1章 病棟の人魚姫 Ⅴ わたしはクラムシェル①
クラムシェルが白亜邸を訪れたのは、研究所へ転院して二ヶ月後のことである。
訓練を自発的に行うようになったことで身体機能は少しずつ回復し、言葉は五歳児程度まで操れるようになり、並行していた読み書きの訓練も簡単なものならできるようになっていた。
医師たちは、言葉が通じるようになってからクラムシェルの置かれた状況について繰り返し説明していた。記憶喪失になっていることもそうだが、その切っ掛けとして何らかの海難事故に遭って、頭部に大怪我を負った状態で浜辺に漂着していたこと。また一緒に事故に遭ったと思われる母親が、未だに行方不明であることも、セレスタインの許可を得たうえで説明がなされていた。母のことを話したのは、時折、クラムシェルが夜半に「ママ」と呼びながら病院を徘徊することを見兼ねてのことだった。
クラムシェルにその事実を告げた後、嘘のように彼女の徘徊はピタリと止んだ。それ以後は母の行方や事故の真相に関し、自ら何かを話したり尋ねたりということはなかったし、話題にすることもなかった。ゴシップ記事など、世間に流布している関係資料の一切は、クラムシェルの目に触れさせないように徹底していた。その内容が下卑たものであったことは当然だが、クラムシェルの徘徊が止まってから、セレスタインと医師との話し合いの結果、事故の件に関しては一切に質問をしないこと、話題として触れてはいけないことが方針として決められたからである。
事故の記憶は過去を思い出す切っ掛けになる可能性が高かったが、精神的には幼年期に等しいクラムシェルがトラウマを負う危険性が高いと判断されたためである。それに事故の記憶に先駆けて、まずは母親との素晴らしい暮らしの思い出を蘇らせることが優先されたからでもあった。
だが先に記したように、記憶に関しては殆ど何も思い出すことはなかった。覚えているのは母であるセイレンの顔だけであり、日記に記されたような想い出や、絵画に描かれていたようなシーンは一切思い出せていなかった。そこで医師たちは、一度かつて暮らしていた白亜邸を訪れることをセレスタインに提案したのである。そうすれば何らかの記憶を取り戻すかもしれない。過去を思い出すことができれば、幼年児程度の言語機能も一気に回復するのではないか、そう考えたのである。
セレスタインは数日検討し、何人かの医師の意見を聴いた後、躊躇しながらもその提案に許可を出した。この件に関して彼女は、医師とは全く異なる視点から、記憶回復への期待とは別次元の、大きな不安を抱いている。
白亜邸でどのような出来事(事故、或いは事件)が起きたのか、いや、起こっていたのか――という点である。
その記憶を思い出すことが、果たして本当にクラムシェルにとっていいことなのか、セレスタインはどうしても確信を持てずにいたのである。
それでも二カ月間どんな治療を施しても過去を取り戻せないクラムシェルを不憫に思っていたセレスタインは、一縷の望みを託す思いで、封鎖されていた白亜邸に連れて行くことを決断したのである。無論、セレスタイン本人と医師の付き添いの元であるが。
出発前、クラムシェルは緊張した面持ちで、付き添いとして選ばれた医師とセレスタインの前でこう尋ねている。
「ママは、まだみつからないの?」
二カ月もの間、自ら母親に関して尋ねることのなかったクラムシェルが出発前に発したこの質問から、その心の中では、母親が何処に行ったのか、自分たち親娘に何が起こったのか、秘かに気にしていたことが推察できる。
付き添った医師はこの質問時のクラムシェルの表情を見て、こう判断している。
「お嬢様は母が遠くに行っているだけと思っており、帰ってくることを無邪気に信じ、待っているように見えました。死んでいるなどと欠片も思っていない、そう感じたのです」
対して、セレスタインは全くの逆の考えを持っていた。
「あの子の理解力からいって、恐らく母親がもうこの世にいない可能性が高いことを、自身でも薄っすらと分かっているようでした。あの表情は、母親の死を覚悟してもののように見えました」
クラムシェルの表情に対する二人の感想の違いは、彼ら自身の先入観からくるものであろう。それは即ち、屋敷で幸福な日々を送っていたであろうというものと、屋敷で悲惨な毎日を過ごしていたであろう、というものである。
その質問に二人は一瞬固まり、医師と顔を見合わせて目配せをしたセレスタインは、予め精神科医と共に用意していた答えをクラムシェルに告げている。
「ええ、でもきっと、そのうち帰ってくるわ」
