1章  病棟の人魚姫 Ⅵ 物語の行方②

 このように、クラムシェルが思い出したという過去に関しては、幾つもの疑問が残り、言ってしまえば不可解な点が多い。フォルスネイムを始めとする医師やセレスタインも、看過できない違和感を抱いていたことが、資料からは如実に読み取れる。特にセレスタインに関しては、以前から医師とは異なる意見を持ち、それに沿って自分独自の見解を構築しているようだが、この時点でも未だ他人に明かそうとはしていない。彼女の医師も、それぞれ疑問を抱きながらも、それに対してクラムシェルを見守る以外の手を打てずにいる。

 この物語の新たな舞台は、クラムシェルが通うことになる修道院である。次に記すのは、セレスタインによってクラムシェルの修道院入学が決められる経緯である。


 言語も体力も回復し、記憶も取り戻すようになったクラムシェルを、セレスタインは後見人として次なるステップに進めようとした。

 それは、教育である。

 セレスタインが心配していたのは、クラムシェルを自由にさせていると、いつまでも本を読み続け、他の事に興味を示そうとせず、外部へと一切の関心を向けようとしない点であった。

 書物に耽溺する日々の中で、クラムシェルは物語の素晴らしさ、その感想をセレスタインを初めとする屋敷の住人に嬉々として喋っていた、というのは先に説明した。どんなに世界が広く、素晴らしいのか、友情の美しさ、愛の深さ、困難を打開する勇気、信念を曲げない強さ、魂の在りよう、そういったものを口にする一方で、しかし自分自身は決して外に出ようとはせず、例えば友人を作ろうとしたり、他人に興味を持ったり、旅行に行こうとしたりとはしないのだ。現実の他人、世界というものに興味がなく、物語の中で完結してしまっているのである。

 そのことを憂慮したこともあって、セレスタインは個人教授を行う教師を雇い入れたのである。これは当然なことで、クラムシェルは戸籍としてはセレスタインの養子にあたり、血筋的にはまだ死亡届の出されていない、行方不明であるセイレンの一人娘であるのだ。セレスタインは、クラムシェルにゆくゆくは財閥での重要なポストを担わせることを想定し、それに相応しい教育を施す必要があったのだ。そもそもアルビオン家の子らは代々、一族独自の帝王学を胎教期より施されることになっていて、それは、アルビオン家の決断が世界情勢を左右するとされる大財閥では、必須の義務として課せられていたのである。

 クラムシェルの修学度が計られたが、年齢に比してあまりに低く、とてもではないが、一族に列なる子弟として相応しいレベルに達していなかった。

 記憶の回復が一段落着いたと判断したセレスタインは、医師たちと話し合い、専用の教育プログラムを立て、それにそってクラムシェルの一日のスケジュールをコントロールしようと試みた。

 これは、以前、言語を取り戻す前の体力と精神のリハビリを行っていた頃と同じであるが、異なる点が一つあった。それは、物語に耽溺し、記憶を取り戻すようになったクラムシェルが、強烈な自我を目覚めさせていた点である。

 自由を制限されることに、クラムシェルは強い拒否反応を示したのである。

 授業をすっぽかす、途中でいなくなる、集中力が持たない、別のことを始めるなどなど、クラムシェルは専門分野の家庭教師たちを困らせることになった。一方で、興味がある分野やテーマだと、驚くほどの集中力を発揮し、他の授業を強制的に中止させ、教師を質問攻めにし、延々と勉強を続けることもあった。

 クラムシェルが従順であった頃と異なり、気まぐれで、癇癪もちで、我侭な面を見せ始めたことにセレスタインは驚いたが、医師たちの助言で、少しずつその生活に慣らしていくことにした。興味がある分野を伸ばし、深く突き詰め、そこから広げていく、という手法は功を奏し、クラムシェルの修学度はかなりの速さで上がっていったのである。

 やらされることを嫌い、自主性のままに学びを深めていくクラムシェルは、やがて、我侭なところもなくなり、自ら家庭教師たちに色々なテーマを投げかけては、やりとりを消化するようになっていった。

 家庭教師たちは揃って、クラムシェルの聡明さ、吸収力を褒め称えた。それはお世辞などではなかったであろう。修学度を示す様々なグラフからは、そのことが容易に分かる。

 だがまた一方で彼らは、クラムシェルの持つ「危うさ」に関しても口を揃えている。

 それは例えば、先に述べた、現実と物語の区別が付かないということや、物語に引っ張られて感情を爆発させてしまう、ということであるが、それも含めて、一般的な社会常識の欠落(それに伴う奇妙な行動)という点を、どの教師達も挙げるのである。

