第4章 キミの描く世界に、

第24話 願いを託す先に

 彼女の叫びも空しく、僕の手がキーボードを叩くことはなかった。

 久田野が家に帰ってから約束の午後二時を指すまで、数時間僕はパソコンと向かい合った。けど、どうしても指は動いてくれず、代わりに脳内を走るのは僕への悪口の数々。……いや、僕と久田野を比較した上での悪口か。

 あれから三度母親と顔を合わせた。夕飯のとき、お風呂に呼ばれたとき、朝ご飯のとき。そのいずれのときも、僕には何も聞かずにただただ普通の世間話をするか、もしくは単にお風呂入ってと言うだけだった。

 久田野でないと、解決できないと踏んだのだろう。だって、久田野の声は聞こえていたはず。僕らがどういうことで今みたいなことになっているかは、恐らく想像がついているはず。

 でも何も言わないということは、つまりはそういうことなのだろう。

 午後二時きっかり。家のインターホンが鳴った。この時間は家に誰もいないから、出られるのは僕しかいない。

 逃げようと思えば、逃げられる。

 でも、そうはしなかった。

 逃げたところで、解決はしない。彼女は諦めない。何度でも次の最後を持ってきて僕に迫るだろう。今日逃げることは、明日の僕の選択肢を狭めることになるんだ。まあ、選択肢なんてそもそもないのかもしれないけど。

 もう出かける準備は済んでいた。真っ白な半袖のワイシャツにおうど色のズボン。地味だろうがこれで三年前から過ごしているのだから仕方がない。スマホと財布だけポケットに突っ込んで僕は玄関の扉を開ける。

「……遅い。逃げたかと思った」

 その先には、言葉端だけ捉えれば怒っているように聞こえるけど、ホッと安心したように目尻を緩めている久田野がいた。

 今日は白のノースリーブに、アイボリーっぽい灰がかった黄色のロングスカートを履いている。おまけに定番の麦わら帽子まで被っている。夏だと、少し露出が増えるのは仕方ないのかな……。涼しいしね、そのほうが。肩にかけているカバンは、ほとんど何も入っていないのだろうか、ゆらゆらと吹きつける風に揺れている。

 昨日に引き続き、またもや幼馴染の全く焼けていない純白の肌が流れる肩を目の当たりにしてしまい、少し視線を逸らす。

「……逃げないよ、僕が久田野から逃げ切れるなんて思ってないから」

「それはそれで、なんか……まあいいや。行こ」

 ここ最近聞いていなかった「行こ」の一言。それがどうも懐かしく響いてしまう。

「今日は……どこに連れて行くの」

 エレベーターで一階まで降りながら、僕は彼女に尋ねる。

「……まだ、秘密。電車とバスに乗るから。お金持ってきた?」

「うん……そんなに遠いところ行くの?」

「いや……電車で三十分、バスで十五分とかだから」

「そっか」

 マンションの敷地を出て、アスファルトの照り返し厳しい夏の道路を、駅に向かって歩き出す。


 途中、会話は全く生まれなかった。駅までの道も、ホームで電車を待つときも。電車に揺られて未だ告げられていない行き先に向かうときも。やがて空いたクロスシートに向かい合って座ったときも。

 一切、会話は生まれなかった。

 終始どこか遠いところを眺めている久田野と、その横顔、瞳、色素の薄い唇、泣きぼくろ、桜色に染まっている頬を見つめている僕。なんか、普通に夏の旅のイメージ写真とかに採用されそうな佇まいなんだよなあって、関係ないことを想像してしまったりもした。

 時折肩まで伸びた彼女の栗色の髪が動いて何駅に着いているかを確認しては、また車窓に目線を戻す。

 乗客はどんどん入れ替わっていく。僕らみたいに、中距離の移動にはあまり使われていないようだ。八両編成の六両目、僕らより長く乗っている人は、車両隅の座席に座っている旅行客一人だけになった。……もしかしたら、普通列車だけで移動している人かもしれない。この時期は、そういうお得な切符が発売されているから。

「……次、降りるから」

 そして、彼女の口からそう聞こえたのは、やはり三十分経った頃。どうやら、あの旅行客のおじさんは終点まで行くのだろう。なんとなくそんな気がした。

 そして、彼女が降りると指定した駅名を見て、これから連れて行かれる場所の想像がついた。

 ボタンを押して電車を降りる。簡素なホームに人はほとんどいない。恐らく期間によっては混雑しているのだろうけど、今は夏休み。この駅を利用する人はあまりいないのだろう。

 ホーム端に設置されている簡素な自動改札機にICカードをタッチする。駅舎を出ると、僕らの地元以上に田舎の雰囲気が漂う町に出た。街ではない。町と表現するのがいいと思う。

 駅前すぐにあるバス停のベンチに座る。久田野は停留所の案内を見て、

「……次のバスは十五分後、か……」

 とぼそっと呟く。

 そのバスの路線番号と共に書かれている路線名は「桜燐おうりん大学線」とあった。

 その大学は。

 福島先輩の進学先の大学だった。


 彼女の呟き通り、十五分後にバスがやって来た。前降り中乗りのドアのバスは、まず下車していく人を降ろしてから乗車口のドアを開けるようだ。やはり、駅は降りる人が多い。

 そして、完全に降車が終わったタイミングで僕らはバスに乗り込み、一番後ろの五人掛けの座席に並んで座る。乗車したのは、僕と久田野だけで、バスに乗っているのは僕ら含めて四人だけだった。

