第26話 レベル1の僕と、奇跡を信じてくれる君
気まずい空気が、僕と久田野の間に流れる。どちらも口を開くことができないまま、チラチラとお互いの顔を見ては視線を外してをループしている。
唸る空調の音と、先輩がスリープ状態にしたパソコンの動作音と、外から聞こえる太陽の音が重なり合って、二人の空気を作り出す。
彼女は、さっきまで福島先輩が座っていた椅子の近くに歩いては、僕の側に立つ。
「……私も、同じ。福島先輩と同じこと思っているから」
一滴の雫が水面を叩くように、微かな声で久田野は僕に言った。
「やめるならやめていいなんて私は思っていないけど、それ以外は、同じ。……先輩と同じだから」
そして、意を決したように久田野は僕の真横にしゃがみ込んで、至近距離に顔を近づける。
その距離、三十センチほど。
「……なんで私が、絵を描くこと続けているか、文哉知っている?」
囁く声が、息遣いが僕に直接当たる。思わず椅子を引いて間を取ろうとするけど、ぐっと伸ばされた彼女の両手にそれは阻止された。
「……お願いだから、逃げないでよ……。大事な、話なんだから……」
弱々しい声で、久田野は僕のことを拘束する。……後ろに壁があったら、きっとこれは壁ドンってことになるんだろうな。
「……知らない、よ」
久田野が絵を続ける理由。考えたこともなかった。それを考えされる機会がないくらい、普段の彼女は明るいから。
でも、きっとそれは、商業でやれるイラストレーターになりたいとか、そういう彼女の夢のためであるはずで。なんて、ぼんやりと想像した。
「……文哉の、ためなんだよ……? 文哉の、おかげなんだよ……?」
「……僕?」
考えもしなかった答えが久田野から出されて、間抜けにも呆けてしまう。
「うん……。覚えている? 幼稚園のとき。二人で一緒に絵本作っていたこと。文は文哉で、絵は私で」
「そりゃあ、もちろん」
片時だって忘れたことはない。
「あれが、きっかけだったことはね。言うまでもないよ。あのときの絵はさ、そりゃあ下手も下手で、とてもじゃないけど他人に見せられたものじゃなかった」
彼女はそう言っては、肩から提げていたカバンのなかを開けて、一冊のスケッチブックを取り出す。
「それは……」
色あせてボロボロになっている表紙、紙の裁断面もくすんで黄ばんでいる。
「でも、ね。……こんな酷い絵でも文哉は物語を作ってくれた。それどころか、私の絵をうまいって褒めてくれた。それが、私は嬉しくて嬉しくて仕方なかった。……それから、私は絵を描くことが好きになった」
大事そうに思い出が詰まったそれを胸に抱きかかえ、久田野は話を進める。
「文哉に喜んでもらいたい、また、あのときの絵本みたいに私の絵に物語を添えてもらいたい、そんな気持ちで、私は絵を描き続けた。小学生のときとか、クラスの皆から自由帳見られて『へったくそー』って言われて泣きじゃくりながら帰った日だって、文哉は『下手じゃないよ』って言ってくれた。やめたくなったときもあった。でも、私の絵を見るたび笑ってくれる文哉の顔見ると、そんな考え消えちゃうんだ。……文哉がいなかったら、私は絵を描いていなかったんだよ? 文哉がいなかったら、絵を続けていなかったんだよ?」
久田野の告白に、僕は言葉を失った。しばらくの間、何も口にできなかった。
……僕の、おかげ?
いや、だって。今までそんな素振り一度だって見たことない。
久田野が絵をやめそうになった話なんて一度も聞いたことない。
毎日毎日、彼女は自由帳に描いた絵を僕に持ってきたんだから。それこそ、瞼の裏に残るくらいに。
「そのうちお互いがオタクになって、漫画とかライトノベルとか、そっちのほうにスイッチしても、文哉が私のこと葵って名前で呼ばなくなっても、私の思いは変わらなかった。……むしろ、絵本だけじゃない選択肢もあるんだって思った。私は、文哉の描く小説に絵を添えたいって思って、今も絵を続けているんだよ……?」
……優しい瞳で、彼女はそう紡いだ。もがき苦しむ僕を、包み込むような、そんな柔らかさを伴った瞳で見つめて。
「でも……だんだん私と文哉の関係が希薄になって。普段の生活での関わりなんてほとんど皆無になって。……部活でしか、私と文哉を結んでくれるものが無くなって。部活じゃないと、創作じゃないと、私は文哉と関われない。関わりを残さないと、私の夢は叶わない。……ここまで言えば、私が部活にこだわった理由、わかってくれるよね?」
優しさの色のなかに、例えるなら、暖かなオレンジにポツンと落ちた青のように、ふと悲し気な目をしてみせる。
「だから、私は部活を存続させるために、10万PVを稼ぐための方法を必死で考えた。眠る時間も惜しんで。今頑張らないと、一生後悔するって思って」
話の繋がりが徐々に僕にも見えてきた。それとともに、僕の感情が、震えはじめる。
「多少の方向転換は、許して欲しかった。文哉は……あまり軽いお話描かないのは知っていたけど、それだと部活が存続できないのは今までの文哉が稼いだPVの数で予想がついたから。だから、私は春に文哉にラブコメを描くように迫った」
どこか懐かしむように彼女は独白を続ける。微かに浮かぶ控えめな笑みが、より一層懐古の感情を強調している。
「文哉がラブコメらしい女の子といちゃいちゃと絡むシーンも苦手だろうなって思って、私は色々体験して慣れてもらうことにした。……願わくば、これをきっかけに部活以外の接点も作って、また、昔みたいな関係に戻りたいっていうのもあった」
