2章 ふたつ名 Ⅲ 日記の完成②
いえ、嘘ではありません。一度も、あの子の日記を見たことはない。これは読んだことがない、とは違います。見たことがないのです。あの子は誰にも、日記を読ませなかった。日記を書いているところさえ見せないようにしていた。
それだけ秘密にされると、私の興味が掻き立てられるのは仕方がないでしょう。私はときおり水を向けて、日記の内容、何を書いたか、どのようなことを日記につけたのかを尋ねました。
「――乙女の日記よ。秘密に決まっているじゃない。でも、たいした内容ではないわ。毎日叔母様に話しているようなことよ」
あの子は笑ってそう言い、答えをはぐらかすだけで、日記の内容に関しては話そうとはしませんでした。他の誰に対しても同じで、その態度は徹底したもののように思えました。
それでも、修道院に通い始めて一年程度は、私はあの子の日記への執着心に関してそれほど重要視しておりませんでした。あの子の日記への思いが、尋常ならざるとものだと気付いたのは、入学して一年が過ぎ、二年生に進級してしばらくしてからのことでした。
あの子がときどき、体調を崩すようになったのです。進級してから、朝起きても顔色が優れない日が少しずつ増えていた。修道院に行っても、途中で気分が悪いといって保健室のベッドで横たわることが多くなりました。悪夢を見たのかと聞くと、違うと答えました。
理由は、不眠症でした。あの子は、夜に眠れないというのです。
不可解に感じ、精神科医とともに尋ねました。読書に夢中になって夜更かししてしまうのではないの。それとも何か悩み事でもあるのではない。修道院での暮らしに、いや屋敷での暮らしで、何かあなたを悩ませているようなことがあるのではないの、と。
返ってきた答えは、私と医師を驚かせました。
「昨夜、一晩中、日記を書いていたのよ」
何とあの子は、夜通し日記を書いていたというのです。
夢中になって、気が付けば朝になってしまっていた、と。
一晩中眠らず、夢中になって日記を書くなど、普通ではありません。それだけではない。詳しく聞けば、あの子は自らが書いた日記に満足できず訂正をしたり、最初から書き直したりするというのです。その上、過去の日記を遡って読み返していた、そう話すのです。
そのようなこと、私も、医師も知りませんでした。聞いたことがなかったのです。ということは、意図して隠していたのでしょう。
夜を徹してを日記を書き、読み返す。眠るのも忘れるほど一心不乱に。
その姿は、芸術や研究に打ち込む姉様の姿を思い出させました。
なぜ、そのようなことをするのか。日記など、一枚程度その日にあったことを書けばいいだけ。読み返すことに関しては、皆目意味が分からない。私はその理由を尋ねました。あの子はしばらく俯いて言葉を探していました。私はまだ何かを隠していると思っていました。それは医師も同じだったでしょう。
その雰囲気を感じ取ったのか、あの子は、意を決するように、秘めていた思いを告白したのです。
「私は、怖いのです」
その言葉を聞いたとき、私は思いました。この子は、悪夢を見るのが怖いのだ、と。そう思ったのは、私だけではなかった。医師はあの子の言葉を受け、問いかけたのです。
「怖い? 何が怖いのですか? 悪夢を見ることですか」
しかし、あの子の答えは私たちの予想とは異なるものでした。
「いいえ、違います。また、忘れてしまうのではないか、と」
私も医師もその言葉の意味が分からなかった。だから直ぐに聞き返したのです。忘れる? 一体何を忘れるというのですか、と。
あの子の答えは、私たちが想像したことのないものでした。あの子は小さな声で答えを躊躇うようにしながら、こう話したのです。
「――過去を…記憶をまた失ってしまうのではないかと思うと、それが怖いのです。私は修道院で素晴らしい日々を過ごしています。充実した毎日を暮らしています。でも、こんなにも素敵な日々の想い出を、また忘れてしまうのではないか、そう思うと、怖くなってしまうのです。以前と同じように、名も、想い出も、自分が誰であるかさえ失って空っぽになってしまうのが恐ろしいのです。だから私は日記を付けることにしたのです。
