私を監視している。この修道院に閉じ込めて、私のことを観察している。鳥篭の鳥のように、水槽の魚のように、檻に閉じ込められた獣のように。そしてみんな私について口々に勝手なことを噂している。私を自分勝手に象り、思う様に自分の妄想を押し付けようとしている」

 真に注意すべきは、この台詞の次に続くシーンである。


 「そして何処かに、その噂の全てを集め、読み、聴いている者がいる。その『誰か』は影に隠れながらも全てを見通し、私を観察している。そうして、物語を書いているのよ。この私の、物語を。


 誰か? それが誰かなんて私には分かりはしない。でも、妄想なんかじゃない。確かに、いるのよ。私の全てを監視している人が。違うわ。叔母様のことじゃない。確かに叔母様は私のことを気にかけて、修道院でも情報を集めている。そんなことは通い始めた頃から気付いていたわ。私の言う『誰か』とは、その叔母様の集めた漏れるはずのない情報さえ、情報源の一つとして把握しているのよ。自分の存在すら気付かせぬままに。

 そして、私の情報をあつめ、心を見透かして、心情まで代弁して、第三者である物語の語り手のように、私の物語を綴っているのよ。嘘じゃない。きっと、今も、この私の言葉も、あなたの質問も、どこかで隠れて聴いている。こっそりと耳をそばだてて。私が何処にいても、何をしていても、その誰かは、私を見ているのよ。そう、物語の、読者みたいに。物語の登場人物が、けっして読者に気付かぬように。誰もが気付かないけれど、私には分かる。私だけは、知っているのよ。その存在を――」

 少しずつ取り乱しながら、クラムシェルはこのように言い放ったのだ。

 さらに、きょろきょろと辺りを見渡し、誰もいない真っ白な天井に向かって、こう叫んだのである。

 「ねえ、誰なの、誰が私の物語を書いているの? 誰が、私の物語を読んでいるの? 誰が、私の声を聴いているの? 私の物語を書いているあなたは、そして私の物語を読んでいるあなたは、いったい誰なの? やめて、私を見ないで、私を物語に閉じ込めないで。私はあなたの操り人形じゃない」

 悲鳴にも近い台詞を発しながら、クラムシェルは手元にあった書物を取り上げると、ガラス窓に向かって投げつけて叩き割った。医師が慌てて止めようとしたが、それを激しい動きで振り切り、今度は扉に向かって走り、両手を激しく叩き付けた。扉には鍵など掛かっていないというのに、ノブを回そうともせず、体ごとぶつかるようして両こぶしを扉に叩き続けた。

 医師が使用人と共に背後から引き剥がし、落ち着くように告げたが、クラムシェルは完全に錯乱状態に陥っていた。腕を掴まれたことで更に感情が昂ぶったのか、駄々をこねる幼児のように、髪を振り乱して医師の腕の中で暴れ続けたのだという。

 そしてこのときクラムシェルは、医師たちが謎を解き明かす鍵として注目する、重要な台詞を放っている。

 混乱の中、押さえつけようとした医師と使用人を振り払おうとして、一際大きな声で、こう叫んだのだ。

 ――はなして、ママ。

 錯乱状態であったクラムシェルが口走ったこの台詞は、一瞬、その言葉に誰もが首を傾げたほどで、シーンとは無関係で場違いなものである。また状況からいっても、殆ど無意識状態で出たものであり、演技の類であることは考えられない。

 使用人二人がかりで押さえつけ、特製の鎮静剤を注射することで、ようやくクラムシェルは動くことをやめてそのまま眠りに付いた。そして目覚めたときには、暴れたこと自体を殆ど憶えていなかった。医師がその時の様子を説明し、最後に叫んだ言葉の意味聞いても、そんなことを言った記憶がない。口にしたとしても、理由は自分にはわからない、頑なにそう答えるばかりであった。

 この事件へのフォルスネイムの見解は、以下のようなものである。

 「修道院に入学してからのお嬢様は、周囲の視線を多く集めるようになっていた。確かにセレスタイン様の監視下にあり、生徒や教師も、事故のことを知っていた。その視線は何処にいっても付き纏い、逃れることなどできなかった。それが、結果として強度の妄想へとつながったと思われる。自分がそう仕向けたような面もあったが、本人も気付かぬうちに大きな重圧となって、精神に負荷がかかり、心を病んでしまったのではないか。周囲に望まれるままの修道院生活を演じるうちに、自分が誰であるのか分からなくなり、このような奇妙に歪んだ妄想を抱くようになったのではないか」

 そして「はなして、ママ」という台詞に関しては、このように述べている。

 「この場違いな台詞であるが、錯乱したことによって、幼児返りの症状が、咄嗟に出てしまった結果ではないかと思われる。幼児の頃に記憶が立ち返り、私たちのことなど一切忘れ、母親と二人で暮らしていた頃へと、魂がいわばタイムスリップしてしまったではないだろうか。暴れるお嬢様を私たちが押さえつけようとしたというシーンが、お嬢様の頭の中では、母親が駄々をこねる幼子を、その手を引っ張って連れて行こうとする、というシチュエーションに変換され、勘違いしたのではないか。その結果として、あの場にそぐわない台詞が飛び出たのではないだろうか」

 この見解は、概ね正しいと思われる。

 だが、私が考えるに、この時点でフォルスネイムが見落としている点が二つある。その二点は、クラムシェルの真実を知る手掛かりとなるのである。

 一つは、「はなして、ママ」そう叫んだ点に関して。ここは重要な部分であるが、フォルスネイムは、幼児返り、という短絡的な推察で終わらせている。しかしここで大事なことは、クラムシェルが無意識下で、どのようなシチュエーションを想像していたのか、ということである。どのようなデジャヴが、この台詞を咄嗟に吐き出させたのか、それこそが重要なのである。この点に関しては、後述することとする。

 そしてもう一つの興味深い、注意すべき点は、この台詞である。

 「誰が私の物語を書いているの」

 クラムシェルはセレスタイン以外で、自分を常に監視している第三者の視点をはっきりと意識し、その枠組みから逃れようともがいているのである。

 ガラス窓を割った点、扉を血が出るまで叩き続けた点などから、それは明らかであり、そこから推測されるのは、修道院という、閉鎖され、隔離された環境下での、自由への希求である。周囲の視線によって象られ、語られるという自分という存在、一種の呪いのような他者の眼差しに対し、クラムシェル自身の強烈な自我が目覚め、他者を排除した完全なる自由を求めて発露したのだと、そう思えないだろうか。

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