 記録を鑑み、端的に言い表すならば「世間知らずにもほどがある」といった表現だろう。

 屋敷での日常生活に関しては何ら問題がなく、食事などのマナーは既に身に付けていた。だが、家庭教師の授業の他は自室にこもって物語を読むばかりで、決して外に出ようとしなかった。そんなクラムシェルを気遣い、家庭教師が授業の一環として屋敷の敷地外に連れ出してみると、様々なことが判明した。クラムシェルは信号機や標識の意味を解していなかったし、人の家に勝手に入ろうとしたり、店のものを勝手に食べたりするのだ。興味があるものが目に留まると、そちらに意識を向け、人の話を全く聞かなくなってしまったりするのだ。時には物を壊したり、断りなく持ち出したりするのである。

 慌てて付き添いの運転手がお金を払いに戻ったものの、お金を払ってものを買う、という行為を理解していなかったのである。クラムシェルの行動は予測不能であり、突然、無頓着に常識外の行動を取るため、付き添いが目を光らせていなければ危なっかしい場面が幾つもあった。

 家庭教師たちは、クラムシェルは感受性が豊かで、天真爛漫な一方で、常識というものが何処かちぐはぐに欠けてしまっている、そんなイメージを抱いている。頭の中で大切な螺子が一本抜けているようだ、そう口にしたものもいる。

また、授業では治まっていた精神的な不安定さ――気まぐれで、自己中心的で、癇癪もち、といった点に関しても、外部に出ると再び顕著に顔を覗かせるようになっていた。

 それらは芸術家としてはよくある精神パターンであり、後天的に母親によって育てられた気性ではないか、という医師もいたが、大方の意見は、幼児退行症の名残であり、一度過去を失ったことによって、精神年齢も若返ってしまったのではないか、というものだった。脳への外傷は、時に味覚や趣味嗜好、性格さえも劇的に変質させてしまうことがある、その症例の一つであろう、というのだ。

 家庭教師たちの話を集約し、医師と意見をすり合わせた結果、クラムシェルの精神的な危うさは、幼少期の集団での実体験の欠如が原因である、という意見に纏まった。

 『集団生活と社会経験の欠如による、コミュニケーション能力の発達不全』

 『記憶喪失による一般常識の欠落、それに伴う幼児退行症の精神的後遺症』

 この二つが、当時のフォルスネイムによって記された、クラムシェルの精神状態である。


 これらの報告を受けたセレスタインは、兼ねてからの予定を早め、クラムシェルを修道院へと通わせることを決意した。いずれは修道院に通わせることを考えていたものの、修学度の面から、もっと先だと思っていたのである。

 その修道院が屋敷の敷地外ではあるものの、車で送り迎えができれば通える距離にあることが、彼女の背を押した。それは財閥が所有し、運営の一切を行う修道院であった。選抜された教師達が雇われ、上流階級の子弟が多く通う、財閥が目指す高度な教育を施す学び舎である。セレスタインはそこへクラムシェルを通わせ、集団生活を送らせようと考えたのである。またそれだけではない。セレスタインは、同年代の友人が物語の中にしか存在しないクラムシェルに、新たな現実の友人関係を作らせたかったのである。

 修道院に通わされることを告げられたときのことである。クラムシェルは説明を受け終わると、楽しそうな笑みを浮かべた。

 「分かったわ、叔母様」

 そう言うと、一度深呼吸をして時間を空けると、こう続けたのである。

 「叔母様、私、日記をつけるようにしようと思うの。お母様がつけていたような日記を。そうすれば、お母様が帰ってきたとき、それを読んで、会えなかった間の私のことを知ることができるでしょう」

 この台詞は、セイレンに関して油断していたセレスタインの不意を打ち、困惑させた。

 確かに遺体は発見されていなかったし、莫大な遺産やその継承権のこともあるため、まだセイレンの死亡届は出されておらず、行方不明者として扱われていた。母親の話題は、屋敷ではタブーとされていて、クラムシェルの前で他のものから話題として出されることはなかった。クラムシェル自身は、思い出した過去や、母との思い出話をすることはあったものの、その消息や、事故については決して触れようとしなかった。

 セレスタインとしては、分別の付いてきたクラムシェルは、半ば母親の死を受け入れているであろう、そう高を括っていたのである。しかしそれが間違いであったことを、この台詞で知ったのである。

 そう、クラムシェルは、行方不明になって久しい母親が、まだどこかで生きていると信じていたのである。そして、そんな母親のために、日記を付けることを思いついた、そう言うのである。

 セレスタインは何と声をかけていいのか戸惑い、継げる言葉を探し出せずにいた。

 クラムシェルは不安げなセレスタインとは対照的に、その表情を輝かせていた。そして何処か遠くに瞳を彷徨わせながら、叔母が伝えた修道院の名を呟いた。

 水槽の森――ヴィヴァリウム修道院。

 幾度かその名を口の中で繰り返して発音を馴染ませると、その瞳ではっきりと虚空を捉え、何もないはずの空間をはっきりと見据えて言ったのだ。

 「そこで、私の新しい物語が始まるのね。舞台が変わって、次なる章が語られることになるのね。楽しみだわ、とても」

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