1章 病棟の人魚姫 Ⅳ 名もなき病③
〇 幼児退行症
クラムシェルが浜辺に打ち上げられて半年後、頭の包帯が取れた日のことであった。
包帯が外された後、クラムシェルは差し出された鏡に映る自分をまじまじと見ると、突然表情を歪め、鏡を取り上げて叩き割ってしまったのである。このときも医師たちは、いつもの破壊衝動であろうとさほど気にしなかった。
だがその夜、クラムシェルが初めて言葉を発したのである。
その言葉とは「ママ」だった。
寝静まった夜半である。看護婦が、クラムシェルが酷く魘されていることに気付いたのである。それは入院して依頼、初めてのことであった。悪い夢でも見ているだろう、看護婦は起こすべきかどうかを迷い、医師を呼ぼうとした。そのとき、クラムシェルの口から、それまで一切発したことのなかった言葉が、微かな寝言として漏れたのである。
「ママ」
声は小さかったが、呟きでも囁きでもなく、クラムシェルははっきりと、苦し気に身をよじりながら、天井に向かってそう呼びかけたのである。
そう、初めて発した意味をなす言葉は、母を呼ぶ寝言だったのである。
驚いた看護婦は耳を澄まし、聞き間違えではなかっことを確かめるため、もう一度、クラムシェルが何か言葉を発するのを待った。魘されながらも、クラムシェルは再びその言葉を口にした。
看護婦はその時のことをこう表現している。
「――表情は苦しそうに歪み、その息は荒く、絞り出すように、小さな声でママと口にしていました。まるで助けを求めているように見えました…」
そして数度の小さな寝言の後、ひときわ大きく体を捩らせ、表情を歪めると、「ママ」という叫び声とともに、クラムシェルはがばりとその体を起こしたのである。
息は荒く、汗に濡れたその表情は困惑と恐怖で歪んでいた。彼女は不安そうに周囲を見渡すと、汗を拭おうとした看護婦など眼中にないように立ち上がり、再び大きく「ママ」と叫んだ。
それからクラムシェルは小さくママという言葉を連呼しながら、部屋中を歩き回り、次に部屋から出ると廊下を彷徨い始めた。ママ、ママ、そう繰り返し呼びながら。看護婦は駆けつけた医師の指示に従い、そのままクラムシェルのしたいようにまかせていた。クラムシェルはドアというドアを開け、部屋という部屋を覗き込みながら、ママ、ママ、そう繰り返していた。一際大きな叫び声であることもあれば、小さく幾度も幾度も繰り返すように呼ぶこともあった。
見守る医師たちの前で、少しずつ、クラムシェルは小走りになっていった。クラムシェルが自らの意思で走るような動きを見せたのは、それが初めてだった。慌てているようにも、焦っているようにも見えた。ママ、ママと呟きながら、辺りをきょろきょろと見回しながら、時折、後ろを振り返りながら、次第に全力に近いと思われる速さになった。医師たちが心配し、止めかけたところで、ぜえぜえと息を切らして立ち止まった。それから息を整えると、再び病院中を彷徨い始めた。
その様は、夜中に目覚めた幼児が、不安に駆られて母親を探し、泣き叫びながら家中を彷徨う、まさしくその姿だった。疲れては速度を遅め、止まり、再び駆け出し、足を早めては、すぐに息切れすることを繰り返した。いつの間にか、クラムシェルの背後には看護婦や医師たちが大勢連なり、その背を追い続けていた。
やがて足を引きずるようになり、疲れ果てたのか、クラムシェルはその場で倒れこんだ。抱き起こした医師によって自らの病室に連れ戻される途中にはぐっすりと眠り込んでいた。その後はママという言葉は途絶え、魘されることもなく、穏やかな表情で、昏々と眠り続けたのである。
この出来事に関する医師の見解は、以下のようなものである。
「あの深夜の出来事の端緒は、その日の昼に鏡を壊した行為にある。鏡を壊したのはいつもの破壊衝動ではなく、包帯が取れて鏡に映った自分を見て、自分とそっくりである母親の記憶を刺激されたからだったのだ。記憶が蘇りかけてかけて混乱し、その驚きから鏡を破壊してしまったのだろう。あの破壊行為は、忘れていた記憶が一気に押し寄せた混乱から来たのかではないか。
うわ言のようにママを繰り返しながら病院中を彷徨ったのは、紛れもなく母を探すという行為である。そう考えると、夜、刺激された記憶から蘇ったのは、母の記憶だったのだ。魘されながら寝言でその言葉を発していることからして、恐らく夢の中で、失われていた記憶の一部が蘇ったのではないだろうか。
どこまで記憶を取り戻したのかはまだ分からないものの、患者の症状に進展が見られたのは間違いない。
