1章  病棟の人魚姫 Ⅲ 白亜の夢痕①

 見れば見るほど、絵画の少女は病院に入院しているあの娘を描いたものではないのか、ジプサムにはそう思えてならなかった。確かに少女より年齢は上であるし、まだ頭部の包帯がとれず、生気を失ってやせ細ったクラムシェルは、一見して絵画の少女とは重ならない。しかし、その真っ白な肌の色、黄金に輝く髪、海を映しこんだような珍しい青い瞳は絵画の少女と同じであり、生気豊かな顔にも、はっきりとした面影を感じることが出来た。少女が漂着したときの衣服が、絵画に描かれている白い簡素なドレスと同じではなかったかとも思われた。

 その疑惑が確信めいたものに変わったのは、代理人であるオブシディアンが美術館の館長と囁くように話している台詞が、丁度背後にいたジプサムに聞こえてきたからであった。

 ――セイレン様からの連絡が途絶えてしまっているのです。

 それ言葉にジプサムはそれとなしに近づき、秘かに耳を欹てた。二人の会話はこのようなものであった。

 オブシディアンは落成式に向けてセイレンから指示を受けながら、他の美術館に展示されていた件の絵画の移送と展示、公開の段取りを行っていた。公開日の決定などは終わっており、ライティング等、展示の指示を待っていた。にも関わらず、セイレンからの指示は一向に来ず、そのまま連絡が途絶えてしまった、というのである。

 館長は「またセイレン様の気まぐれでしょうか」と返し、オブシディアンはこう答えた。

 「いや、このようなことは私のこれまでの経験からしても珍しいのですよ。あのお方は自らの作品の公開に関しては非常に神経質で、完璧なセッティングをされるのです。特にライティングに関しては、絵画の色味が変わってしまうものですから、事細かに指示がございます。私がお送りした美術館の図面に対して、セイレン様からは、近々細かなセッティング案を送る、そのような返答がありました。しかしそれからぷっつりと連絡が途絶えてしまっているのです。それが4ヶ月ほど前の事なのですよ」

 ここで代理人であるオブシディアンとセイレンとの関係を、オブシディアン自身の証言を交えて補足しておく。

 代理人であるオブシディアン自身も、セイレンが何処に暮らしているのかは知らなかった。その認識は、セイレンは財閥が密かに所有する各地の別荘や人里はなれた民家を、アトリエ代わりに転々としている、という程度であった。セイレンからの連絡は、いつもアルビオン家に宛てられた手紙によるものであり、オブシディアンから連絡を取ることはできなかった。代理人とはいっても、連絡先の分からないオブシディアンができるのは、セイレンからのコンタクトを待つことだけであった。

 後の財閥の内部調査に対して、オブシディアンは以下のように答えている。

 「――だから何度も申し上げているように、私が、あの方の居場所を漏らすことなどありえないのです。あの方の居場所を把握しているものは、財閥でも殆どいなかったはず。私が知る限りではたった一人、あの方の妹君だけでございます。なぜか? それはこちらからセイレン様にコンタクトを取る際には、妹君に手紙や書面をお渡しすることになっていたからです。少なくともあの方だけは、セイレン様の居場所を把握していたはずです。

 まさか。私は由緒ある財閥の執事修院を卒業しております。またそのことを誇りとしております。セイレン様を主人とする私が、そのようなことをするはずが…。言ってしまいますが、主人の命であれば、私は殺人さえ厭わない。小さな嘘から暗殺まで、あらゆる犯罪に手を染め手完璧にやり遂げる覚悟があります。だからこそ、その主人を裏切り、欺くような真似だけは決して」 

 ジプサムは落成式が終わった直後、使用人とはいえ財閥に列するオブシディアンに、動悸を抑えながら上ずるような声で話しかけている。自分は愚かなことをいっているのではないか、そう恐縮しながら説明している。

 その絵画に描かれた少女と瓜二つの女の子が、自分の病院に入院していること。その少女は記憶も言葉も失い、魂が抜け落ちたようになっていて、その身元が不明であること。そのドレスも、金髪や珍しい色の瞳も絵画と同じであること。見れば見るほどに、その面影がはっきりと重なって見えてくることなどを説明している。

 胡乱な表情で耳を傾ける執事に話をするうちに汗が流れ、ジプサムはしどろもどろになっていった。オブシディアンはジプサムが何を言いたいのか図りかねているように見えた。だが、話をしているジプサム本人も、それは当然だと思えた。

