2章  ふたつ名 Ⅱ 翼のゲシュタルト③

 ――もう、よろしいでしょう。私が知っていることは、話してしまいました。ですから、どうかこの縄を解いていただきたい、目隠しも外していただきたい、誰なのですか――あなたは。ここは、いったいどこなのです。なぜ、このようなことを。私は、これ以上何も知りません。隠し事などしておりません。それなのに、ただ「秘密」を話せといわれても…。それが誰の、何についての、どのような秘密であるのかも分からないというのに。

 お、お止めください。そのようなことをなさるのは。

 罪? 一体何の罪でございましょう。

 それが、罪の名だと。ご、ご冗談を、聞いたこともない。

 そのような罪名など、あるはずがない。それが罪にあたるとは思えない。いや、そもそも、私はそんなことなどしていない。物語を改竄した罪など、私は知らない。

 私は、私は一介の精神科医、財閥の、あの方の秘密を漏らすようなことは私にはでき――

 知りません、名前など。日記に書かれたことなんて知らない。その日記がどこへ行ったのかも、私には分からないので――


 さて、悲鳴の後も、気を失うまでフォルスネイムの証言はまだ続くが、ここでひとまず区切ることにしておく。

 幾つか気になる点、貴重な証言があった。

 一つは、クラムシェルの母への想いである。

 一度は記憶を失った少女が、母の残した日記を読み、少しずつ過去を思い出しながら、その想い出を反芻していた、という事実。そうして行方知れずの母への愛情を深め、想いを募らせていた、という点である。思い出していただきたい、そもそもクラムシェルが日記を書くことを決意した場面を。彼女ははっきりとこう言っていたのだ。いつか帰ってくるお母様のために、日記を書こうと思っている、と。

 さて、もう一つは、クラムシェルが、速記術に興味を持った点である。

 この点に関しては、実際にはフォルスネイムの速記術は慣例である略語、隠語で構成されており、解読不可能なものではなく、専門知識と背景の資料があれば、類推して読めるものであった。フォルスネイムが口にした新しい言語の創造などと呼べる代物ではなかったのだ。しかしこれは、後々、クラムシェルが残したであろう日記に大きく関わってくる問題であるので、明記しておく。

 そしてまた一つは、クラムシェルが医師に話した、悪夢に関する証言である。

 悪夢は、修道院に入学してより、その頻度は減っていた。数ヶ月に一度、忘れかけた頃にやってくるという程度に。ただ奇妙なのは、やはり、悪夢の内容を覚えていない、そうクラムシェル本人が話していることである。その証言が本当であるのかどうかは一先ず置いておく。悪夢の頻度が減っていたのは、クラムシェルの証言からも、修道院生活の影響であり、効能であることは疑いえない。

 では、修道院での何が、クラムシェルを悪夢から遠ざける効果を発揮したのであろう。

 白い悪夢はクラムシェルを悩ませ、精神を蝕む病因の最も重要なものである。悪夢の変遷を追い、その正体を突き止めることが、クラムシェルの病、「人魚姫症候群」を解明する手がかりとなることは間違いない。

 この悪夢に関して、貴重な証言をしているもう一人の人物がいる。クラムシェルとともに暮らしていた、最も近しい存在であり、後見人でもあるセレスタインその人である。

 彼女はクラムシェルに関して全ての指示を出し、あらゆる報告を受け、その報告を分析して新たな指示へとフィードバックさせることで、その生活の管理を行っていた。修道院の理事にして、財閥を統べる血族の娘。クラムシェルを残し行方知れずになった芸術家を姉に持つ彼女は、クラムシェルを我が子として、同時に財閥の後継者として迎え入れようとしていた。

 彼女こそ、修道院でのクラムシェルの日々に誰よりも心を砕き、その成長に気を揉み、傍らで具に観察し続けた人物である。

 だが、報告を集約する立場であった彼女自身のクラムシェルに関しての証言はさほど多くない。立場のせいもあったが、フルズゴルドやフォルスネイムの残した記録だけが殆どで、それ以外には、他の周囲の関係者が残した記述が僅かに残されている程度ある。