「桜燐大学行、発車します、揺れますのでご注意ください」

 バスの運転手さん特有の聞き取りにくい案内の声と共に、バスは動き始めた。

 片側一車線の細い道路をガタガタと揺れながら走っていく。途中いくつか停留所があったけど、誰も乗らないし降りもしないので、どんどん通過していく。

 久田野の話では十五分で着く、ということだったけど、田園風景を眺めて十分弱で「次は、桜燐大学前、桜燐大学前です。お降りのかたは、お知らせ願います」とアナウンスが入る。久田野はすぐに降車ボタンを押す。車内に響く、「つぎ、止まります」の機械音も、どこか頼りない。

「バス完全に停まりましてからお立ち下さい、桜燐大学前です」

 そんな田んぼが立ち並ぶ風景のなかにどんと構えられている建物が映る。バスはその建物の門の前で停車し、ドアを開ける。

「降りるよ、文哉」

 彼女はそう言い、席を立つ。僕も彼女の後を追うようにバスを降りる。

「……久田野が連れて来たかった場所って、ここ?」

 どんどん小さくなっていくバスの後ろ姿を眺めながら僕は彼女に聞く。後続の車はいないので、遮られることなくバスは視界に溶けていく。

「うん……」

 目前にそびえ立つ巨大な建物。場違いなくらい景色に馴染んでいない近未来的なキャンパス。

 県内の郊外に位置する桜燐大学は、十年くらい前に新設された私立大学だ。文系学部は文学部しかなく、じゃあ単科大なのかと言われるとそういうわけでもなく、まあ、土地柄か農学部が設置されている。他にも工学部、医学部、理数学部があったはず。どちらかというと理系の大学、というイメージが地元には根付いている。とくに農学部と工学部の建築学科は人気なことで有名だ。

 彼女はその真新しいキャンパスへと足を踏み入れる。学生の数はまばらで、しかしときどきすれ違う男子の大学生は久田野のことを二度見しては隣を歩く僕を忌々しげに睨みつけてくる。

 ……はいはい、わかってますよ。なんで僕みたいな奴がって思っているんですよね。

 農学部もあるからか、全部が全部建物で敷地内が埋まっているわけではなく、実習か何かで使うのであろう農地や畑には数多くの植物や農作物が並んでいる。稲が青々しく風に吹かれる姿や、向日葵や朝顔、百合の花が咲き乱れる背景に久田野の姿は掛け値なしに綺麗だった。

 そりゃ、行き交う人も二度見するよ。

 久田野はそんなことは気にせずにどんどんキャンパスの奥へと歩いていく。背の高い建物が目立つなか、彼女が入って行ったのは少し背の低い小さな建物。名前を見ると、

「サークル棟」

 と書かれている。自動ドアを通って冷房の効いた室内には、リノリウムの床と靴が擦れる音が響く。掲示板のようなものには秋にある大学祭で行う出し物の宣伝や、新入部員の勧誘のチラシなどが乱雑に貼られている。まあ、目立つのは女子部員大歓迎、だけど。

 理系の大学だとそうなるのかな……。少し薬品の匂いがするのもその関係だったりして。

 小綺麗なドアが連なるサークル棟の片隅、二階建ての一階隅に、「文芸サークル」と表記のある部屋にたどり着いた。

 桜燐大学、確かに理系の大学で有名だけど、文学部のなかにも珍しい学科がある。

 芸術学科、だ。

 小説に限らず、文学部らしく書道だったり和歌だったり、舞台芸術やイラスト、漫画のコースもあるとても珍しい学科だ。

 そして、福島先輩は、その文学部の芸術学科に進学したんだ。

「失礼します」

 コンコンと久田野は扉をノックする。

「どうぞー」

 ……聞いたことのある女性の声が中からする。彼女は扉を開けて、部屋へと入る。僕もそれに続く。

「来たね、遠かったでしょ、しかも暑いよね今日」

 高校の部室以上に雑誌や本でごっちゃに溢れた空間に、福島先輩はいた。

「いえ……すみません、先輩忙しいのに」

 久田野は机が八個くらい並ぶなかの真ん中あたりに座る先輩のもとに向かう。どうやら、今は先輩一人だけしかいないようだ。

「いいよいいよ。ちょうど同人でやってるゲームの仕事も終わったし、ここ二・三日は暇していたんだ。……で、用事っていうのは、昨日ラインしてきたことでいいの?」

「はい……」

「……そっか、やっぱりそうなったかあ。……まあ、もしかしたらとは思っていたけど……仕方ないか。まあいいや、泉崎、ちょっと隣座りなよ」

 福島先輩は部屋の扉の前で立ち止まっていた僕を手招きする。

「は、はい……」

 僕は呼ばれるがまま先輩のもとに向かう。部屋の中心地はよくクーラーが効いていて、少しかいていた汗が引いてくるのを感じる。

「どう? 高校の部室よりは涼しいでしょ?」

 少し自慢するかのように軽い表情を作って先輩はニカッと笑ってみせる。

「そ、そうですね……全然違います」

 僕は先輩の隣の席に座らせてもらう。共用の机なのだろうか、机上には国語辞典や英和辞典に限らず、対義語辞典、類語辞典などの言葉の辞典だけでなく、感情の類語辞典やキャラクターの性格を設定するのに役立ちそうな分厚い本や舞台設定の参考資料集などが積まれている。

 ……あったら便利だったかもしれないな。

「久田野も、座っていいんだよ?」

「いっ、いえ。私は……」

 彼女はなぜか先輩の提案を固辞して、福島先輩から少し離れた場所に立って後ろ手に帽子を持ち、僕らの様子を見ている。

「そう。……別にいいんだけどね。ま、あまり長々と無意味な話をするのも描くのも私は好きじゃないから、単刀直入にスパッと話しちゃおうか。……久田野が君をここに連れてきたってことは、相当なことがあった、ってことだからね。想像はついているけど」

 久田野は、僕の説得を福島先輩に託したんだ。

 ……同じ小説家志望なら、どうにかなるかもしれないと考えて。

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