Ⅳ 悪魔召喚

 そして、数日後の夜……。


 可能な限り準備を整えた僕は海賊達が寝静まる深夜を待ち、ついに悪魔召喚の儀式に臨むことにした。


 もうどの辺りまで船は進んでいるのだろう? 用をたす時だけ外に出してもらえるが、見渡す限り大海原なので船が進んでいるのかどうかもわからない。ただ、出航時には細かった月が今は満月に近く、時は着実に過ぎていることがわかる。


 そんな月の蒼白い光が格子の隙間から射し込む船の底、落ちてた古釘と紐の切れ端で作ったコンパスを使い、僕は魔導書の図を見ながら床に魔法円を描く。


 絶対逃げ出せないと高を括っているためか、ここに閉じ込められている時は見張りも緩く、作業は安心して進めることができる。


 とはいえ、本来はナイフを使うところ、錆びた釘ではなかなか描きづらいものがある……ガリガリと床板を削り、とぐろを巻く蛇の同心円と五芒星ペンタグラム六芒星ヘキサグラムを組み合わせた複雑な図形を描いてゆく。


 さすがに道具が道具なのであんましうまく描けなかったが……ま、こんなもんだろう。


 その前方にもう一つ、深緑の円を内包する三角形を描き終わると、今度はこの魔法円を清める番だ。


 ……が、清めるための聖水もお香もないのでそこは割愛した。まあ、塩は魔除けになるというし、潮風と海水がたっぷり染み込んだこの船自体、すでに清められているということにしておこう。


 また、本当なら儀式のための定められた衣装を着て行わねばならないのだが、それもこの状況では無理な相談なのでご勘弁いただく。


 ただし、悪魔から自分を守ったり、恐れさせ、言うことを聞かせるための〝ペンタクル〟と呼ばれる円盤型の魔術武器は必要不可欠なので、これは他の本の何も書かれていない裏表紙などを破いて円形にし、食事の際に与えられる水で貼り合わせて作った。


 左胸に着ける金か銀の五芒星ペンタグラムのと、服の右裾に着ける子牛の革製の六芒星ヘキサグラムのもの、それにもう一つ、〝シジル〟という呼び出すお目当ての悪魔に対応した専用の印章が描かれたものだ。


 材質は金銀や子牛の革ではなく羊皮紙だが、物資の乏しいみぎり、そこも大目に見てもらおう。


 それでも、金製のものは本の金泥で書かれた文字なんかをちまちまと削って集め、見た目だけでも近づけようと塗っておいた。図形や神聖な文字を書くのはやはり自分の血だ。


 さあ、これで下準備は整った。僕は上の海賊達の様子をもう一度気にしてから、魔法円の中央に描かれた赤い四角形の上に立ち、いよいよ悪魔召喚の儀式にとりかかった。


「ピュー……」


 開始の合図に本来はラッパを吹かなければならないのだが、やはりそんなものないので代わりに指笛を、それも海賊達に気づかれないよう控えめに一応吹いておく。


「よ、よし。いくぞ……霊よ、現れよ。偉大な神の徳と、知恵と、慈愛によって……我は汝に命ずる。汝、願いの貴公子セエレ!」


 そして、壁板から引っこ抜いた大き目の釘を磨いて作ったナイフもどきを右手に、左手には例の〝シジル〟を手にして、まずは〝通常の召喚しゅ〟を唱える……。


 僕が召喚しようとしているのはソロモン王の72柱の悪魔の内の序列70番・〝願いの貴公子セエレ〟である。


 セエレは一瞬にして世界を廻る速さで動き、いかなることでも瞬きをする間に行い、世界中のあらゆる場所へ人や物を運ぶことができると魔導書に書かれていたからだ。


 この悪魔なら、僕をここから外へ出し……いや、それどころかそのまま新天地へ連れて行ってくれるかもしれないと、そこに一縷の望みを託したのである。


「霊よ、我は再度、汝を召喚する。神の呼び名の中で最も力あるエルの名を用いて……霊達よ、我は汝らに強力に命じ、絶え間なく強制する。アドナイ、ツァバオト、エロイムなど、様々な神の名によって……出現せよ。炎の被造物たちよ。さもなくば汝らは永遠に呪われ、ののしられ、責め苛まれん……」


 正式には悪魔が現れなかった場合、段階を踏んで詠唱していくものなのだが、僕の場合はいろいろと物資的に不備な点も多いので、それを補填しようかと最初から立て続けに〝さらに強力な召喚しゅ〟、〝極めて強力な召喚しゅ〟、〝炎の強力な召喚しゅ〟をも唱えてやる。


「……霊よ、現れよ。偉大な神の徳と、知恵と、慈愛によって……我は汝に命ずる。汝、願いの貴公子セエレ……」


 大釘のナイフもどきで空中を力強く斬りつけながら、その呪文を何度も何度も繰り返す。もちろん、海賊達が目を覚まさないよう、声の大きさを抑えてではあるのだけれど……。


 ……お願いだ。セエレよ、現れてくれ。たとえ悪魔だろうがかまわない。もう僕にはおまえしか頼れるものがいないんだ……。


 そうして、懸命の願いを込めて呪文を繰り返し、もう何度唱えたかもわからなくなったその時、どこからともなくヒヒィィィーン…と、馬の嘶く声が聞こえたような気がした。


「……ああん? 馬? ……なんだ、夢かぁ……グー…グー…」


 上の方でそんな海賊の寝言が聞こえ、焦った僕は一瞬にして我に返るのだったが。


「ずいぶんと雑な呼び出し方だな……ん? なんだ、やけに小汚い格好の術者だな」


「……!」


 不意に聞こえたその声に天井へ向けていた視線を戻した僕は、その瞬間、心臓が止まるかと思うくらいビックリした。


 いつの間にか、前方に描いた深緑の円を内包する三角形の上に、そいつは立っていたのだ。


 それは美しいトウモロコシ色の長い髪を持つ、まるで王侯貴族のような身形みなりをした美貌の若い男で、これまた美しい翼の生えた駿馬の上に跨っている。


 ……これが、悪魔セエレなのか? 悪魔というよりはむしろ天使のような……いや、この際、神さまでも天使でも悪魔でもなんでもいい! 僕をここから連れ出してくれさえすれば……。


「それに狭いな……天井が低すぎて頭がついてしまうぞ」


「ね、願いの貴公子セエレ! 呼び出したのはこの僕だ! 僕の願いをかなえてくれ!」


 初めて目にする人智を超えた存在を前に、僕は内心そうとうビビっていたが、こういうのは強いやつとケンカする時と一緒だ……たぶん。


 対して暢気にも天井に頭がつかえるのを気にしているセエレに、僕はナメられないよう精一杯虚勢を張り、手の持つ〝シジル〟を突きつけながら命じた。


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