Ⅴ 逃避行
「……ん? ほおう、いろいろ足りないものはあるが、一応、シジルは持っているのか。とりあえず、その願いとやらを言ってみろ。話によっては聞いてやらんでもない」
そんな僕の本心を見透かすかのように、セエレは細めた碧い眼で僕を値踏みし、スカした話し方でそう答える。
「よ、よし! それなら僕をこの船から逃がして…いいや、新天地へ連れてってくれ! おまえの力ならひとっ飛びで行けるんだろ?」
「フン。やはりド素人だな。物の道理がわかっていない。確かに私の力を持ってすれば、さようなこと造作もないが、それにはそれ相応の対価がいる。世の理に逆らうのだからな。もっとも、そなたの魂を対価にくれるというのであれば、その願いかなえてやることもできるがどうだ?」
しかし、悪魔は僕を凍てつくような冷たい瞳で馬の上から見下し、蔑むようにそんな要求をしてくる。
「なあに、すぐにというんじゃない。何年先か、おまえの死後、その魂を私にくれるというのであれば、新天地だろうとどこだろうと好きな所へ連れて行ってやろうというのだ。どうだ? いい話じゃないか」
「た、魂を……そ、それは……」
さらにセエレは甘い言葉で僕を誘惑してくるが、これは悪魔の罠だ。けして話に乗ってはいけないと魔導書に書いてある。
「だ、ダメだ! 魂は渡さない! このペンタクルが目に見えないのか! 言うことを聞かないと神の名によって責め苦を与えるぞ!」
僕は騙されず、身に着けた三つの円盤を見せつけるようにしながら、魔導書の記載通りに勇気を振り絞ってそう答えた。
「フン。いっちょ前に知識だけはあるようだ……だが、私が望まずとも対価を必要とするのは世界の理だ。新天地まで運ぶのは距離がありすぎてできかねる」
ところが、魂を奪うことは諦めたものの、セエレは不意に真面目な顔になると、悪魔というよりは説教をする坊主が如くそんな正論を口にする。
「そんな……わかった! じゃあ、新天地でなくてもいい! どこか近場の島でもなんでもとにかく遠くへ、この船からなるべく遠く離れた所へ連れてってくれ!」
どうやら嘘は吐いていないようだし、本当にそれはできないみたいなので、僕は新天地行きを断念して妥協案を出してみることにした。
「遠くへ? ……遠くならどこでもいいんだな? いや、安心しろ。それなら魂の対価なしでも聞いてやる」
すると、悪魔はなぜか口元を歪め、不気味な笑みを湛えて聞き返す。
……いかにも怪しい。何か企んでいるのか? ……だが、今の僕に贅沢は言っている余裕はない。
「ああ、遠くへ逃げれるんならどこでもいい! ただし、本当に魂も他の対価もなしだぞ?」
「ああ、約束する。契約において悪魔は嘘を言わん」
まあ、そこまで断言しているんだからかまわないだろう。魔導書の記述でも、魂の引き渡しさえ約束しなければ大丈夫なはずだ。
「わかった。じゃあ、すぐにやってくれ。早くしないと海賊達に気づかれる」
「よし。契約成立だ。では眼を瞑れ。酔うとないからな。なあに一瞬ですむ」
承諾する僕に、悪魔は満足げな表情を浮かべてそう促す。
「……よし。もう眼を開けてもいいぞ」
指示通りゆっくり眼を瞑ると、言うとおりにそれはまさに一瞬のことだった。
僕は無人島かどこかの白い砂浜の景色を予想しながら、閉じた瞼を再びゆっくりと開く……。
「……なっ!?」
だが、そこに僕が見たものは、想像を遥かに絶する予想だにしない景色だった。
黒煙に包まれた真っ黒い空と、その下に広がる紅蓮の炎に焼き尽くされる大地……跋扈する異形の者達が亡者の魂を捕まえては貪り喰い、また、その中央では焼ける金網に鎖で繋がれた山よりも巨大な人の形をした獣が、息を吐くごとに無数の亡者の魂を周囲に巻き散らし、息をするたびに今度はそれをまた体内に吸い込んでいる……、
「ようこそ、我ら悪魔の楽園、地獄へ」
ふと見れば、となりに佇んでいるセエレが愉しげな笑みを浮かべながらそう告げた。
「地獄? ……は、話が違うじゃないか! 嘘は言わないんじゃなかったのか!?」
あまりのことに、悪魔が相手ながらも騙された怒りから僕は激昂する。
「嘘は言ってないさ。遠くなら
だが、セエレは何食わぬ顔で、悪びれもせずにしれっとそう言って退ける。
「約束通り魂も奪ってはいない。もっとも、神が統べる地上から我らの棲む地獄へ連れて来ることは、目的からすると魂を奪うのとほぼ同義だがな」
まさに
(El Polizon ~密航者~ 了)
El Polizon 〜 密航者 〜 平中なごん @HiranakaNagon
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