私の付けている日記は、お母様のためだけではない。それは私のためのものでもあるのです。また再び、記憶を失ってしまったときのために、私は今、必死になって、夢中になって、何かに追い立てられるような想いで、日記を記しているのです。
そして、忘れてしまうのが怖くて、繰り返し読み返しているのです。
忘れてしまわないように、いつか忘れてしまっても思い出せるように、いつ忘れてしまっても、読み返すことができるように、思い出すことが、できるように。いつまでも日記を書いてしまうのです…」
そう、あの子は、過去を再び忘れてしまうのが怖くて何時間も日記を綴り、さらに自分が記した日記を繰り返し読み続けていたのです。
私も医師も、まさかそのようなことを考えて日記をつけているとは、考えもしなかった。あの子が日記に執着するのは、そのような思いもしない理由からだったのです。
そうなると、やはり日記の内容が気になるもの。しかしあの子は頑として日記を見せようとはしないのです。何を書いたのかを聞けば、話してはくれます。しかし、それが本当であるかは分からなかった。
ええ、それは医師も同じです。医師の中にも、日記を書いている様子を見たものも、日記そのものを確認したものもいなかった。ただどちらにせよ、そのままでは、学業に支障をきたしてしまいます。
私と医師は、あの子の日記への異常な執着を断ち切るにはどうすればよいか、話し合いました。
あの子は、忘れてしまうという恐怖心から、日記を書き続けなければならないという強迫観念に囚われている。それが私たちの分析結果でした。
その結果を受けて導かれた結論は、日記を禁じることでした。日記を書くこと、読むことそのものを、あの子から奪おうとしたのです。そうすることで、あの子を遠ざけようとしたのです。忘れてしまう、という恐怖心から。
ですが、禁じるといっても、強要したり、日記を奪ったりしたわけではありません。
私は医師とともに優しく諭しました。
「日記など書かずとも、繰り返し読まずとも、同じように毎日は過ぎていく。たとえ少しずつ忘れてしまったとしても、本当に大切な記憶や想い出は忘れることはない。あなたがお母様との記憶を取り戻したように。それに、例え忘れてしまっても、今のあなたを象っているのは、紛れもなく、それまで生きてきた過去なのですよ。だから忘れることを恐れる必要ないのです。
過去に執着するあまり、未来を犠牲にしてしまうというのは、本末転倒。
睡眠不足で寝ぼけた頭で、素晴らしい一日が送れるはずがない。そのような頭で過ごした一日の終わりに、満足な日記が書けるはずがない。そうでしょ。
だから一度、日記から離れてみてはどうかしら」
そのような言葉を尽くして、二人で根気よく説得したのです。
最初は躊躇し、拒むような姿勢を見せていたあの子でしたが、それを受け入れました。
「そうね、分かったわ。本当のところ、最近では保健室で横になっていることも多いものだから、日記に書くこともなくて、困っていたのよ。何を書けばいいのか考えているうちに、朝になっていることもあった。おかしいでしょう。それで、次の日は睡眠不足で保健室行きなのだから」
そう笑って言うと、以外にもあっさりと、日記を封印することを約束してくれたのです。
ええ、確かに。日記を本当にやめていたかどうかは、分からない。でも、あの子は実際にやめていたと思います。なぜなら、日記から離れる提案を受け入れた直後から、睡眠不足は改善され、十分な睡眠が摂れるようになったからです。
あの子は毎晩、早めに眠りにつくようになり、朝もスムーズに目覚めるようになりました。顔色はみるみる良くなっていきましたし、修道院でも保健室に行くことがなくなったのです。私はそれを見て、安心しました。私のアドバイスを信じ、日記への執着を止めてくれたのだ、そう思いました。
日記を禁じて十日も過ぎる頃には、あの子は完全に調子を取り戻したように見えました。
ですが、それは束の間のことでした。
今度はまた、別の症状が、その心を蝕み始めたのです。
あの子の眠りに、それまで稀にしか姿を現さなかった悪夢が、頻繁に出現するようになったのです――
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