 次に取り上げる証言は、そのセレスタイン当人のものである。

 だがその前に、このセレスタインに関しても、少し書き添えておこう。

 すべての報告はセレスタインに集約されており、情報提供者もそのことを知っていたため、彼女自身がどのような人間であるかは、報告書からは殆ど読み取ることができない。

 世間では、断絶状態にあった姉の隠し子を引き取り、子のいない自らの家庭に引き入れ、後継者として育て上げようとした慈愛の人、という評価が一般的である。ゴシップ誌には多少、過激な表現での誹謗中傷が散見されたが、世間的には無視されていた。だが、彼女への好意的なイメージは、若い頃より世間を賑わせていた姉との比較によって生み出されたものだと言わざるを得ない。天才で、奔放で、狂気じみた姉。対して、凡庸で、控え目で、誠実な妹、といった二人の対比の構図で描き出されたものである。

 だが、これは全く正しいものではない。

 このセレスタインという女は、一言で言えば、泥棒猫、コピーキャットである。それは、幼少期に付けられた渾名そのままであり、彼女の本性であるといって差し支えない。

 セレスタインは、幼少期より、姉の真似ばかり繰り返していた女である。

 しかし、一つ、才能と呼べるものがあったとしたら。その物真似の才であっただろう。姉が次第に世から疎まれ、財閥から孤立していく中で、この凡庸であった妹は、財閥での発言力を強め、実権を握るようになっていった。姉が手放さざるを得なかったもの、姉が受け継ぐべきだったものを、次々と確実に、その手中に収めていったのである。

 その手腕は、実に驚嘆すべきものである。謀略に長け、自らを偽ることに長けていた彼女は、人の心を絡めとることを得意としていた。

 それは幼少期から修道院時代の姉を見ていて倣い覚えたものであった。

 能なき常人である彼女は、物真似を得意とし、他者を自在に演じることができた。無能であったこの女は、唯一生まれ持った才能、物真似を磨き上げることで、才能までをも真似ることを可能にした。

 だが、それはあくまで物真似。物真似をした時点で、如何にそれが完璧に近かろうとも、それは芸術家としての致命傷となる。オリジナルではないのだから。だから彼女は芸術家として生に早々と見切りをつけ、その姉を見ていて磨いた物真似の才を持って、財閥に君臨することを選んだのだ。

 世間的に見れば、彼女にとっての姉とは、畏敬の対象であっただろう。その圧倒的な才覚を畏れ、その奔放な行動を庇い、凡庸な人間として尊敬の念を抱いていた、そう思われていただろう。

 それは間違いである。彼女は内心では姉を生涯の宿敵とし、憎悪の対象として見ていたのである。そんな彼女が姉の隠し子であるクラムシェルを引き取り、その容姿だけで認知し、我が娘として一族に引き入れた、ということ。自身は屈辱と辛酸をなめた修道院にあえて入学させたこと、その意図が、いったい奈辺にあったのか。それは定かではない。

 幼少期から屈辱を与えられ続けた姉から、全てを奪うつもりであった、という見方もできる。姉から奪うことこそが、彼女の生きていく目標であり、指針であった、という推察も成り立つ。だとするならば、彼女がクラムシェルを我が娘として引き取ったのは、世間で言う慈愛の女性のイメージとは程遠い、まさしく幼少期の渾名であった泥棒猫そのままの行為であった可能性もある。

 そう、子を産むことができぬ妹は、姉からその最愛の娘までも奪おうとしたのではないのだろうか。

 セレスタインについて、精神科医フルズゴルドが書き残しておいたものがある。インタビュー形式での聞き取りが行われたのは、クラムシェルが波音から遠く離れた閉鎖病棟に閉じ込められた後のことである。セレスタイン自身によって依頼を受けたフルズゴルドが、時系列を遡ってセレスタインの証言を聞き取っていた。

 そこに、セレスタインの残した貴重な証言が記録されていた。

 私が注目したのは、クラムシェルが記していたという日記に関する証言である。

 次の記すのは、フルズゴルドのレポートで「未完の日記」と題されたインタビューを、私自身が、セレスタイン当人の回想録形式に編み直したものである。

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