 絵画の少女はセイレンの妄想が生み出した幻覚、架空の存在だというのが、疑うべくもない通説であったからだ。

 だが、母譲りとされる珍しい瞳の色が同じであることと、漂着した浜辺の名をジプサムが告げた時、オブシディアンの威厳を湛えていた表情に漣のような動揺が走り、歪んだ。

 その浜辺が、財閥が世界各地にもつ広大な私有地(それは主にプライベートビーチ、海岸線、水源地である)の一つからほど近かったかである。

 オブシディアンは後に証言している。まだその時点では、ジプサムの言わんとしていること、ジプサムの言葉が意味していることをことを、殆ど信用していなかった。しかし自分でも良くわからない奇妙な予感、違和感のようなものを感じていた。それを抱えたままにする訳にはいかなかった。確かめる必要がある――そう感じた、と。

 オブシディアンは落成式を切り上げる手筈を早々に整えると、ジプサムと共に特急列車に乗り込み、急遽、病院を訪れたのである。

 物置小屋のような粗末な病室の寝台で、ぼんやりと天井を眺めているクラムシェルを見たオブシディアンは、瞬間、雷鳴に打たれたように確信したという。幻の少女は、現実に存在したのだ、と。無論、オブシディアン自身はセイレンの娘に会ったことなどなかったが、代理人としてすべての作品に描かれた少女を見ていた。紛れもなく、絵画の少女達は全て、クラムシェルをモチーフとしたものだと直感した。

 何より、このオブシディアンは幼少時の頃からセイレンを知っていた。クラムシェルはやせ細ってはいたが、幼い頃のセイレンに生き写しであったのである。その黄金の髪、真っ白な肌、珍しい蒼氷色の瞳も、セイレンから受け継いだものとしか思えなかった。

 息を呑み、幻の少女が存在していたことにしばらくは呆然と立ち尽くしていたオブシディアンだったが、少しずつことの重大さ、奇妙さ、異様さに気付き始めた。混乱を脱するまで、様々な考えが頭を巡っていた。

 ――流産していたはずの胎児を、セイレン様が産み育てていた、という事実。つまり財閥の遺産継承者が、私生児として誕生していたことになる。ということは、あのカルテは嘘だったということ。そしてハリ様の証言も虚偽だったということ。では父親はいったい誰なのか。いやそもそもなぜそれを隠していたのか。妹君はこのことをご存知なのか。知っていて隠していたのか。

 いや、そのようなことだけではない。それは過去の事象だ。

 たった今、その少女が病院に入院しているのである。身元不明の重傷者として。四ヶ月も前に、浜辺に重症を負って漂着していた、というのである。

 四ヶ月…セイレン様から連絡が途絶えてからの期間と同じではないか。

 いや、セイレン様は、密かに子を産み、育てていたのだ。それは間違いないのだ。俄かには信じがたいが、それがまず、大前提である。その子が今、漂着して収容されているというのなら、何らかの事故に遭って海に投げ出されたというのなら…

 ――セイレン様ご自身は今、何処にいるのだ。いや、この子とセイレン様に何が起こったというのだ。いったい何が、起こっているのだ。

 連絡が途絶え、娘と思われる少女が海難事故で入院していることから鑑みると、セイレン本人にも何か重大なことが起きたことは自明のことであったのだ。

 オブシディアンは、まず財閥のセレスタインへと緊急の連絡を入れ、事情を説明した。

 セレスタインとは、セイレンの二つ違いの妹である。才媛として知られるが、セイレンと比べるべくもない程度で、容姿に関しては全く似ておらず、美貌とは程遠い凡庸極まりない女性である。彼女は、姉が隠遁生活に入ってから、実質上のアルビオン家の後継者として取締役の一席を占め、財閥の運営に直接関わっていた。オブシディアンが知る限り、セイレンの居場所を知り、こちら側から連絡を取ることができるのは、彼女しかなかった。

 混乱した頭を落ち着かせ、短くことを説明すると、「越権行為だとは重々承知しておりますが」そう前置きした上で、

 「緊急事案であると推察されるため、病室に横たわっているクラムシェルという少女の身元確認と、セイレン様の安否の確認を行っていただきたい」

 そう願い出たのである。

 電話越しに交わされた会話でもオブシディアンの切迫感はセレスタインに伝わり、また逆にセレスタインの驚愕と困惑も、はっきりとオブシディアンに伝わっていた。

 そう、セレスタイン本人も、その娘の存在を知らなかったのである。彼女もまた世間と同様に、ハリの証言とカルテを信じ切っており、作品の少女はセイレンの幻覚だと思っていたのだ。