咄嗟の作り笑顔でそう返している。「見つかる」ではなく「帰ってくる」という言葉を選んでいるところに、如才ないセレスタインの気遣いが見て取れる。彼女はこう続けている。
「そのときは、貴女が元気になって驚くほど成長した姿を見せてあげましょうね。きっと姉様もお喜びになるわ」
車が白亜邸に近づくにつれ、それまで外の風景をぼんやりと眺めていたクラムシェルは、車の窓が開け放たれると、すぐに顔が青ざめてきた。車に酔ってしまったのだろうと心配したセレスタインの指示で、車は少し道を外れ、海岸線へと入った。
海沿いで車を止めると、外の空気を存分に吸わせようとクラムシェルを降ろした。
そして目の前に広がる海を前に、セレスタインはこう言ったのだという。
「ほら、これがあなたが、そしてあなたのお母様が大好きだった海よ」
セレスタインは後にこう話している。
「…ええ、車酔いを醒まそうとしただけでなく、記憶を思い出させようとしたのです。あの子は、海辺で母と二人で暮らしていました。海で波に戯れているあの子の姿が何枚も絵画として描かれています。海とあの子をモチーフに、姉様は作品を制作していたのです。日記にも、海と戯れるあの子を記した箇所は非常に多い。ならば、海は、あの子にとっての原風景のはず。考えてみれば、入院して以来、あの子が海を見る機会がなかったことに気付いたのです。だから、海を見れば何かを思い出すかもしれない、そう思ったのです」
注目すべきは、そのような期待をかけていたセレスタインの前での、海を目の当たりにしたクラムシェルの反応である。
クラムシェルは青空の下に輝く海を目にするなり、その場で嘔吐したのである。ただでさえ青白い顔が一気に血の気を失い、痙攣するかのように激しくえずきながら、何度も吐き戻したのである。
胃の内容物をあらかた吐き出した後、息を整えたクラムシェルははっきりといったのだ。
「ごめんね、そとのにおいをすったら、きもちわるくなったの。でももうだいじょうぶ。はいたらすっきりした」
慌てたセレスタインと医師によって、一度病院に連れ戻すことが検討されたが、クラムシェル自身が強く拒否している。彼女は白亜邸行きにこだわり、そしてまた、その場でしばらく海を眺めていたい、そう二人に意思表示をしている。
しばらくその場で休憩している間、クラムシェルは無言で海を眺めていた。
そして車に乗り込む前に、こう言ったのだ。
「わたし、おぼえてるわ、この、うみを、そして、そらを…いえ、おもいだしたのよ。このふうけいを、わたしはみていたの」
クラムシェルが「覚えている」「思い出した」そうはっきりと口にしたのは、それが初めてであった。
白亜邸の前に辿りついたとき、クラムシェルの表情は硬く、やや青ざめたままであった。医師の指示に従って正門から入り、二人を従えて部屋の扉を一つ一つ、自分で開けながら部屋を確認していった。セレスタインと医師はその後ろから付いていき、クラムシェルが思うままに邸宅を歩き回るのを眺めていた。しかしどの部屋を見ても、さっき見た海とは違い、クラムシェルは覚えていない、何も思い出せないと話した。
書庫も、キッチンも、書斎も、アトリエも、「見たことがあるような気もするのだけど、初めて見るような気もする」そう話した。
部屋という部屋を回った後に、落胆するセレスタイン達の前で、クラムシェルは最後に残された地下室への階段の前で歩みを止めた。じっと階段を見詰め、
「このしたには、なにがあるの?」
邸宅に来て初めて、クラムシェルはセレスタインに尋ねた。
「思い出せない? いえ…何か、思い出したの?」
少し思案した後、クラムシェルは頭を横に振った。
「よくわからない。でも、なにかおもいだしそうなの」
その場でしばらく立ち止まると、緊張した面持ちのまま、意を決したようにゆっくりと階段を降りていった。
扉をゆっくりと開けると、そこは暗がりであった。立ち竦むクラムシェルの後ろから、セレスタインが手を伸ばして灯りのスイッチを探し当てようとした。背後から伸びた手に、クラムセシェルはびくりと震えると、自らの手で迷うことなくスイッチを探し当てた。電灯に照らし出されたのは、真っ白な広々とした空間であった。地下室と呼ぶにはあまりにも美しい、目が眩むばかりの白い大部屋だった。
「白い空間に、一つの寝台と一つの椅子だけがあり、そのどちらも真っ白であった。その他の調度品は何一つなかった。部屋に比して寂しい感じで、ぽつんとたった二つの家具が配置されていた。そこは部屋というより、まるで一枚の絵画のようで、寝台と椅子が美術館のオブジェとして展示されて作品のように見えた」
