2章  ふたつ名 Ⅲ 日記の完成③

 以上のセレスタインの証言から、 クラムシェルが自身の日記に関して、秘かに尋常ならざる執着心を抱いていたことが分かる。再び過去を忘れてしまうかもしれないという恐怖心、日記を書く行為そのものへの強迫観念が、現実を侵食して悪循環を生み出している状況に陥ったわけである。

 日記の内容に関しては、今となってはもう知る術はないが、ここで私が注目したいのは、日記を書くことを禁じたことによって、悪夢が頻発し始めた、という点である。

 このことから、クラムシェルの病を解明する鍵である、彼女を悩ませ続けていた悪夢――その正体が、日記と確かなつながりを持っていることが、推察されるのである。

 日記を止めてから後、悪夢の頻度が一気に増したという事実は、セレスタインだけではなく医師の証言からも一致している。それまでは平均すると二カ月に一度という割合であった悪夢が、十日に一度になり、やがて少しずつその間隔を短くしていった。一ヵ月後には、クラムシェルはほぼ毎晩、悪夢に魘されるようになっていったのだ。

 連夜の悪夢の結果、クラムシェルは再び極度の不眠症に陥っている。

 だがこれは、日記に夢中になるあまりに眠れなくなるのとは全く異なっている。悪夢に魘されてしまうため、眠ることそのものを恐怖するようになったからである。悪夢を見るのが怖い、だから眠りに付くのが怖い、眠ろうとしても、眠れない。一晩中、寝台の上で身悶えしながら眠りを待ち、寝返りを打ち続ける、という日々が続くようになった。

 当然、主導院では強烈な眠気に襲われ、授業どころではない。再び、体調を崩して修道院を休んだり、保健室で過ごすという日々が続くようになった。それでも、睡眠は浅いものしかとれないのだ。深い眠りに入ろうとすと、深層意識が拒否反応を示すのか、悪夢への恐怖心で目が覚めてしまうということが続いた。うとうとという状態が続き四六時中続き、やがては夜中の屋敷や修道院を、ふらふらと夢遊病患者のように徘徊するような行動が増えていった。それらのことは、生徒の証言や館の使用人達や専属医の記録としてはっきりと残されている。

 目の下には隈ができ、ふっくらとして色白であった顔が、かつてのように血の気の引いた青白いやせ細ったものへと戻ってしまった。殆ど眠ることができず、結果として運動もろくにできないため、食欲そのものも失われてしまった。クラムシェルはいつしか、気力は減退し、好奇心は薄れ、面持ちは虚ろになり、疲れ果てた体と頭で一日を過ごすようになっていった。

 その症状を改善させようにも、医師は改善の糸口が掴めずにいた。いや、糸口は分かっていたものの、それの解き目が見つけ出せずにいた。

 クラムシェルを悩ませる白い悪夢、その正体を突き止めることができなかったのである。

 医師達は悪夢の原因が分からず、従ってそれを取り除く術も持たなかった。クラムシェルが衰弱していくのを止めるため、敬遠していた睡眠薬に頼らざるをえなくなっている。

 財閥が世界有数の製薬会社を営んでいる、ということは皮肉なことだったろう。睡眠薬に関しては多種多様なもの、最先端のものが幾らでも手に入った。

 中でも「眠り」を提供する睡眠薬に関して、財閥は世界トップのシェアを誇っている。多種多様な「眠り」を演出するために、財閥製の様々な睡眠薬が用途別に薬局には並んでいる。モノクロの夢しか見られないもののために開発された、夢に色づけする薬や、空を飛ぶ夢を見させる薬などが有名だが、市販薬だけではなく医師の使用に限られる医薬品に定評があった。死病の患者や末期的患者の傷みを快感に変えるもの、思い通りの夢をみさせるもの、夢の中でもう一つの鮮明な現実を生きさせるもの、夢の中で他者の夢との交信を可能にさせるものなども、実験段階ではあったが開発していた(これにはセイレンのかつての研究成果に依る所が大きい)。