 セレスタインは、オブシディアンからの電話を受けたときのことを、こう証言している。

 「幼少期から信頼するオブシディアンの説明を聞き、その話し振りと、漂着した浜辺の名を耳にしたとき、病室の少女が姉様の流産したはずの子供であることを確信したのです」

 セイレンの居場所を知っているのは、アルビオン家でも極一部の人間だけであった。セイレンは確かに、財閥が秘密に所有する各地の別荘や邸宅、民家を、旅をしながら転々とし、各地で創作活動を行っていた。その際に、幾つかの住居に拠点を置いていた。少女が漂着したという浜辺は、その拠点の一つにほど近かった。財閥がプライベートビーチに所有する邸宅、その海岸沿いにあったのである。

 また、セレスタインは代理人であるオブシディアンとセイレンの仲介役を務めていたが、彼女自身は殆ど姉と連絡を取っていなかった。オブシディアンから渡された手紙や資料を指定の住所に密かに送るだけで、数ヶ月の音信不通はいつものことであった。オブシディアンの電話から姉に何かが起こったことを悟った彼女は、緊急用の電話ですぐに連絡を試みたが、誰も出る様子はなかった。専用のベルを鳴らし、一人のオブシディアンを呼び出すと、少女の漂着地点にほど近い屋敷へと急行させた。

 「白亜邸へお行きなさい。あの忌まわしい屋敷で、姉様は一人で暮らしていたはず」

 そして自らは、件の少女の待つ病院へと直行した。

 病院に到着したセレスタインは、クラムシェルと呼ばれる少女の、漂着してからそれまでの顛末と、現在の病状の説明を医師から聞きながら、そっと病室のドアを開けた。そして初めてクラムシェルと対面した。しばらくその顔をまじまじと見つめた後、

 「この子は紛れもなく姉様の娘。流産したはずの幻の子。まさか生まれていたなんて…」

 そう断言したのだ。

 セレスタインを見ても何の反応も示さない少女に、声をかけようと口を開きかけて、はっとした表情を浮かべた。躊躇った後で隣に腰かけ、そっと抱きしめた。 

 「ごめんなさいね、私は、貴女のことを知らなかった。流産したものとばかり、思っていた。だから、名前も知らないのよ。もしも生まれていると知っていたら、あの姉様と二人だけで暮らしていると知っていたら…こんなことには」

 そう言うと、クラムシェルをそっと抱き、優しく撫でながら、涙を流したのである。


 チョークハウス――白亜邸、屋敷はそう呼ばれていた。

 財閥が所有するその地は、世界的にも珍しい、純白の美しい断崖と浜辺を有する海岸である。私有地であるため一般人は上陸することはできないが、観光客船が海岸沿いを周遊することも多い観光スポットでもあった。貝殻が堆積してできた断崖は大きく削り取られ、奇妙な形をしている。なぜなら、かつてそこはチョークの上質な原料の採掘地であったからである。財閥はその白い断崖を削り取り、近隣のチョーク工場で上質の白いチョークを大量に生産し、世界中へ輸出していたのである。財閥の事業が拡大し、化学薬品などをメインにしたものへと変わっていく中で、チョーク産業は廃れていった。やがて工場そのものは取り壊され、後には大きく奇妙に削り取られた、壮大なオブジェのような真っ白い断崖が残されたのである。

 白亜邸は、その断崖の上に建てられていた。大きくはなく、屋敷と呼べるようなものではない。かつて財閥の創始者が別荘として建てたのは、一家が寄り添って過ごせるような、こじんまりとした二階建ての邸宅であった。チョーク事業によって最初の成功を収めた財閥の創始者は、その想い出の地に、チョークと白い断崖にちなんで、美しい真っ白な邸宅を建てたのである。その目を奪われるほどの白さと丸みを帯びた造形は、創始者が異国を旅していたときに見た寺院を参考にしたのだという。それまではクリーム色が主流であった中で、完璧な混じりけのない白を目指して建築されたその邸宅は、壁の素材に粉々に砕いた良質の貝殻をふんだんに使用しており、太陽の光によって眩いばかりの輝きを放った。

