1章 病棟の人魚姫 Ⅴ わたしはクラムシェル②
クラムシェルが一向に記憶を思い出せないまま日記の文字を言われるがままにつらつらとなぞり、無表情で物語の文字をたどる毎日を繰り返す中で、セレスタインと医師たちは一つの決断を下す必要に迫られていた。
それはクラムシェルの名をどうするか、ということである。
過去の名が明らかにならぬまま、病院では「お嬢様」とだけ呼ばれていた少女は、転院後にクラムシェルという名を失ったことには特段の関心も感慨もなかったようだった。しかし、いつまでも名がないままでいるわけにはいかなかった。報道機関ではクラムシェルという名が使われ続け、世間でもその名が定着していた。
また、戸籍上の問題もあった。悲劇に巻き込まれたこの私生児である少女を、財閥としてどう扱うかを一族に説明する必要があった。クラムシェルがセイレンの娘であることは間違いがなかったため、一族として引き取らねばならなかった。法的には未だに「存在しない」ことになっている少女、その処遇を決めなければならなかったのだ。
セレスタインの決断によって行方不明であるセイレンの娘として戸籍を申請し、その上で、子どものできなかったセレスタインが、自身の夫婦の養子として引き取ることとなった。そのことは財閥内外に少なくない衝撃を与え、反発も大きかった。セイレンが行方不明である以上は、クラムシェルは財閥の第一継承者である。その子をセレスタインが引き取ったということは、第一継承者の後見人として巨大な権力を恣にする危険性が一気に跳ね上がったからである。だがセレスタインは財閥の親族会の場で反対を押し切り、「あくまで後見人である」等の取り決め条項が記された分厚い書面にサインすることで、両親とグループ一門の裁可を得ることに成功した。
そして戸籍を申請する際に、当たり前のことであるが、どうしても名を決めなければならなかった。セレスタインがクラムシェル本人に聞いたところ、「好きにしていい」というそっけない答えが返ってきた。セレスタインはそんなクラムシェルをこう諭している。
「そのうち本当の名を思い出すだろうけど、名というものはとても大切な、そして神聖なものなのだから、よくご自分で考えて御覧なさい」
自分の名を考える、その行為にクラムシェル自身は少し困惑していたという。
「だって、どんな名を付けても私は私でしょう。それに、自分の名なんて思いつかない。どんな名を考えてみても、思いついても、それが本当の名ではないことが分かるのだもの。これは私の名じゃないってね。本当の名は思い出せないのに、それが自分の名じゃないことだけは分かる、それも考えてみればおかしなことね」
そう話したクラムシェルは自分では偽りの名を付ける気になれないといいはり、セレスタインに決めて欲しいと一任している。セレスタインは、いつか生まれるであろう娘のために、そして恐らくはもう生まれてこないであろう娘のためにずっと温めていた名を、クラムシェルに与えることにした。その名を与えることで、クラムシェルを正式に一族に迎え入れ、我が娘として育てる決意を表明しようとしたのである。
セレスタインは親族会において、こう話している。
「幼児返りしたあの子と付き合っていくうちに、いつの間にか深い愛情を抱くようになっていたのよ。だから私は決意したの。姉様の残したこの子を大切に我が娘として育てよう、と」
戸籍が提出され、クラムシェルは一度はその名で呼ばれるようになった。
その名はここで記すには値しない。所詮は戸籍上のものであり、何より、つまらない名であるからだ。何処にでもある、ありふれた名であり、この物語には相応しくない。
それにこれは実に幸いなことであるが、その名でクラムシェルが呼ばれていたのは、僅かの期間でしかなかった。
名前など何でもいいと話し、セレスタインが与えた名を無感動に受け入れたはずのクラムシェルが、程なくしてその名に違和感があると異を唱え、自身で新たな名を名乗りたいといい始めたのだ。
切っ掛けは、医師が何となしにクラムシェルに見せた一枚の新聞記事であった。
ある日、クラムシェルは医師にこう尋ねたのだ。
「私はなぜ、クラムシェルと呼ばれていたのかしら。誰がその名を付けたの」
資料を読み込んでいた医師は『その名はクラムシェル――病棟の人魚姫』
そう見出しが付けられていた記事をファイルから取り出した。それは、昏睡状態から目覚めたクラムシェルが、言葉も、声も、記憶も、名も失っていることが分かった当時に出た新聞記事の切り抜きであった。
ゴシップ紙やマスコミの影響を恐れて、それらの媒体からの情報は遮断されていたが、医師は問題ないと判断し、問いに答える形でクラムシェルに見せたのである。
「短い物語ね」
それを手渡したときのクラムシェルの反応は、意外なものだった。
「すぐに読み終わってしまうわ。訓練にはならない」
医師は、これは物語ではなく、新聞記事だと話した。
「どう違うの? これは物語のタイトルでしょう」
そし口にして記事を読んだクラムシェルの言葉は、医師の予想を越えたものだった。
「この、クラムシェルとは誰?」
そうクラムシェルは尋ねたのだ。医師は一瞬、クラムシェルの問いの意味が分からなかった。聞き間違えたのかと思った。まじまじとクラムシェルの顔を見てから、聞こえなかった振りをして聞き返した。
すると、クラムシェルはこう答えを返したのだ。
「物語が途中で終わっているわ。この浜辺に流れ着いたクラムシェルとは、誰のことなの。この後、どうなったの?」
医師はたじろぎ、
「…それは、もちろん、貴女様のことですよ。クラムシェルとは、前の病院で呼ばれていた名でしょう。まさか、もう忘れてしまったのですか? ほんの数カ月のことですよ」
その医師の言葉に、クラムシェルはじっと記事に目を落とした。
