1章 病棟の人魚姫 Ⅵ 片鱗②
――ええ、前の病院で戸籍は申請していましたが、あの子は私が与えた名を拒否し、自分をクラムシェルと名乗ることを宣言しておりました。ですから屋敷の使用人たちにも、その新たな名で呼ぶように通達を出しました。無論、気乗りはしませんでした。クラムシェルなどという奇妙な名が、あの子にふさわしいとは思えなかった。それにその名を自分だと認識することで、本当の名を思い出す確率が低くなるように思えたからです。
そう、あの子は言い張り譲ろうとはしませんでした。あの子は自ら、屋敷の者たちにもその名で呼ぶように頼んでいました。しかし私はその名で呼びたくなかった。ですから、私だけは、あの子を『レディ』或いは『レディ・アルビオン』そう呼んでおりました。あの子も最初は私にクラムシェルと呼ぶように言っていましたが、私はそれを拒みました。
――そう…ですね。確かに、考えてみれば、あの子に物語を楽しむような変化が起こったのは、クラムシェルという名を名乗るようになった後からだと思います。
それ自体は喜ばしい変化でしたが、それでも過去を思い出すことはなく、これといった兆候も見られませんでした。
どの物語も、クラムシェルにとっては初めて読む物語でしかなかったのです。
私はあの子がその日に読み終えた本や、読みかけの物語に関して、食後に設けた団欒の時間で、話しを聞くようにしておりました。流石に毎日「思い出した?」などと問いかけるようなことはありませでしたが、当然、気になっておりました。あの子は読んだ本のタイトルを言うと、それがどのような話なのか、延々と説明してくれました。それから、自分で思った感想を話してくれるのです。私はそれが楽しみでした。あの子の感想が少しずつ複雑なものになっていき、情緒が豊かになっていくのが分かったからです。幼児の簡単な感想や物語の単純な粗筋であったものが、少しずつ色々な言葉使いや形容詞などを使うようになり、感想の表現そのものが豊かになっていくのです。読む物語の難易度も、少しずつ上がっていました。それに従って新しい言葉を覚えるのか、複雑な解説を行うようになり、多彩な表現で感想を話すようになっていくのです。
ある日、それを聞きながらふと思ったのです。
人魚姫の物語がまだない、ということに。
――なぜそう思ったのか、ですか。
なぜなら人魚姫は、姉様が好きだった物語だからです。神童とされた姉様は、幼少期から様々な物語を読破していきました。私には到底読むことができないような書物が殆どで、物語だけではなく、数学の理論書や生物学の古典、芸術の評論集なども多かった。ですが、私が覚えている、幼かった頃の姉様が最も夢中になっていた物語は、人魚姫でした。姉様がその絵本や物語を何冊も所有し、繰り返し読んでいるのをはっきり覚えています。私自身に読み聞かせてくれたことも、一度や二度ではありません。私が分かりきった展開と結末に飽き飽きし、他の本を読んでと頼んでも、姉さま自身は飽きることなくその物語を何度も繰り返し読み続けていました。
ええ、流石に幼少期を過ぎる頃にはそのようなことはなくなりましたが、人魚姫が姉様のお気に入りの物語であったことは間違いありません。
ご存知のように、姉様の芸術家としての復活を世に知らしめ、地に落ちていた名声を一躍高めた作品は、海と幼い少女をモチーフとした作品でした。絶賛されたのが少女の眼差しと海の表現、その色合いでした。誰も再現できないというその色合いによって、スランプに陥っていた姉様は、幾つもの殻を一気に破り、以前とは全く別の芸術家として生まれ変わったと評されています。
その後は姉様の作品は、絵画だけではなく、旋律や彫刻、詩や物語などすべてが、本当に生まれ変わったように素晴らしくなったのです。どの作品も、触れた途端に、姉様の作品であると分かるようになった。姉様でしか表現できない何かが表現され、姉様でしか込められない何かが宿っている、そのようなことを誰もが言うようになっておりました。
その通りです。姉様の作品群に通底する特徴であり、代名詞ともなった、セイレンブルーという言葉が生まれたのです。そして姉様自身は、セイレンブルーの人魚、そんな二つ名で呼ばれるようになりました。
それを聞いたとき、私は思い出したのです。幼い頃、姉様が人魚姫の物語を特に好んでいたという過去を。そして思ったのです。姉様は己の幼少期の記憶に着想を得て、あれらの作品群を制作しているのだ、と。
ええ、そうです。その頃の私はまだ、姉様があの子を産んでいたことを知りませんでした。これは嘘ではありません。世間では色々言われておりますが、私は姉様の流産したという嘘を信じていたのです。
実際には、姉様のモチーフはクラムシェルでした。ですが姉様の作品群はやはり、人魚姫もまた、もう一つのモチーフとして描かれているのではないかと思っております。言ってしまえば、クラムシェルを人魚に見立てて描いているのではないか、そのような気さえするのです。他の評論家たちとは異なる意見でしょうが、姉様と同じ屋敷で暮らし、間近で見続けてきた私には、そう思えてならないのです。
私は絵画の少女を見ながら、声を失う代償として尾びれを足に変化させ、地上に立った人魚姫、そう解釈していたのです。
