1章 病棟の人魚姫 Ⅵ 片鱗③
歯車が狂いだした――セレスタインはそう表現をしているが、クラムシェルは人魚姫との邂逅の後、まず一つ目の新たな症状を発症する。
それは、白い悪夢である。
研究所でママと叫んで飛び起きて以来のことだが、クラムシェルは時折、悪夢に魘されるようになったのである。最初に気付いたのは、研究所から引き抜かれた主治医フォルスネイムである。フォルスネイムが定期的な診察を終え、隣室の客室に控えていた夜半、クラムシェルの呻き声を聞いた気がしたのである。ドアを叩いてみても、返答はなく、起きてくる様子もない。その夜、セレスタイン夫妻は不在であったため、使用人を呼んで鍵を保管するオブシディアンの立会いのもとに解錠した。灯りをつけると、クラムシェルは眠りながら、寝台の上で苦しそうに呻き声をあげていた。びっしょりと汗をかき、顔を歪めて悶え苦しんでいるのだ。そして言葉とも知れない、異様な低い唸り声を漏らしていた。
フォルスネイムはクラムシェルの肩を叩いて起こそうとしたが、目を覚まそうとはしない。通常、夢を見ている間は浅い眠りであり、外部の刺激があれば目覚めるものである。ところが耳元で名を呼んでも、頬を軽く叩いても、一向に目を醒まそうとしないのである。
尋常ではないと判断したフォルスネイムは、ついに両肩に手を当てて、全身を強く揺さぶった。そうしてようやく目を醒ましたのである。ただそれも、叫び声と共に物凄い勢いで跳ね起き、医師を弾き飛ばすという激しい目覚めであった。
叫び声は言葉としては意味をなしておらず、悲鳴のようなものに近かった。ベッドから転がり落ちた医師が慌てて立ち上がり、金縛りにあったように動けない使用人たちを尻目にクラムシェルに近づいた。
彼女は息を切らしながら、全身を震わせていた。冷たい汗を全身にかき、怯えたように、周囲を見渡していた。自分が何処にいるのか分からず、そこがどこであるのか確かめているように見えた。
そして自室にいることを理解して安心したのか、激しい呼吸を少しずつ整えているのが分かった。
何があったのかを聞くと、息を切らしながら吐き出すようにこう答えた。
「――夢を見たのよ。真っ白な、悪夢を」
フォルスネイムは一先ずクラムシェルを落ち着かせ、看護婦にいって汗を拭かせ、寝巻きを着替えさせた。悪夢に関しては、深く話をさせようとはしなかった。クラムシェルは憔悴していたし、何かを問いかけても、答えようとはしなかった。白い悪夢を見たと口にしただけで、後は分からない、覚えていない、知らない、そう、うわ言のように繰り返すだけだった。視線は虚ろで何も見ておらず、見ようともしなかった。精神状態を心配したフォルスネイムは、その場で悪夢について問い詰めることを諦め、メイドとオブシディアンを傍に残してそのまま寝かしつけたのだった。
次に記すのは、翌朝、クラムシェルが落ち着いてから、フォルスネイムとの対話によって白い悪夢に関して分かったことを纏めたものである。
実は、クラムシェルが白い悪夢を見たのは初めてではなかった。それまでも何度か見ていたのだという。しかしセレスタインや医師を心配させるのが嫌で、隠していたというのだ。そして本人の告白により、白い悪夢を見るようになったのは、人魚姫の物語を読んでからである、ということが明らかになった。
白い悪夢がどのようなものか尋ねた医師に、クラムシェルはこう答えている。
「――それが、覚えていないのよ。目を醒ましたとたん、忘れてしまうの」
この答えの奇妙さが分かるだろうか。クラムシェルは自らの言葉で「白い悪夢」と表現しているのである。にも拘らず、内容を一切覚えていない、そう話しているのだ。
不可解に思って詳しく問い直すフォルスネイムに、クラムシェルはこう答えている。