「…そうね、確かにそう呼ばれていたわ。もちろん、憶えているわ」
「では、どうしてさきほどは…」
「だって文字なんてただの記号、形でしょう。それが私とすぐには結びつかなかったのよ、別に不思議なことじゃないわ。それに数ヶ月も呼ばれていなかった名よ。十年以上呼ばれていた名を私は忘れてしまっているのですもの。仕方がないでしょう」
「そんな、でもつい先ほど、ファイルを持ってくる前に、お嬢様は、こうご自分でお尋ねになられたのですよ。
『なぜ、クラムシェルと呼ばれていたのか、誰がその名を名付けたのか』と…そのことさえも、忘れてしまったのですか」
その問いにクラムシェルは戸惑い、その答えを探しあぐねていた。
恐らくこのときクラムシェルは、医師が何を奇妙に思ったのか、自分が口にしたことの何がおかしかったのか、ピンときていなかったと思われる。そのため、医師の問いと自分の答えを頭の中で反芻し、整理していたと考えられる。
クラムシェルはしばらくの間、視線を記事に落としたまま、身じろぎもしなかった。そして医師の眼差しと耐えがたい沈黙を前にして、ようやく口を開いた。
「…そうだったわね。少し、混乱してしまって。何だか文字になったクラムシェルという名が、自分に結びつかなかったものだから。きっと叔母様の付けた名が馴染んできたのね。私の物覚えの悪い脳に」
そう医師に返したのである。
医師はその答えに釈然としない思いであった。やはり、脳障害の影響が残っているのだろう、そう考えざるを得なかった。
医師の不審を感じ取ったのか、クラムシェルは言い訳をするようこう続けている。
「それに、シンブンキジっていうものが何か、私は分からなかったのよ。いつも読んでいる物語と、どう違うの? 『シンブンキジ』とは何なの?」
そう、クラムシェルはそもそも、新聞記事という言葉の意味を、それが何で、どのようなものなのか、理解していなかったのである。
この後、新聞記事という言葉の意味を理解していなかったクラムシェルに、その医師はひとしきり説明をする必要があった。
この時確かに、クラムシェル自身は、前の病院でクラムシェルと呼ばれていたことは記憶していた。しかし、新聞に出たことは知らず、また転院後にクラムシェルの名が加熱するゴシップと共に、世間に広まって浸透していったことに関しては知らなかった。先に記したが、転院先は外部の喧騒や情報から遮断された状況にあり、またゴシップ紙の内容が当人に漏れないよう、セレスタインが徹底していたからであった。
医師は新聞記事の説明をした後、ゴシップの内容を伏せたまま、クラムシェルという名が記事となって世間に広まっていることを、医師は説明した。
「あなたの知らない人々が、あなたのことを新聞記事で知り、その誰もが心配しているのですよ。あなたの記憶が戻りますように、とね」
無論、医師の心遣いから出た一言であったが、クラムシェルはその言葉を反芻した。そうして、今知った情報を頭の中で噛み締め、嚙み砕き、咀嚼して後、こう発言したのだ。
「このシンブンキジの物語は、私について書かれているのね。みんながこの物語で、私のことを知っているのね。クラムシェルという名で、このシンブンキジが広まったことで」
医師は頷き、こう諭している。
「だから、治療が終わるようにもっと努力しなければ」
頷き返したクラムシェルは再び視線を戻すと、記事を何度も読み返していた。
そして、ぽつりと呟いた。
「ここに書かれているように、誰がクラムシェルという名を付けたのか、未だに分かっていないのね」
この誰がこの名を付けたのか、という点に関して、この後クラムシェルは常にない関心を示している。そして調査してもらうように、セレスタインへと直接頼み込んでいる。セレスタインはクラムシェルの執着心が理解できず、不思議に思いながらもオブシディアンに財閥による再調査を手配させている。
結果、一週間に及ぶ財閥の調査でも、名を付けたのが誰かは判明しなかった。
「もしかすると、当時の病院に入院していた患者かもしれないし、出入りの業者がクラムシェルの症状を聞いて名付けたのが広まったのかもしれない。思いつきで名付けた人間が、自分が名付けたことを忘れてしまったのかもしれないが、今となってはもはや確認のしようがない」
そんな頼りない調査結果だけが返ってきた。
結局、クラムシェルという名の命名者が誰かは、判明しなかったのである。
クラムシェルは医師に言って、その記事を手元に置き続けていた。そして、別の医師や看護婦が訪れる度にそれを読ませ、こう尋ねている。
「この物語を知っている?」
聞かれた人々はそれぞれが同じように答えた。
「物語? ああ新聞記事ですね。知っております、読みましたので」
それに対して、クラムシェルもまた同じ答えを多数に返しているが、この発言には注目しておきたい。クラムシェルは幾度もこう言っているのである。
「でも、まるで物語のタイトルみたいではない? クラムシェル――病棟の人魚姫、なんて。それに誰もがこの名で、私のことを知っているのでしょう。なのに、この名を付けた人が誰か、誰も知らないのよ。名を付けた人が見つからない、この世の何処にもいないみたいに。不思議でしょう。
そう、まるで、作者のいない物語みたいに」
それから程なくして、クラムシェルはセレスタインにこう告げている。
「叔母様、私、やっぱり名を決めたわ。
――クラムシェル、それが私の名よ。もちろん、お母様がつけてくれた本当の名を思い出すまでの仮の名だけれど、それでいいわ。誰が考えたかも分からない、いつの間にか与えられていた名。他のどんな名も私には違和感があるのだけれど、作者のいないこの名は、今の私にピッタリだという気がするの」
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