 その邸宅は私有地の外からでも微かに見ることができ、現在の地元の住人からも白亜邸と呼ばれ、財閥の所有するプライベートビーチの別荘として知られていた。

 そこへ車で駆けつけたのは、セレスタインの指示を受けたオブシディアンであった。

 オブシディアンは玄関のドアが硬く閉まり、ベルへの呼び出しにも返答がないことを確かめると、ぐるりと周囲を回って入れる場所を探そうとした。すると、裏口のドアが風できいきいと音を立てていることに気付いた。鍵がかかっていなかったのである。入ろうとして、すぐさま異変に気付いた。微かな腐臭と黴臭い香りが漂ってきたからである。運転手用の黒い手袋を嵌めなおすと、ドアノブに手をかけてゆっくりと開いた。ほんの僅かであったが、腐敗臭が体に纏わり付いてきた。

 窓を開け放ちながら、邸宅の住人であるはずのセイレンの名を呼んだ。嫌な予感を覚えつつ部屋を回った。一階、二階、そして地下と、併設されたアトリエも見て回った。

 腐敗臭は、キッチンに用意されてた鍋や料理、保管されていた果物、野菜等の食材が放つものだった。だが、今まさに調理が行われようとしていたように調理ナイフと何らかの食材が俎板に置かれたままになっていることから、調理の途中に突然、何かが起きたようにも思えた。正門ではなく裏口が、鍵もかけられないまま半開きになっていたことも、不吉な想像を掻き立てた。

 そしてもう一つ、オブシディアンが白亜邸を訪れたことを証言している中でも、最も重要な点があった。

 どの部屋も整然として片付けられている中で、一部屋だけ荒らされたように棚のものが床に散らばっている場所があった。

 その部屋は、書庫であった。邸宅には邸宅の大きさに比して大きな書庫があった。その床に、書物が積み上げられていたのだ。棚から手当たり次第に引き出し、床に乱雑に放り出したようであり、まっすぐ歩くのに困るほどに散らかっていた。何かを探した跡のように、オブシディアンには思えた。咄嗟に、盗人、強盗の類を思い浮かべた。

 全ての部屋を探したが、誰も見つけることはできなかった。白亜邸は完全な蛻の殻となっていたのだ。

 ――この邸宅に暮らしておられるというセイレン様は、何処に行ったのか。腐り果てた食材や、料理の途中であったらしいことから、別の拠点に滞在している可能性は低い。邸宅の状況や、娘だと考えられる少女が海岸に漂着していることを考えると、やはりこの場所で、隠し子である娘ともに、何らかの事故、或いは事件に巻き込まれた可能性が高いのではないか。

 そう思ったオブシディアンは邸宅の電話から病院のセレスタインへと電話を入れた。報告を聞いたセレスタインは一時間ほど思案しながら、幾つかの優先すべき連絡先へとコンタクトを取った後、州警察へと連絡を入れた。

 電話の主がセレスタインであることに警察署長はその身を正し、しかも、行方不明者があのセイレンブルーの人魚として名高い財閥の長女であることを知ると、ことの重大さに慄き、すぐさま捜査の専門家達が組織されて邸宅へと送り込まれた。

 急行した捜査官たちは、待機していたオブシディアンの説明を聞いた後、白亜邸を捜査現場として確保した。社会的立場から、誘拐や強盗などの可能性も十分考慮されるため、邸宅の中の物品の持ち出しはもちろん、調度品などの位置を変えることも禁止された。オブシディアン自身も身体検査を受けた後に、入ることを禁じられた。

 邸宅に誰もいないことが再度確認されると、邸宅の立つ岬を中心として、周囲の浜辺の探索、近隣の住人達への聞き込みが行われ、近海の捜索にも大量の捜査員が動員された。

 このときの州警察の実況見分調書も裏に手を回した財閥によって入手されており、また捜査官の白亜邸の印象や捜査結果なども記録に残されている。それを読んでいると、捜査員が白亜邸に関して幾つかの奇異な点に注目しているのが分かる。