「恐ろしい、とても怖い夢だったことは覚えている。真っ白い夢の中で、私は苦しみ、哀しみ、泣き、怖がって怯えているの。そして何とか逃げ出そうともがき苦しんでいる。そのことははっきり覚えている。でもどんな夢だったのか、何から私が逃げ出そうとしていたのか、何を怖がり、恐れ、哀しみ、泣いていたのか、それは全く覚えていないの。目覚める直前までは知っていたはず、覚えていたはずなのに、目覚めた瞬間に、忘れてしまうの。嘘じゃないわ。あの悪夢を見るときは、いつもそうなの。残っているのは、全身にかいた冷たい汗と、正体の分からないものへの恐ろしい感情だけなの。真っ白い悪夢を見ていた、そんな恐怖だけなのよ」
この証言で注意すべきは、クラムシェルが悪夢を「白い」と表現していることである。普通であれば、真っ暗な、という方が悪夢にはずっと相応しい。しかしクラムシェルは、悪夢に関して「白い」そう繰り返し表現しているのである。医師も、この点に関してクラムシェルに質問している。
「悪夢は白いのですか? ならば、なぜ白いと思うのですか」
クラムシェルは答えている。
「ええ、そう。真っ白な夢の中で、私は悪夢を見ているの。そう、悪夢が真っ白なのよ。私は白い悪夢を見ているの。どんな内容かは覚えていないし、なぜそれが白いのかも分からない。でも、それが真っ白な悪夢であることだけは分かる。はっきりと覚えているの」
実に奇妙な症状である。覚えていないのに、悪夢だと分かる。しかもその悪夢は、真っ白な色をしている、というのだ。
面白いのは、医師によって悪夢を思い出してみるように促されたとき、クラムシェルは医師の予想以上に強い拒否反応を示している点である。
「嫌よ、悪夢なんて、絶対に思い出したくない。もし思い出してしまったら、私は悪夢に捕まって二度と逃げられないのよ。きっと私は、悪夢を思い出したくないから、夢の中で逃げているのかもしれない。何かに追いかけられる悪夢を見ているんじゃなくて、追いかけてくるものが、悪夢なのかもしれない。自分でも何を言っているのか分からないけど、そんな気がするの。だから決して思い出したくないのよ。だって、思い出してしまったら、きっと二度と忘れられないわ」
この台詞から分かるように、クラムシェルが、悪夢を思い出そうとする行為自体を頑なに拒否しているのは実に興味深い点である。
そして実はこの証言は、後に症候群の大まかな概要を解き明かした上で考えると、謎の本質を象徴した表現だと言える。
その点に関してはここでは述べないが、この台詞から分かるのは、悪夢の正体が何であるのか、クラムシェル自身もまだ気づいていない、ということだ。この時点では自身も悪夢の正体を知らず、その真相に気付いてもいない。ただ強烈な恐怖心だけを抱いている、ということである。
クラムシェルはこの後も、忘れかけた頃に白い悪夢を見るということを繰り返している。頻度としては一カ月に一度であり、頻繁というほどではなく、まだ実生活にも大きな影響を与える心配はなかった。
しかしセレスタインはこの症状を重く見て、フォルスネイムに何とか悪夢の正体を解明できないかと要求している。この主治医も当然、白い悪夢に関しては強い関心を持ち、この話題になると口が重くなるクラムシェルに幾度も診察を行う中で、遠回しにその正体を突き止めようとしている。そうして何とか掻き集めた情報から、フォルスネイムは一つの可能性をセレスタインに提示している。
悪夢の正体とは、事故の記憶である、というものである。
未だ思い出せない、頭部への損傷を伴う記憶――それが悪夢となって少女を追いかけてくるのだろう、と。
お嬢様が「思い出したくない」というのは、その事故が凄惨なものであることや、激しい痛み、衝撃、恐怖を呼び起こすからではないでしょうか。お嬢様は人魚姫の物語によって、その物語を読み聞かせてくれた母親の記憶を半ばまで思い出した。それが引き金となって、失われていた事故の記憶が刺激されたのではないでしょうか。事故とはどのようなもので、何が起こったのか、お嬢様は思い出しかけているのではないかと思われます。それが悪夢として現れている可能性がある――セレスタインにそんな見解を報告している。
