2章  ふたつ名 Ⅲ 日記の完成①

 ――ええ、みなさんが言っている様に、あの子は修道院での一年間、私の心配などよそに、日々を懸命に、楽しそうに過ごしていました。各方面からの報告を聞きながら、その充実した毎日を嬉しく思い、実の娘のことのように、誇らしげな気持ちになったものです。

 もちろんです。絶対にここだけの話にしていただきたいのですが、私は子どもを産むことの叶わない体質。アルビオン家の娘としては、私は生まれつき欠陥品なのですよ。ですから、失踪した姉様の代わりに、我が子として、また一族の後継者として育て上げるつもりでした。

 そう、確かにあの子にはそういった面もありました。無論、存じております。世間知らずなところや、奇妙なところがありました。しかしそれは些細なこと。頭部への損傷の大きさや、一切の記憶を失った当時と比べると、大きな問題ではありません。それに、姉様が変わった人間でありましたので、奇妙な言動は血筋、或いは姉様の教育のためであろうとも思っておりました。

 いいえ、たとえ記憶を忘れてしまったとしても、過去の経験や思い出によって象られた魂の形はそうそう変わることはございませんでしょう。

 それに、私にはそういった面以上に、あの子が姉様から非凡な才能を受け継いでいることが、心から嬉しかったのです。

 姉様は、幼い頃より、多彩な方面にずば抜けた才能を発揮しておりました。私は凡人でありますが、姉様は紛れもなく天才と呼ぶに相応しい人間でありました。七天マリヴロの再来と呼ばれたのは、僅か七つの頃であったと思います。共に育った私には分かりますが、その表現はけして誇張ではなかった。幼少期より姉様は教授たちからその才能を認められ、財閥独自の帝王学を叩き込まれ、後継者として育てられておりました。あの子が容姿とともにその才能を受け継いでいるのは明らかでした。

 ええ、無論です。姉様に含むところなどございません。

 確かに、姉様と私の間には色々なことがあった。蟠りもございます。しかし、私は姉様のおかげで幼くして自分の身の程を知ることができた。驚嘆すべき才能の塊のような姉様には畏敬の念を抱いておりました。嫉妬なども幼少期はありましたが、修道院に入った頃には達観しておりました。姉様は私とは別種の人間、姉様は天に選ばれた者なのだ、と。

 そう、あの子はそんな姉様の才、その片鱗を受け継いでおりました。きらきらとその才能が煌き、成長していくのを、私は日々、微笑ましく眺めておりました。

 ただ、やはり懸念はありました。

 そうです。事故の後遺症、不完全な記憶、失われた名、そして、ときおり顔を覗かせる悪夢。それが気になっていたのです。私は古傷には触れぬように、悪夢に関しては聞かないことにしておりました。周囲にも、話題に出すことを禁じておりました。それは他の医師とも話し合って決めた方針でした。

 悪夢を無理やり思い出させることは、あの子にとって危険だと判断したためです。なぜ? 悪夢とは、あの日…事故の日の記憶だと思われるからです。頭部に大怪我を負い、冷たい海を漂った記憶。奇跡的に助かりましたが、それは運がよかっただけのこと。

 それを無理に思い出させることが、あの子にとってよかろうはずがない。

 何がその日にあったのか、それは所詮、ゴシップ好きの世間の興味でしかない。姉様の行方にも、事故の真相にも、私は興味がない。

 私が心を砕いていたのは、あの子の健やかな成長と、充実した修道院生活。己の意思で、思う存分に学業に取り組み、素敵な友人達と未来まで続くような友誼を結ぶこと。修道院という閉ざされた、しかし美しい箱庭の中で、目に見える程に明日へと羽ばたくための翼を育てること。それに関して、一年の間、あの子は本当によくやっておりました。

 あの子は毎日、私と医師に色々な話を聞かせてくれておりました。それは私にとって大切な時間でした。修道院での出来事、学業に関すること、その日に感じたこと、考えたこと、思ったこと、それらを包み隠さず、あの子はつらつらと心のままに話してくれているように思いました。最初の頃はたどたどしい語り口でしたが、それが次第に上手くなっていくのも楽しみでした。

 そんな日々を送りながら、ある日、奇妙なことに気が付いたのです。

 いえ、悪夢ではございません。それは、日記なのです。

 あの子は、修道院に通う前に、日記を書くと宣言しました。いつか帰ってくるお母様――セイレン姉様に読ませるために、そう話しておりました。

 最初は私が買い与えましたが、それは使うことなく、自分で選んだ新しい日記を買いなおしておりました。ええ、自由に使えるお金をお小遣いとして渡しておりました。書物を買い求めることも多かったため、不自由しないだけの金額を。それに街で手に入らないものでも、オブシディアンに言えば大概の欲しいものは手に入ったはずです。一応私の決済は必要でしたが、あの子は何を何のために買ったかも報告しておりました。それほど困るようなもの、高額なものを要求することはございませんでした。

 しかし一つだけ、あの子が要求したもので、私の胸をざわつかせたものがございます。確か、修道院に入学して、一ヶ月ほどが経ってからのことです。

 金庫をねだられたのです。日記用の。あの子は、日記を保管しておくための、他の人間には絶対に開けることのできない自分専用の金庫を欲しがったのです。

 確かに日記など、他人には読まれたいものではございません。しかしそれを聞いたとき、心がぞわぞわとする思いがしました。なぜなら、心を許してくれていると思っていたあの子が、実はその胸の内を明かしていない、心に秘めた何か、隠している本心が、その奥底にあるのだ、そう思ったからです。