 一つは、地下に設えられた防音設備の整った真っ白な大部屋。

 窓さえないその部屋には、簡素な寝台が一つと、その前に腰掛椅子だけがあり、奥にはトイレと浴槽に通じる扉だけがあった。その広さに対して、あまりに簡素な内装は、作品が運び込まれる前の、美術館の展示室のようであった。外部からの音を遮断し、また音が内側へと反響する防音設備が施されていたことから、建設当時はコンサートホールとして作られていたことが判明している。恐らくそこは、楽器の演奏やダンスにも長けていたセイレンの演奏室だったのではないかと推察された。

 また一つは、建物と併設されたアトリエである。そこは多様な絵具で埋め尽くされ、また彫刻のモチーフとなる骨董などもあり、セイレンがそこで絵画や彫刻の作品を制作していたのは明らかであった。奇妙なのは、そこには一切の習作も、描きかけの絵画や作品も見当たらなかったことである。絵具は無数に、多様に準備されているのも関わらず、カンヴァスはたった一枚しかなった。真っ白なカンヴァスが一枚、まさしく今から書き始めようとする状態で立てかけられているだけであった。

 という訳で、美術関係者たちで、幻の遺作などを期待した人々は後に、虚しく肩を落とすことになった。日記等が残されていたことに関しては歓喜したものの、絵画作品などはその習作さえなかったのだ。

 奇妙なのは書庫であった。他の部屋が美しく整理整頓されているのに対し、その書庫だけは違っていた。乱雑に本が床に積み上げられ、また足の踏み場に苦労するほどに散らばっていたのである。その乱れようは、本を書棚か引っ張り出して、辺り構わず放り投げたように酷かった。そのことは、捜査員たちに大きな違和感を与えた。

 ――これは、他の部屋とは明らかに違う。何者かに荒らされたようにしか見えない。

 捜査員たちもそう確信している。

 そしてもう一つ、玄関には大きな靴箱があり、美しく色とりどりの靴が数多く展示されていた。セイレンと、その娘のものであろうと思われた。どれもこれもピカピカであった。不思議なのは、セイレンの靴はサイズが同じであるのに対し、娘のものであろう小さめの靴は、そのサイズがばらばらであったことである。そしてそのバラバラのサイズの靴が、順序良く整理され、足先を前面に向けて陳列してあったのである。その状態で、幼児が履くような小さなものから、次第にそのサイズは大きくなっていき、また種類も多様になっていった。数十足もの靴が、幼児から十歳程度まで、成長に従って大きくなっているのが、はっきりと分かった。捜査員の感想は色々であったが、多かったのは、まるで靴屋のショーウィンドウのようであった、というものである。

 そして更に、ある部屋のドアを開けた捜査員は、一瞬目を疑った。そこは箱で埋まっていたのである。ラッピングの施されたギフトボックスが、部屋中に積み上げられていたのだ。ギフトボックスの大きさも色も様々で、捜査員によれば、クリスマス直前のサンタクロースの倉庫のように見えたという。捜査員たちは中身を確認するためのそっとラッピングを解いていったが、その中身はドレス、靴、楽器、書物、文具、辞書など実に多様なものが入っていた。

 セイレンが娘のために買い与えたものであろうことは間違いなさそうであったが、不思議なのは、そのギフトボックスのプレゼントが使われた形跡がなく、それどころか開けられた形跡そのものがなかったことである。

 その部屋にある無数のプレゼントは、開けられないまま積み上げられ、仕舞い込まれていたのである。

 そしてセイレンの書斎にも、首を傾げる点があった。その書斎もまた簡素な作りで、壁にはヴィオロンが立てかけられていて、ピアノもあったものの。その他は文机と椅子、小さな書棚だけの部屋であった。文机にはインクと白紙の原稿用紙、そして乾いたペンがあった。捜査員たちが注目したのは、その書棚の日記であった。

 日記は十数冊が書棚に並んでいた。セイレンが記したものであることは間違いないと思われた。日記には、美しい文字でつらつらと娘との日々や日常が書き連ねられているのが分かったが、日付がなかったのである。その日、何処で区切り、翌日、どこから書き始めたのか、それすら分からなかった。題もなく、日記とも記されていない。ただの分厚いノートであり、延々と思いついたことがつらつらと連ねられているといった感じで、日記の体さえも為していなかったのである。日記というよりは、回想録、或いは章立てのない物語といった方が近いのではないか。そう思わざる得ない代物であった。

 衣装室も大小二部屋あり、それぞれ夥しい衣装が詰め込まれていた。一部屋はセイレン用のものであり、それほど大きなものではなかった。もう一部屋は娘用であったが、その広さは大広間ほどもあり、セイレンの衣裳部屋とは比べ物にならいほどの広さであった。