久田野は、空いた僕の隣の席、福島先輩がさっきまで座っていた椅子を見つめて、
「だから……先輩から貰った屋上の鍵も使わせてもらった。純粋にね、楽しかったんだよ? 屋上でお昼を一緒に食べたり、朝に取り留めのない話をしたり、ボウリングに行ったりって。凄く楽しかった」
と僕に語る。色々あった過去のあれこれを思い出して僕は頬が熱くなるのを自覚する。
「……ランキングが跳ねたときは夢を見ているんじゃないかって思った。……報われなかった文哉にとうとう陽の目が当たったんだって、そのときは何の疑いもなく思った。……でも、そうじゃないことは、書き込まれたコメントで気づくことができた」
久田野の表情が沈痛な面持ちに変わり、声色も憂いを帯びる。
「最初はよくあるツイッターのリプ程度にしか思ってなかった。だから、文哉が見る前に消せばいいかなんて軽く考えていた。でも、そんなのじゃなかった。日を追うごとに雪だるまみたいに酷い書き込みが増えていって……それでも全部消した。文哉が見る前に。見たら、傷つくことくらいわかっていたから。でも……追いつかなくなった」
……そして、僕が見つけた。
「それから文哉が塞ぎこんで……。どうしようって……。私が、私が自分のエゴのために、部活を残したいってエゴのために文哉が小説描くのをやめたらどうしようって……!」
ぽたぽたと、雨が降り出した。大粒の雨が、局所的に。僕のズボンを濡らし、やがて染みになり、色が濃くなる。
「私のわがままで……文哉が小説描くのやめたら……この先どうしたらって……。こんなことになるんだったら、ラブコメ路線に切り替えようなんて言わなければよかった、いや、素直に廃部を受け入れたらよかったって……!」
ここ最近、久田野の泣く姿ばかり見ている気がする。当然か。僕が泣かせているのだから。久田野を笑顔にするために始めた、物語を描くことをやめようとしているから。彼女に面白いって笑って言ってもらえることが嬉しくて、続けたことだったのだから。
「大勢になんて言わない……10万のPVなんていらない……部活だっていらない……私のために描いてだなんて言わない……だから、お願いだから……! 自分のためでもいいから、また描いてよ……! だって、まだ、文哉が一番描きたいって言ったシーン、まだ終わってない……だから、だから……!」
くすんだ空、赤焼けた空。崖に落ちたレベル1の冒険者の僕。膝をついて、上を向くことを諦めた。空からは、ギャラリーの歓声と、ラスボスの唸り声が聞こえる。
もう、終わりだ。
そう、思っていた。
でも、膝に何か温かいものを感じた。
雨なんて降っていないはずなのに。それなのに。
「あ……れ?」
そして、次の瞬間。僕が持っていたボロボロの木の枝は、なぜか立派な鉛筆になっていて。
空を見上げれば、おどろおどろしかった空の彩りは切り裂くように透き通る青空に変わっていて。壊れた建物が並んでいたはずの背景は、一変したように美しい水の街並みが映っている。
まるで、まだ戦える。それを伝えるために、「イラスト」の雰囲気が全くもって変わった。
絵は作った。あとは、逆転の物語を自分で描けと言わんばかりに。
キミは確かにレベル1の、何の力を持っていない冒険者かもしれない。力もない、才能もない、目立つものなんて何もないかもしれない。でも、誰かの心を動かすことはできる。その手で、観るものの心を突き動かす、そこにいるボスを倒すシナリオを、物語を、紡ぎだすんだ。
ペンは、剣よりも、強いのだから。
そんな声が、僕の脳内に語りかけてくる。
「僕に……できるのかな?」
できるさ。だって、キミには、キミの描く世界を信じてくれる、仲間がいるじゃないか。
「だったら──」
それなら。
もう少しだけ、もうちょっとだけ、僕って奴を信じていいのかもしれない。
「……だから……!」
彼女の懸命な叫びは、僕の心に染み渡った。
「……だったら、やるよ……葵」
口をついた言葉は、彼女に応えるもので。そして。約七年振りに、彼女を名前で呼んだ。
「……文哉?」
もう、逃げることはない。怖いものだってない。
だって。
僕が物語を紡ぎ続けることができたのは、他でもない幼馴染の。
葵のおかげだったんだから。
「……描くよ、続き……。終わらせよう。僕らの、物語を」
僕の声が聞こえた刹那、彼女は過去一番の笑顔を咲かせてこう言った。
「うん……! そ、そうと決まったらもう時間ない、家に帰って、この後どうするか決めないと……!」
涙混じりのその声は、しかし悲哀は含まれていなくて。きっともう、彼女の瞳には、七色の虹が架かっているんだろうって、そう思った。
気がつけば、体は動いていた。部屋を飛び出して、サークル棟の建物からも出て、肌にまとわりつく熱気さえも味方なような気がして。
夕方に咲いた月下美人の花の香りが、僕らの背中を押すようにして、走って戻るべき場所へと向かった。
「……奇跡を、きっと君なら起こせるよ」
部室を飛び出す際、出入り口の横でふっと呟かれた先輩のひとりごとは、仕方ないけど僕や彼女の耳に入ることはなかった。
けど、起こせる。奇跡は、起こせるんだ。
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