部屋を初めて見た医師は、そう日記に記している。
クラムシェルはふらふらとその部屋に入ると、その寝台にゆっくり腰掛け、そして少し離れて配置された椅子に視線を移した。
「――ここが、わたしのへやだった…」
そう言葉を漏らした。そしてそのままじっと、椅子を凝視していた。
「…記憶が、もどったの?」
沈黙に耐えかねたセレスタインの質問に、クラムシェルは直ぐに答えようとしなかった。そのまま椅子を見詰めながら、ゆっくりと話し始めた。
「ママはいつも、わたしのまえで、ここにすわっていたわ。そう、ほんをひらいていた。あおいほんを。それをいつもよんでいた」
そう言うと、ぽろぽろと涙を流した。啜り泣きが、しゃくりあげる様に変わった。
「どこへいったの? かえってきて、ママ。そして、わたしのなまえをよんで」
閊えながらそう吐き出すと、喋り方と同じ幼児のように、わんわんと泣き出した。セレスタインが宥めようと、あやすように頭を撫でた。クラムシェルが泣き止むまで、彼女は寄り添い、優しく頭を、背中を体を撫で続けることになった。
クラムシェルは後に自在に言葉を操れるようなってから、このとき思い出したことに関して医師に尋ねられ、こう話している。
「――そう、お母様は私の前で、いつも一冊の青い本を開いていた。それが、私がたった一つだけ思い出した記憶だった。それが、全ての始まりのシーン。それだけが、私を支えている過去、掛け替えのない思い出だった。
でも、どうしてかしら、不思議ね。お母様がたくさんのお話しを聞かせてくれたことは思い出した。でも、どんなお話しであったかは、まったく憶えていないの。お母様が話してくれたお話しも、お母様が私を何と呼んでくれていたのかも。どんなに思い出そうとしても、思い出せない。私が思い出したのは、まるで一枚の絵画のようなシーンだけ…」
こうして白亜邸の訪問は終わった。注目すべきは、海を見たときのクラムシェルの言葉、そして白亜邸の地下室で彼女が思い出した、一つの情景であろう。クラムシェルは白亜邸を訪れたことで、ようやく二つの記憶を取り戻すことができたのだ。一つは海の風景、そしてもう一つは、母親の思い出――セイレンがクラムシェルの前で、青い一冊の本を読んでいた情景だった。
医師たちは、これを切っ掛けとして、少しずつ過去を取り戻していくことを期待している。後は、芋づる式に過去を掘り起こしていけばいいのだ、と。
しかし彼らの予想に反し、白亜邸訪問を端緒として、この二つ以外に、クラムシェルが新たな記憶を思い出すことはなかったのである。
それだけではない。医師たちは、クラムシェルが言葉を取り戻し言語を発するようになってから、記憶以外でも失っているあるものに気付いたのである。
医師たちは話し合い、適当な言葉を探しあぐねた末、クラムシェルが失っているものに「情緒」という言葉を便宜的に充てている。
白亜邸の訪問以後、クラムシェルの日々は、主として言語能力の回復に費やされた。幼児期程度であった会話、読み書きの能力を発達させることと、物の名前を教えることである。記憶を失っていたクラムシェルは自分の名と同様に、物の名もまた悉く失っていた。医師が実験として色々なものをクラムシェルの前に差し出して、その名を尋ねた。しかし日常生活で使うもののでさえ、クラムシェルは口を開きかけては考え込み、「しらない」そう言うのだ。
白亜邸訪問後、読み書きができるようになってからのことである。クラムシェルは訓練中に医師と共に物語を読みながら、質問をするようになった。それまでは話を聞いていうなずくばかりであったが、自ら問いかけるようになったのである。そのこと時代は喜ばしいことであり、精神的には確実な進歩であったが、同時に医師を戸惑わせた。
例えば、クラムシェルの質問はこのようなものである。
「アプリファとは何?」「ィエンとはどういう意味?」「ジヤナってどういうこと?」「シルドラコってどこなの?」
そう、クラムシェルは、幼児でも知っているような物でも、殆どの名を忘れ去っていたのだ。クラムシェルが記憶喪失であることは医師達も分かっていたが、その質問によって改めて、その症状が強度で根深いものだとの認識を新たにしたのである。
そして、何のことはない物の名でも、それを説明することは中々に難しかった。説明中に出てくる言葉の意味をクラムシェルが知らないため、また新たな説明が必要になるのだ。しまいには、一体どの言葉の意味を話していたのか分からなくなるほどで、医師が困惑することもしばしばであった。