 そしてこれもやはり、靴箱と同様に、幼少期からの物が捨てずにとってあったのか、幼い少女のドレスから、成長に従って大きくなっていったサイズの順番にクローゼットには仕舞い込まれていた。ドレスだけではなく、壁には多くの帽子がかけられた帽子かけが何本もあった。

 ここでも奇妙なのは、クローゼットというよりも、さながら高級な衣裳店のようであったことである。セイレンの衣裳部屋では、すべての衣服はクローゼットに仕舞い込まれていたが、娘のものは仕舞い込まれているものだけではなく、多くが陳列され、展示されていたのである。それだけではない。そこには、年齢の異なる可変式のマネキン(球体関節のもの)が十体もあり、椅子に腰かけたり、ポーズをとったりしていたのである。すべて女性のマネキンであり、これまた幼児から十歳ほどのもので、体の大きさが少しずつ異なっていた。それぞれがドレスを身に着け鬘を付けた状態であり、その鬘も多様な種類が同じ部屋の専用のクローゼットに仕舞い込まれていた。

 それらは捜査官たちの目には異様に映ったが、セイレンが芸術家であり、娘をモチーフにした作品を延々と作り続けていたことが分かると、納得できるような理由もあった。収納していたのではなく、展示していたのだろう、そう思われたのである。例えば、絵画作品を美術館に展示するように、セイレンは自分のコレクションを白亜邸に飾っていたのだろう、と。

 また、可動式の人形群は、彫刻や絵画などでポーズを取らせるためのものであり、ドレスも同様に作品制作時にモチーフとしたものであろうと考えられたからである。

 日記以外の習作が一切なかった点に関しては、やはり作品群を盗んでいった者がいる可能性が高いとされ、盗品ルートには国際的な網が張られ、セイレンの作品と思しきものが売りに出されたり、秘かに売買されていないかという情報を待つことになった。事件後、贋作の情報が数多く引っかかるばかりで、『セイレンの幻の作品』に騙された好事家からの被害届が続出し、それらも後に、全てが偽物であることが判明している。警察も、好事家と同様に踊らされるばかりで、『盗み出されたかもしれない幻の作品群』の線からは何の成果を上げることもできなかった。

 さて、ここで二人はどのような暮らしをしていたのだろう。夢の残骸、夢の跡地として白亜邸は、後に日記の一部が公開され、世間に母子の理想の日々として知れ渡ることになるが、それは先の話しである。

 次に記すのは、当時の捜査員による近隣の住人への聞き込みと白亜邸の痕跡から判明した、二人の暮らしである。

 白亜邸のある岬の近辺は広大な財閥の私有地の一部であり、敷地外までは車で二十分ほどもかかるため、近隣には住人はいなかった。いわば広大なプライベートビーチで、二人は暮らしていたのである。移動手段は白亜邸の車庫に停められていた車であり、その高級車が頻繁に行き来しているのが、敷地外の住人からは確認されている。彼らは財閥関係者が別荘として使っていることを知っていたため、さほど不思議には思っていない。ただ、それがセイレンであるとは知らなかった。車は一人の若い運転手が運転しており、いつも同じ人物であったことが目撃証言によって確認されている。後部座席は内部が見えぬよう全ガラスに特別なコーティングがされていて、人の影さえも確認できなかった。だから、その車に誰が乗っているのかは分からなかったし、白亜邸に住んでいるのが誰かもわからなかったのである。

 セイレンはその車に乗って敷地外と行き来していたようで、その目的がショッピングであったことが分かっている。彼女は、運転手として一人のオブシディアンを連れて、各地で買い物を行っていた。しかし、彼女自身は変装しており(変装のための小道具が小部屋の棚に纏めてあったのが発見されている)、そのオブシディアンが全てを買い求めていた。その特徴的な執事服を店員は覚えていたが、クラムシェルの姿は確認されていない。食材は地元の農家から、農薬の一切使われていない新鮮な野菜や果物を週に一度買い出していた。そのためレストランの人間は注文を受けてオブシディアンへと渡すだけで、セイレンやその娘と会ったことのある人間はいなかったのだ。レストランの人間も、財閥関係者が暮らしていることは知っていたが、それが誰かは知らなかったのである。