この時点では、フォルスネイムは悪夢とクラムシェルの母であるセイレンの関わりについては深く言及していない。無論、関連性を考慮し、様々な推測、何らかの仮説を考えていたようだが、まだ話す段階だと考えていなかったのだろう。或いは、クラムシェルの気持ちを考えて、下手なことは言い出すことができなかったのかもしれない。
一方で、セレスタインは、この時点で明確なある仮説を立てている。内容が内容であるため、公の言葉にしてはいないが、先の報告を受けた彼女の、医師への返答から、その仮説が透けて読み取れる。
「…では、悪夢が白い、というのは何を意味しているのでしょうか」
この点に関して医師は明確な理由を考え付かなかったのか、何も記録していない。それに対し、セレスタインははっきりと言及し、そして悪夢とセイレンとを結び付けて考えている。セレスタインは医師にこう話しているのだ。
「私が思いますに、悪夢が白いというのは、あの白亜邸の、真っ白な部屋での出来事に、悪夢が関係しているからではないでしょうか。あの部屋で、悪夢のような何かが、起きてしまったのではないでしょうか。あの子は言っていました。思い出したくない、と。それは、思い出せない、というのとは決定的に違っているように思うのです。あなただってその可能性についてはお分かりのはずです。事故に、現在行方不明になっている姉様が関係しているのは間違いない。どのような事故であったのかは分かりません。ゴシップ誌では、様々な憶測が書き立てられました。呆れるようなもの、信じられぬものが殆どです。ですが、正直に申しますと、姉様に限っては、どれもありそうなことではあるのです。私には、あの謎の事故に、姉様の狂気じみた性質が関係しているように思えてならないのです。白い悪夢とは恐らく…」
そこまで言って口ごもってしまったセレスタインに、医師は、悪夢の詳しい内容に関して思い当たる節があるのかを問い返している。彼女は言葉を濁し、具体的な考えを口にしていない。だが、フォルスネイムのレポートに残されていたセレスタインのこの台詞は、事故の真相と白い悪夢の正体に関し、セイレンをその原因とした含みをもたせた発言であり、何らかの考えに思い至っていることは明白である。
一方、セレスタイン当人は、フォルスネイムの問いに話題を逸らしている。その上で、
「どうすれば、あの子を悪夢から救うことができるでしょうか」
そう悪夢への対処法を尋ね返している。
悪夢の頻度は多くはなかったが、悪夢を見た後はクラムシェルはいつも憔悴し、数日に渡って気分がすぐれない日が続く。それは見ていて痛々しく、重苦しい雰囲気を漂わせるものだった。セレスタインは、何とか悪夢を見ないようにさせるにはどうしたらいいか、そう話題を変えたのである。
医師が考え、導き出したのは、このような意見だった。
「これまで私達は、何とかクラムシェルの過去を、記憶を思い出させようと色々な治療を行ってきました。だが、それ自体は殆ど効果らしいものはあげられていない。彼女にも、かなりの精神的な負荷となっているでしょう。思い出そう思い出そうとするあまり、凄惨な事故の記憶が蘇りかけたのかもしれません。私が考えるに、過去の記憶に蓋をしているものの正体が、あの悪夢なのではないでしょうか。
事故を思い出せば、蓋が開いて一気に過去を取り戻す可能性もある。しかし事故の記憶は、お嬢様にとって思い出したくない、思い出してはいけないものなのです。お嬢様はそのジレンマに陥っているのではないでしょうか。悪夢のあとに数日見せる、陰鬱で虚ろな精神状態は、それが原因だとすれば説明が付くのです。
ですから、対処法としては、今までのように、治療として無理に過去を思い出させようとするのをやめればいいはずです。記憶回復というプレッシャー、思い出さねばという強迫観念から解き放ち、無意識の中でゆっくりと時間をかけ、時の流れそのものによって心と記憶に負った傷を回復させるのです。自然と思い出せる日が来るまで。それが今のお嬢様にとって、最も必要な治療かもしれません」
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