訓練に使ったのは、初期は簡単な絵本であったが、言語能力が上がるにつれて、幼年向けの童話に、そして中学年向けのジュブナイル、高学年用のジュニア小説が、テキストとなって使用された。それらの多くは邸宅に残されていたもので、セイレンがクラムシェルのために買い揃え、吟味してコレクションしていた書物であった。もちろんこれには、言語のレッスンだけではなく、かつて読んだ本を読み返すことで、記憶を取り戻させるという目的もあった。
セイレンの日記には、クラムシェルが情緒の豊かな子どもで、幼少期からそれら多くの物語を読み聞かせ、またせがまれていた様子が描かれている。
二人だけの暮らしの中で、セイレンがクラムシェルの情操教育に、白亜邸の書物を使っていたことが、はっきりと描かれている。
日記には、読み聞かせを卒業したクラムシェルが、自分で書物を読めるようになってから、書庫の本を片っ端から読破していったことが記されている。クラムシェルが母であるセイレンに話して聞かせた物語の感想の一部や、それに対するセイレンの思いなども散見される。クラムシェルがいかに想像力に優れ、情緒が豊かであるか、一度聴いた物語を決して忘れないこと、物語を聴きながら本当に泣いたり、悲しんだり、怒ったり、憤ったりと、想像だけで表情を変化させ、感情を揺さぶられていたことなどが、その成長とともに、セイレンの視点で日々、丹念に綴られている。
しかし、である。入院以後、どんなに白亜邸の書物を語り聞かせても、読ませても、クラムシェルは思い出すことがなかった。日記では、かつて少女のお気に入りであったと記され、繰り返し読んでいたという物語、またその素晴らしさの感想をセイレンに興奮気味に話し、抱きしめて寝ていたような書物も、彼女は一切記憶しておらず、最後まで読ませても、何一つ思い出すことはなかった。どの物語も、初めて耳にした、初めて読んだというのだ。そして何よりも、それらの物語が、「初めて読む」にも関わらず、日記に記されたように、クラムシェルの心を揺さぶる、ということがなかったのである。
そう、物語を面白がる、ということができなくなっていたのである。
ただつらつらと文字を追い、意味を読み解きながらも、物語そのものを楽しむことはなかった。哀しみも、喜びも、怒りも、何も感じないというのである。かつてクラムシェルを夢中にさせたという物語の数々が、同じようにクラムシェルの心を虜にするということが、一度たりともなかったのだ。
それはセイレンの残した日記に関しても同じであった。セイレンの日記には、母と自分の美しい日々が綴られている。それを読んでも、クラムシェルは何も思い出せないといった。「どのような感想を抱きました」そう尋ねた医師には、
「カンソウ? それは何? これはただの文字でしょう。読書とは、記憶を思い出すための、過去を取り戻すための、訓練なのでしょう。感想なんて何もないし、何も思い出せない。だって、何も感じられないもの」
クラムシェルは、物語に無感動になっていたのである。
言語のリハビリを続ける内に判明したのは、クラムシェルは文字を覚え、物の名を覚え、文章の意味を解することができるようになっても、物語を記憶することができない、ということであった。前日の物語の続き読ませようとしたところ、彼女は前日からの物語のつながりを理解していなかった。驚いた医師が前日も訓練で読んだと話し、内容を説明しても、「そうだったかしら。忘れてしまったわ」そう平然と言うのだ。
セイレンの日記での、「一度聴いた物語を忘れることはなく、うっかり同じお話を寝る前にしようとすると、怒って機嫌を損ねた。かと思えば、同じ話を繰り返してねだることもあり、そんな時に意識せずに話をアレンジしようとすると、前と違うわ、そんな指摘を受け、癇癪を起こされることもあった」そんな記述を知っていた医師は、この件に関してこう記している。
「――これを症状として言葉にするならば、情緒欠損、だろう。お嬢様はどうやら『情緒』というものを失ってしまっているように思われる。脳で情緒を司る部位を喪失してしまったかのようである。彼女が失ってしまったのは、記憶や過去や言語だけではなかったのだ。この情緒の欠損こそが、あらゆることに反応らしい反応を返すことができず、医師達が口を揃えて、魂を失ってしまった、そう形容した初期の症状の、その根源であったのではないだろうか」
そしてこの情緒喪失は物語に限らず、絵画、音楽など、芸術的な分野全般に及んでいたのである。
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