 異常なことではないかと医師に相談してみましたが、一笑されました。それは至極当然の心のあり方だ、そう言った医師の話では、

 「お嬢様は修道院でも屋敷でも注目され、スケジュールを管理され、心身の休まる暇がない。それが恐らく、日記を書いているときだけは、解放されるのでしょう。金庫そのものに、貴女様への拒否反応が表されているわけではないと思われます。己の心のうちをすべてさらけ出したくない、秘密を持ちたいという、あの年頃の少女特有にはあってしかるべきこと。思春期の羞恥心、自立心の表れ。いや、少女にかかわらず、女性であれば皆そうであるはず。貴女様もご自分の過去を思い出してみれば、幾らでも心当たりおありになること。何ら不自然なことも、不思議なこともない。お嬢様には、貴女へ含む気持ちなどないと思われます」

 確かに言われてみれば、それも分かることです。日記を読まれたくない、秘密を持ちたい、などとは年頃の娘でなくとも当たり前のこと。ですが、金庫という物体が、あの子の私に対する強固な拒絶を表しているように思えたのです。

 それに、私の心をざわつかせた理由が、もう一つございます。

 その行為が秘密主義者であった私の姉様を思い出させたからです。

 姉様は幼少期より天才と呼ばれる一方で、常軌を逸したところがあった。そのことは先にお話ししました。それを少し具体的にお話ししましょう。

 例えば、姉様には、己の真意を決して他人に知られたくない、そのような所がありました。秘密主義者、というのでしょう。姉様は、財閥の一経営者としても、学会の研究者としても、また芸術家としても、各界隈の人々から同じようにそのような名で呼ばれていたこともあります。

 経営者や研究者として秘密主義者であるというのはそれほどおかしなことではありませんが、芸術家としては、やはり異様な面がありました。姉様は、自分の芸術作品を、完成させるまでは、決して他人に見せようとはしないのです。製作過程を公開することを頑なに拒み、失敗作などは絶対に人目に触れさせようとはしなかった。そればかりか、すべてを自らの手で焼却して表にださなかった。誰にも失敗作を見られたくなったのでしょう。それはそれは徹底しておりました。

 姉様はずば抜けた多様な分野での才能と共に、あまりに神経質すぎる面がありました。秘密主義者として知られていた姉様は、いつしか完璧主義者として神経のバランスを崩し、やがて常軌を逸した行動が増えていった。やがてその奇怪な言動ばかりに世間の注目は集まり、不名誉な仇名を冠されるまでになった。まあ、当人はそんな二つ名など毛ほども気にしてはいなかったようですが。

 あの子から金庫の購入をせがまれたとき、私が思い出したのは、そのような姉様の姿でした。心がざらついたのを悟られぬよう、苦笑して言いました。

 「そんなものわざわざ使わなくても、勝手に読んだりはしないわよ」

 あの子は気真面目に切り返しました。

 「ええ、分かっているわ。でも大切なものだし、万が一にも失くしてしまったりしてはいけないでしょう。だって私が生きてきた証になるのですもの。毎日のことを、すべて覚えていることなどできない。だからお母様が帰ってきたときに、どうしてもその日記をプレゼントしてあげたいのよ。叔母様も、あの日記を読んでいるから分かるでしょう。お母様が、私の成長を何よりも大切にし、楽しみにしていたことを」

 このとき、あの子はかつて見せなかったほど強情で、決して譲ろうとはしませんでした。

 医師とも相談した上で、私はあの子と買い物に行き、あの子自身に選ばせて特別製の金庫を買い与えました。数字ではなく、文字の組み合わせによる鍵を持つもので、言葉も自在に設定できるタイプです。正直、あの子の部屋にはそぐわない、異様な雰囲気の大きな金庫でした。

 医師に諭されたものの、部屋の不釣り合いな金庫を見た私には、あの子の私に対する強固な反発、意思表示に思えてなりませんでした。

 それからしばらくして、私は尋ねました。平静を装い、軽い感じで。

 「そういえば、日記は毎日つけているの? サボったりはしていないわね」 

 「ええ、もちろんよ。しっかりと寝る前につけているわ。お母様が帰ってきたときに、私の素敵な毎日を教えてあげられるように。一日も欠かすことなく、ね。寝る前に日記を書くことと、物語を読むこと。これは私の大切な日課よ。自由な時間が少ない中でも、この二つだけは譲れないわ」

 「そう、あなたのことだもの、書くことがない日なんてないのでしょうね」

 「ええ、書くことが多すぎて困るぐらいよ。寝るのも忘れて夢中になって書いていることもある。慌ててベッドに入るのだけれど、次の日の朝に眠くて仕方がないこともね」

 確かにあの子には、自由な時間というものは少なかった。修道院と屋敷を時間通りに自家用車で送迎され、屋敷でも個人教授のカリキュラムがきっちりと組まれていて、一日スケジュールは埋められていました。修道院との行き帰りの車で運転手に命じて街に寄るといっても、一時間も時間を作れなかった。書店や文具店、画材屋や楽器店などに立ち寄って、時間に追われて慌てて車に乗り込むようなことも多かった。

 入学前に比べ、流石に読書量は減っておりました。それでもあの子は、物語を読むことを楽しみにしていたのです。読書はあの子の大切な趣味でした。夕食時など、物語の感想を聞かせてくれることもしばしばでした。

 あの子はタイトなスケジュールをこなしながら、それでも毎日欠かさず、就寝前に日記を付け、物語を読んでいたようです。

 ええ、そう口にしているのを聞いております。他の医師たちにも、そう話しております。

 しかし…私はその日記そのものを見たことはないのです。

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