ですから、不思議に思ったのです。
白亜邸の書庫にはなぜ、人魚姫の物語がないのだろう、日記にはなぜ、人魚姫の物語の記述が無いのだろう、と。
気になった私が改めて探させてみて分かったのです。書庫に収められた膨大な書物の中には、人魚姫の絵本も、物語も、ただの一遍も存在しなかった。いやそもそも白亜邸には、絵本の類は一切ありませんでした。考えてみれば不思議なことですが。
日記に記されているような絵本も残されていなかった。恐らく、幼少期に読み聞かせていたものは、クラムシェルの成長に伴って捨ててしまったのだろうと考えておりました。人魚姫もそうなのだろう。そう考えていたのです。人魚姫の物語を殊更好んだ姉様が、溺愛していたクラムシェルにその物語を与えていないはずがない、と。
だから私は、何の気もなしに人魚姫の絵本を買い、クラムシェルにプレゼントしたのです。ええ、物語とも呼べない、絵と短い文章で構成された絵本です。書庫にはない本でしたが、言語の訓練ついでに過去を取り戻す切っ掛けになればよいと考えたのです。姉様はきっと、あの物語を読み聞かせたはず、そう思っておりました。
ええ、そうです。私があの物語を、あの子に直接、手渡したのです。他の誰でもない、この私が。その時はまさか、あの絵本が今のような事態を引き起こすとは、思いもしませんでした。
――あなたのお母様が子どもの頃に大好きだったお話よ。
そういって私は絵本を手渡しました。
「お母様が…」
あの子は絵本を手にすると、
「…ニンギョヒメ?」
そうたどたどしく呟き、表紙に記されたタイトルを怪訝な顔でじっと見ていました。
「そういえば、あなたが最初に興味を示した新聞記事に、その言葉があったわね。『クラムシェル――病棟の人魚姫』と。それの元になった物語よ。あの記事の人魚姫とは、この世界中で読み継がれている物語、その主人公から付けられたのよ。覚えて…いないかしら。人魚姫は、誰でも知っている有名な童話なのだけれど」
今思えば、人魚姫の名を耳にして本を渡された瞬間から、あの子の反応は他の本とは違っていました。食い入るようにじっと、題名の記された表紙を見詰めていました。その当時、他の物語では、どのような書物を手渡しても、タイトルと目次だけさっと確認すると、待ちきれないというようにさっさとページを捲る出すのが常でした。ところが、その人魚姫の絵本だけは、表紙をじっと見続けるだけで、なかなか開こうとはしないのです。何度か開こうとしては、躊躇してやめる、そんな風にも見えました。いつもと様子が違うことに気付いた私は、不思議になって尋ねました。
「どうしたの? 文章の少ない絵本だから、そんなに難しくはないわ。あなたのお母様は小さい頃、この物語が好きだったのよ。以前暮らしていた屋敷にはなかった物語だし、日記には書かれていなかったけれど、きっとうんと幼い頃に読み聞かせてくれていたと思うの」
私に促されて、あの子はやっとページを捲り始めました。ゆっくりと、一枚一枚読み進めていくその指先が、微かに震えていたのを、私は確かに覚えています。もしかすると、思い出しているのかもしれない。読む姿を見ながら、私はそう思いました。その表情には、喜怒哀楽のどの表情もありませんでした。ですが無関心だとか、退屈そうだとかではない。むしろ全く逆です。あの子は真剣そのものでした。決意して何かに挑むような面持ちでした。少しの怯え、そして緊張、そういったものが混ざったような表情でした。そのような表情を見たのは、初めてでした。いえ、顔だけではない、全身が強張っているように見えました。見ているこちらまで張り詰めた空気が伝わって来るほどでした。
もともと驚くほど色白の子です。その顔が青ざめていました。かつてあの子を始めて白亜邸に連れて行ったときのことを思い出しました。でも、止めようとは思わなかった。他のどの書物でも見せなかった反応を、あの子が示していたからです。
あの子は私に見詰められていることなど完全に忘れて、物語に没頭しておりました。その真剣な眼差しに、私もあの子から目を逸らすことができなかった。あの子は呼吸することさえ忘れてしまったかのようでした。その視線の動きから、一枚に記された短い文章を、繰り返し何度も読み返しているのが分かりました。時間をかけて一枚を繰り返し読み終えてから、ようやく次のページに進むため、ページを捲るのです。一ページずつ、噛みしめるように読んでいるのが分かりました。ようやく全てを読み終えようとしたときには、高々数十枚の絵本に、一時間以上の時間が過ぎていました。見ているこちらも緊張を強いられていました。あれは、実に不思議な体験でした。
ところがあの子は、最後のページで止まったまま、本を閉じようとしないのです。最後のページを読み終え、それが最後であることを一度確認すると、また最後のページに視線を落とし、読み続けたのです。
その様子は、明らかに奇妙なものでした。
少しの間最後のページを読むと、再びページを捲り、そこが見開きの真っ白な空白であることを確認するのです。それを何度も何度も繰り返すのです。まるで、最後のページが本当に最後のページであることが信じられないかのようでした。