ここで注目したいのは、その探し出そうと病院を彷徨う様子、ママと呼ぶときの声、その仕草、それらが実際の年齢に比して、あまりにも幼いことである。幼児の演技をしているのではないかと思うほどに。
他の夜尿症、破壊衝動、言語喪失などとあわせて考えると、幼子のように、というレベルではない。恐らくお嬢様は、記憶も言語も失ってしまったことで、幼児の状態に戻ってしまっているのだ。そう、幼児返りしてしまっているのである。
すなわち、お嬢様に起こっているのは、『記憶の喪失による幼児退行現象』である。
あの夜に思い出した記憶は、ほんの一部、幼児期の母の想い出、その断片だけだと思われる。いや、想い出というほどに鮮明ではないだろう。思い出したのは、幼児期に抱いた感情、赤子が持つ本能的、根源的な、庇護を求める強烈な思いそのものかもしれない。それ以外の記憶の一切は、あの時点では失われたままだったと考えられる――」
そしてこの夜を端緒として、クラムシェルには非常に大きな変化が起こっていた。まず意思を持ち、声を発することができるようになった、ということ。言葉を喋ることはまだできなかったが、彼女は声で自分の意思を示し、言語の習得やリハビリに、能動的な動きを見せるようになったのである。そして少しずつ、それまで殆ど叶わなかった意思の疎通が行えるようになっていった。
かつては何事にも受動的で反応の乏しかったクラムシェルに、意思らしきものが戻ったのである。まだ医師や看護婦達の言葉を理解しているふうではなかったが、何らかの反応を返すようになった。そしてまた、医師たちに従って、言語の学習や文字の習得を行うようになったのである。医師を教師として、声を出して発音し、文字をなぞって読み上げるその様は、まさしく幼児そのものの姿であり、記憶を思い出すというよりも、ゼロから学びなおすという形に近かった。それでも、自分の意思で言語の学習を始めたクラムシェルは、少しずつ言葉を覚え、文字を読み書きし、会話をするようになっていった。
言語の回復ともに肉体のリハビリに関しても能動的な変化が顕著に表れている。クラムシェルは与えられる課題を一歩一歩クリアするようになり、衰えていた筋力を取り戻し、それに伴って食欲も増し、やせ細っていた体が、次第に年相応のふっくらとした丸みを帯びてきたのである。
それは、かつて人形と称されたクラムシェルにとって、劇的とも言える変化だった。しかし積極性という点ではまだ弱く、指示されたことを淡々とこなすという状態で、未だその表情の変化も乏しいものであった。
また、変化のきっかけとなった、「鏡に映った自分を見る」という行為に関して、医師たちからはある奇妙な報告が出されている。
この頃、クラムシェルは時折、鏡の中の自分をじっと見続ける、という行動をとっていたというのである。まるで何かに憑かれたかのように一心に、鏡の中の自分の顔を見続けることがある、と。また、自分の顔を見ながら、右を向いたり、左を向いたり、顔に手を当てたり、小首を傾げたり、そのときの表情は、鏡の中の顔が自分であるのかどうか、不思議そうに眺めているように見えた、という証言が残されている。
ある看護婦からは、
「――このような言葉を使うのは失礼にあたるとは思うのですけれど…まるで初めて鏡を見た猿が、鏡に映った自分が自分であるのかどうか分からず、確かめているような仕草に見えましたわ」
そんな報告を出されており、言葉は違えど似た感想を抱いた者は多かった。
言葉はまだ未熟であっても、少しずつ意思の疎通が叶うようになったことで、クラムシェルの脳障害の症状と記憶の状態が少しずつ明らかになっていった。
分かったことは、幼児退行現象を唱えた医師の言葉が正しく、記憶は殆ど戻っていないということであった。覚えているのは、母親であるセイレンのことだけであり、それに関しても、思い出などは何も記憶していなかったのである。母の名を告げても、それまでと同様に、母親の名だと理解していなかった。自分の名を訪ねても、答えることはできなかった。あの夜に思い出したのは、ママという言葉と、母の顔の記憶だけであり、それ以外の記憶は何一つとして思い出せていなかった。幼児期から、すっぽりと過去、記憶そのものが抜け落ちたままであったのだ。
この頃、言語の回復と並行して、記憶を取り戻すための試みも行われている。