 当時の処方箋の履歴を見ても、未熟ながらも医師が幾つもの種類を組み合わせて服用させ、クラムシェルの睡眠状態を見ながら試行錯誤していることがよくわかる。

 次第に睡眠薬は強力なものになり、精神安定剤なども含めて十数種類のものをクラムシェル用に独自に調合し、併用するようになっていった。

 睡眠導入剤から始まり、けして夢を見ることのない深い眠りに誘うもの、さらには傷みさえも麻痺させるような麻酔薬に近い成分のものを使用するようになった。

 強烈な眠りのカクテル薬を構成する主要な薬品から、幾つかその名を上げておこう。

 『眠り姫の見る夢』キャンディタイプ、『舞台演出家の劇薬』香炉タイプ、『アムリタ№9』湯薬ゼリータイプ、『ウェンディの寝言』時間差カプセルタイプ、『夢遊病者の罪』トランスタイプ、『アルキミスタ・スパイス』調味料タイプ、『詐病論者の偽薬』幻覚羊タイプ、『胡蝶の時空内包薬』煎薬タイプ等々…

 これらの薬を組み合わせて処方されている。資料から薬の履歴を詳細に分析すると幾つもの副作用が予想されるが、当時はそのようなことを言っていられない状況にまでクラムシェルの心身が弱っていたことが読み取れる。また、薬物の中に注射タイプがないことは注目すべきだろう。クラムシェルが注射を怖がる、という記述が診療記録には散見されているが、愚かなことに医師たちは注目をしていない。だがこれはまた別の話である。

 ここで興味深いのは、次の点である。

 セレスタインと医師は話し合った末に、日記を止めたことが、悪夢の頻度が急激に増す引き金であったと結論付けている。そのため、一度は禁を解き、クラムシェルに再び日記を書くように促しているのである。二人は、強力になっていく睡眠薬の副作用より、日記に熱中することによる軽度の睡眠不足へと切り替えようとしたのである。

 クラムシェルがこの意見を聞き入れて日記を再開し、そのことで悪夢の頻度が減っていったのならば、悪夢と日記の関係性が密接なものであることが分かったはずである。

 しかし二人の提案に対し、クラムシェルはこう答えているのだ。

 「どうしてかしら、書き方を忘れてしまったみたい。書こうとしても、何も書けないのよ。何を書いていいのか分からない。書いてみても、知らない人のことにしか思えない、自分のことを書いているという実感がなくなっているの。それどころか、以前、夢中になって書いた日記を読み返しても、それが自分のことだと思えなくなっているのよ。まるで、他人の物語を読んでいるよう。私、どうなってしまったのかしら。これも薬の副作用? それとも悪夢のせいなのかしら? 何だか、自分が自分でなくなっていくような気がする」

 二人はこのクラムシェルの返答に困惑し、それが如何なる意味を持つのかを図りかねている。私自身は、このクラムシェルの証言が大きな意味を含んでいると考えるが、詳しくはここでは述べない。

 このように、クラムシェルが日記への興味を失っている、という思いもよらない心理的変化によって、二人の思惑は失敗に終わっている。

 この頃のクラムシェルは、多彩な睡眠薬のカクテルによって、日常生活を何とか維持している、という状態であった。しかし、そのような日常が精神や肉体に悪影響を及ぼさぬはずはない。

 クラムシェルはまた新たな別の症状を発症し、悩まされるようになる。それも、幾つもの症状が幾つも、それこそ泡のように浮かび上がっては、その精神を侵していくのである。

 まず最も顕著であったものは、虚言症である。

 クラムシェルが嘘をつくようになったのである。最初は他愛ない些細なことであったが、次第に嘘の規模は大きく、更に悪質になっていった。それは例えば、他者への誹謗中傷の類から、自らの過去に関する嘘、さらには自分の周囲の人物に関する益体もない嘘まで、クラムシェルはぽろぽろと吐き出すようになっていた。これは初期の段階では、クラムシェル自身が自らの話が嘘であることを自覚していたことが分かっている。

 その虚言症が悪化した結果として新たに表面化したものが、妄想症である。嘘ではなく、真実だという思い込み、妄想を抱くようになったのである。それは例えば、修道院で誰かが自分の悪い噂を流している、とか、誰かが自分を貶めようとしている、とか、修道院ぐるみで自分を監視し、騙そうとしている、といったものである。この時点で、クラムシェルは自らの言動を嘘だとは思っておらず、抱く妄想もすべて真実だと思っているのである。