 そのことから、セイレンが自分の娘を意図的に隠そうとしていたことは明白であった。

 何より不思議なのは、そのオブシディアンが誰なのか、一切分かっていない点である。

 目撃者の話では、口ひげを蓄えた褐色の肌の若い男であり、セイレンがデザインした黒い執事服を纏っていたことが分かっている。しかし、そのような人物は、財閥には存在しなかったのである。

 恐らくそのオブシディアンは、白亜邸に身を隠していたセイレンが個人で雇い入れた人間であると思われたが、それが誰であるのか、何処へ行ったのかは分からなかった。

 そのため、捜査当局には、行方不明であるセイレンの事情を知る最重要人物だとされたが、足取りは一切つかめなかったのである。

 他にも奇妙な点はあり、例えば、農家に買い求める食材に肉類が一切なかった。セイレンは菜食主義者とは程遠く、むしろ好んで肉類を食べていた。美食家であり、料理を芸術の一種として捉えていたため、料理人顔負けの腕前を持ち、こだわりも強かった。

 それが白亜邸ではいつからかベジタリアンになっていたのであり、無農薬に拘って化学肥料、化学調味料などの一切を遠ざけていたことが分かっている。その変貌ぶりはまさしく別人のようで、これらの点に関しては後に、娘が生まれたことで、セイレンの世界観が一変したのであろうと世の中では解釈されている。

 無人の白亜邸からは、セイレンがそこで作品制作を行っていたことや(作品は一切残されていなかったが、絵具などは使いかけであり、絵筆などの制作道具も使い込まれていた)、料理などは自ら行っていたことが判明している(料理器具は一通り揃っており、食材や調味料などは使いかけのまま残されていた)。

 衣服の購入や作品制作の絵具や素材の購入と支払いも同じオブシディアンが行っており、全て現金であった。セイレンが表に出ることは殆んどなかった。

 つまり、セイレンは白亜邸で何年もクラムシェルと暮らしながら、巧みな変装によって、一切その素性がばれていなかったのである。そして、娘であるクラムシェルに関しては、その存在を知る者も、姿を認識しているものさえ誰一人として存在しなかったのだ。それは徹底したものであり、母子が世俗から存在を隠しながら暮らしていたことがわかる。

 このように多くの奇妙な点があり、謎として残されていた。ただそのいずれも、白亜邸で何が起きたのか、いや「白亜邸で何が起きていたのか」を指し示すものではなかった。

 捜査は一向に進展を見せず、セイレンの行方も、謎のオブシディアンの正体も掴めぬままであった。ただ一つだけ、事態の手掛かりと思われるものが発見された。それは邸宅のある岬、その断崖の岩場に残されていた。白い布地の長く引き裂かれたと思しき切れ端が、岩肌に挟まり、絡み付いていたのが見つかったのである。その切れ端は、クラムシェルが漂着時に身に纏っていた白いドレスの一部であることが、程なくして確認されている。

 そう、クラムシェルは、この岬の断崖から落下した可能性が極めて高いことが判明したのである。

 州警察は、あの頭部の外傷は、その際に岩場にぶつけてできたものだと断定した。そしてこの断崖の下から、意識を失ったクラムシェルは波に攫われ、やがてあの浜辺へと流れ着いたのであろう、と。

 このとき、多くの捜査官が、その見解そのものは間違ってはいないが、それは殆ど奇跡に近い、そう証言している。現場検証によって、あの断崖から落ちて命が助かる確率は、殆どゼロに等しい、そんな意見が出されている。それは、もう一つの不吉な可能性を指し示していた。なぜクラムシェルが断崖から落下したのかは分からないが、行方不明であるセイレンもまた同様に落下していたのなら、彼女が生存している確率も皆無であろうということになるのだ。

 白いドレスの切れ端が見つかった後は、さらに大量の捜査員を動員したものの捜査は進展せず、行方知れずのセイレンが見つかることもなかった。事件が発覚した時点で四カ月以上が経過していたため仕方がないとは思われるが、謎だらけであった。

 なぜクラムシェルは断崖から落下したのか、セイレンは何処に行ってしまったのか、邸宅でセイレンとその娘に何が起きたのか、捜査は結局、生存者であるクラムシェルの記憶だけが最後の手掛かりとなって、行き詰ってしまった。

 物語としてはありふれた決まり文句ではあるが、事件は「迷宮入り」になってしまったのである。

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