その姿に少し恐ろしさを感じ、私は思わずあの子に尋ねていました。
「どう、思い出した?」
私が言葉を選び、搾り出したのはそんな単純なものでした。
あの子は少し考えてから答えました。
――ええ、思い出したわ、と
そうなのです。あの子が物語を読んで「思い出した」そう口にしたのは、それが初めてでした。それまでどんな物語を読んでも、初めて読む、覚えていない、思い出せないといっていたあの子が、確かにそう答えたのです。
あの子は続けました。
「お母様は私に、人魚姫のお話をしてくれた。…うんと小さい頃だった」
私は涙ぐみました。おめでとう、そう口にしかけたのです。しかし、あの子は思いつめたような顔で、言葉を続けたのです。
「…ただ、違うのよ」
「違う? 何が?」
「これは、人魚姫じゃないのよ」
「人魚姫じゃない? どう…いうこと」
その言葉の意味が掴めずに、私は鸚鵡返しに尋ねました。
あの子は、少しの沈黙の後に、溜め込んでいたものを吐き出すように言いました。
「――こんなお話じゃなかった。お母様がお話してくれたのは、読み聞かせてくれた人魚姫は、こんな物語じゃなかった。違う物語よ、これは。だって、だって、お母様のお話してくれた人魚姫の物語は…もっと違うものよ。これは別の物語だわ。人魚姫は、これじゃない。こんなのは、人魚姫じゃない…」
あの子は明らかに混乱していました。自分の中に渦巻いている何かに動揺し、戸惑っていました。自身が口にしていることの意味が、自分で分かっていないようでした。聞いている私も困惑していました。
様子を見かねた私は、話して聞かせました。
「人魚姫とは世界中に広がる、母から娘に読み聞かされる有名な童話で、他にはないのよ。何が違うの? これが人魚姫の物語よ。誰もが知っている、同じお話。きっと姉様が与えてくれた絵本とは違うものだから、そう感じるのね。人魚姫は様々なバージョンがあって、版元によって絵や文章が違う。驚くほど色々な種類があるもの」
すこし苛立ちながら、あの子は言葉を返しました。
「――そんなの、私には分からないし、知らないわ。私に分かるのは、人魚姫がこんなお話ではなかったことだけ。でも、確かに思い出したのよ。お母様が私に、人魚姫のお話をしてくれたことは。はっきりと。でも、お母様がお話してくれた人魚姫が、こんなお話じゃなかったことことも、はっきりと分かるの。間違いないわ。特に、最後のシーンはこんなのじゃなかった。こんな結末じゃなかったはずよ。いったいどんな結末だったかしら、どんな物語だったかしら。さっきからずっと思い出そうとしているの。でも、どうしても思い出せないのよ。それなのに、胸がどきどきしてくるの。思い出そうすればするほどに、人魚姫がこんなお話じゃなかったと思うほどに、胸が苦しくなる。その理由が、自分でも分からないのよ。この気持ちを、どうしていいのか、どう言葉にすればいいのか、私にも分からない。こんな気持ちは初めてなの。いてもたってもいられないのに、何をすればいいのか分からないのよ――」
話すにつれて、あの子は取り乱していきました。暴れたりすることはありませんでしたが、混乱して感情が抑えきれず、早口になり、抑えきれない思いを吐き散らすように捲し立てたのです。
その後も長いこと、私の与えたその絵本を読んでいました。偏執的といってもいいような雰囲気で、いつまでも、繰り返し。私も、それぐらいにしなさい、という言葉を何度もかけようとしましたが、真剣に何かを思い出そうとしているその姿に、言い切れなかった。
あのときは、あの子の言葉も意味することも分からず、背中がぞっとするような冷たい違和感だけが残ったことを、よく憶えております。
――そうです。今、考えてみると、あの子に異変が起こり始めたのは、この出来事の後からなのです。人魚姫という物語との出会いから、あの子の歯車は狂い始めているのです。あの子が悪夢を見るようになるのも、あの子が過去を思い出し始めるのも、そしてあのような悲劇を起こすことになるのも、人魚姫という物語との出会いが切っ掛けとなっているように、今となっては思えるのです。
でも、このときには分からなかった。私が何気なく手渡した人魚姫が、あの子の精神を蝕み、人魚姫症候群なる病名の病を生み出すことなど、分からなかった。ましてその病が世界中に蔓延していくことになるなど、当時の私に予想できるはずがないのです――。
上記のように、人魚姫という物語に対するクラムシェルの感想は、他の物語には見られない奇妙なものであった。
人魚姫の物語と初めて邂逅した後、クラムシェルの精神に新たな症状が現れる度に、この人魚姫の物語は顔を出し、当人を悩ませ、周囲を困惑させることになる。
そうした後に、クラムシェルはついには自らを人魚姫だと思い込むことになるのだが、それはまだ先のことであり、この時点ではまだそれは想像の範囲外にある。
ただ、人魚姫という物語が、クラムシェルの病を解き明かす上で重要な鍵であるのは、先の記録から分かるとおりである。
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