 更に、その妄想症から派生する形で生み出された症状が、視線恐怖症である。

 クラムシェルが妄想症に苦しめられる中で、人々の目が怖い、そう言い出したのである。

 彼女はこう話している。

 「周りの人たちが、私をありもしない虚妄で象り、噂をしているような気がする」

 そう彼女は、被害妄想で自らにぶつけられる悪意を、はっきりとした視線として体感し、錯覚するようになっていったのである。

 これら三つの症状が絡まり合い、日々、クラムシェルを悩ませるようになった。

 そしてまた、悩まされたのはクラムシェルだけではない。彼女を中心とした周囲の人々も大いに苦しみ、悩まされ、多大な影響を与えられることになった。

 この頃にはクラムシェルは、自らの内に秘めていた妄想を、感情のまま言葉にして周囲にぶつけるようになっていた。

 仲が良かった友人達や親しい生徒会役員に対して、自分を利用したいだけだろう、とか、下心をあるからだ、とか、実は影で私の悪口をいっているのでしょう、そのような暴言や悪態を吐き始めたのである。

 投げつけられる言葉は直情的、直截的で強烈なものであり、それまでを知っている生徒たちは衝撃を受けた。言葉は呪いのように生徒達を縛り付け、その言葉の含んだ毒に充てられた生徒達の中には、心を病むものも出てきている。また、クラムシェルの妄想に侵され、踊らされる者たちも続出している。

 かつてはその不思議な魅力で周囲を魅了し、眩い世界へと誘い導いていたクラムシェルが、今度は、後ろ暗い妄想や醜悪な夢想で周囲を幻惑し、底知れぬ暗黒の世界へと引き摺り込むようになったのである。

 症状の病因が、多彩な睡眠薬の副作用だと考える向きもあるが、私はそれだけではなく、自ら意図的に周囲の人々を遠ざけようとした心理作用であるとも考える。他者の視線を恐れたクラムシェルが、その視線から逃れようと、あえて妄想をぶちまけたものだとも考えられるのではないか。

 自分の精神を侵されることを恐れた人々は距離を置き始め、それが周囲に伝わると、彼らは潮が引くように一斉に去っていった。

 周囲を困惑させた症状の一つ一つは多数の生徒によって証言され、その内容もバラエティに富んでいるため、ここでは割愛する。症状そのものは奇妙ではあるが、精神医学的には知られたものでもある。

 三つの症状は、総じて物語症候群と呼ばれるものだ。一般的には、悲劇のヒロイン病として知られている。類型的に第一ステージから第五ステージまでに区分されるこの精神病は、段階を追って進行し、やがて全ては己のために仕組まれた陰謀だと思い込み、自らの内に閉じ篭ってしまう厄介な病でもある。

 通常は何らかのトラウマを起因として、精神のバランスを崩した女性が罹ることが多い病であるが、クラムシェルに関しては、睡眠薬の副作用の影響も強かったと思われる。睡眠薬のカクテルによる強烈な眠りは、夢さえも見ることない深いものである。その反面、目覚めた後も、その眠りから完全に抜け出すことができない。半分眠っているような症状をもたらすのだ。

 いわば現実が、眠っている間に見ている夢のように感じられるのである。

 やがて情緒も次第に不安定になり、精神のバランスが崩れ、突然泣き出したり、怒り出したり、笑い出したりと、常軌を逸したような行動が増えていった。薬の分量や配合調整で何とか対処しようとしたものの、それでは不眠を抑えることができなかった。

 改めて処方箋の分量や医師のカルテ、そこに記されたクラムシェルの変化を見ると、医師たちが、薬の副作用が悪夢を増幅させているのではないか、という見解を持っているのが分かる。しかし当の医師にも、新たな症状が副作用によるものか、或いは悪夢によってもたらされるものなのか、彼らにその判断はできなかったようである。

 この頃のクラムシェルの症状、それに纏わるエピソード群を資料から分析して表現するならば、彼女がそれまで読んだ物語が現実を侵食している、というものになる。当時のクラムシェルは、物語で描かれている負のイメージへと想像力を掻き立てられ、魂を引き摺られ、その精神を蝕まれているのである。

 結果として、悪夢がもたらす不眠症、それを抑えるための睡眠薬のカクテル、そのカクテルがもたらす副作用、副作用が増幅させる悪夢、さらに強力となる睡眠薬――そんな悪循環から、クラムシェルは抜け出せなくなっていったのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る