言語を理解し始め、意思の疎通が可能になりつつあったため、以前から行われていたのと同じ方法が再度とられた。屋敷にあった品々に関して、クラムシェルに覚えていることはないか、思い出しそうなことはないかと尋ね、それから日記に記された様々な思い出が看護婦や医師によって語られた。それらの思い出は、母親の深い愛情にあふれたものであり、いかに母親が娘を思い、その成長に心を砕いていたかも感じさせるものであった。
しかし、クラムシェルは何を周囲に何を語られても、
「しらない」そう繰り返すばかりであった。
結局、言葉を介するようになってからも、クラムシェルは白亜邸での想い出どころか、母の名も自分の名も忘れたままであることが明確に分かっただけであった。
また屋敷から持ってこられた生活用品であるクラムシェルの服、靴、絵本、楽器、そのほか、屋敷に飾られていた調度品、それらの全てに対して、クラムシェルは首を横に振って、
「はじめてみる」そう答えている。
セイレンが教えていた楽器、毎晩せがんで読み聞かせていた物語、抱きしめて眠っていた書物など、日記に記されていた思い出の品々を、その説明とともに手渡しても、やはり何一つ覚えておらず、思い出すこともなかった。
日常生活で使っていた皿やナイフやフォーク、寝巻き、ベッドや枕といったものは、自分が毎日使っていたものとして「見覚えがある」程度に覚えていたぐらいで、後は殆ど全ての思い出を失っていた。
看護婦達によってセイレンの日記が朗読され、文字の習得では、その日記を書き写す練習などが新たなカリキュラムとして組み込まれた。だが、クラムシェルは何の感情も抱かず、母の残した日記を他人事のように聞き、読んでいた。
医師や看護婦から、何度日記の内容に関して尋ねられても、クラムシェルは横に首を振って「しらないの」「わかんない」と答えるばかりで、申し訳なさそうに看護婦に謝るのであった。
医師はこの頃の治療状況をこう報告している。
「この頃、お嬢様は自分が記憶喪失である、ということも自覚していなかった、いや理解できなかったのである。『おぼえていない』と答えたことは一度もなく、全てに対して『しらない』『わかんない』そう答えていることが、そのことを証明している。
それは考えてみれば当然のことだ。記憶が幼少期の時点からすっぽりと抜け落ちているのなら、本人が記憶喪失だと気付くはずがないのだ。私達はまず、この幼児返りした少女に、「記憶喪失である」という事象を理解させることから始めなければならなかった。何らかの事故で海に落ち、海岸に流れ着いていたこと。そのときの事故で頭に怪我を負い、脳の損傷によって機能障害が起こっている、ということ。それによって記憶や過去、言語を失ってしまっていること。それらのことを、混乱しそうになるクラムシェルを落ち着かせながら、幼児でも理解できるように分かりやすく、一つ一つ根気強く説明していく必要があった」
ある医師はこうクラムシェルに話しかけている。
「記憶がいつ戻るのかは分からず、このまま戻らないかもしれないし、何かが切っ掛けとなって一気に思い出す可能性もある。だがそれは現時点では分からない。現代の医学では脳はまだ解明されていないからだ。だが、お嬢様は恵まれている。財閥の系譜に列なるあなたには、たくさんの専門医達が仕えているし、何よりも、記憶が戻る手がかりが、いやお嬢様の過去そのものが、母親であるセイレン様の日記や絵画などの作品群によって記録として残されているからです。それを手がかりにすれば、記憶が戻る可能性は高いでしょう。それに、たとえ記憶が戻らなかったとしても、お嬢様がセイレン様にこれほど想われ、愛され、日々、慈しみを持って育てられていたという事実は変わらないのです――」
数多の看護婦や医師たちの期待と視線をその一身に浴びながら、それでも記憶を取り戻せすことができずに戸惑い、困り果てた表情で途方に暮れるクラムシェルを前に、この医師は瞳を潤ませながらそう諭している。彼は資料としてセイレンの日記を読み込むことで、母の娘への想いの深さを思い知らされており、彼女の他の作品群にも強く感銘を受けていた。それはこの医師だけではなかった。他の医師や看護師たちの多くが、彼と同じ思いを抱いていた。治療のために日記を繰り返し読み込み、また毎日のようにクラムシェルの記憶を思い出させるために朗読されるのを聞いていた周囲の人々は、皆等しくこの医師と同じ思いに感化されていたのである。
その事実は、セイレンの日記および作品群が、如何に娘への暖かな愛情と優しい眼差しで満ち溢れていたか、芸術として優れていたのか、その証左であろう。
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