第23話 割れた泡、沈みそうな願い
抜け殻のような生活を過ごし始めてから、約十日が経過した。もう八月に突入したころだろうか。今日が何日かさえ、もう把握していない。
朝起きてご飯を食べてはそのまま部屋に籠ってボーっとしている。気が向けば読んでいない小説を消化して、そのまま暇を潰す。
午後になればパソコンを開いて、真っ新な状態の公募のためのワードファイルを開いてカチャカチャとキーボードを叩き始める。けど、そこに文字は積み重ならない。
描いては消して描いては消してを繰り返している。
夜になると用意された晩ご飯を食べるか、適当に済ませるかして、お風呂に入ってすぐ寝る。
そんなことを、ずっとやっている。
久田野も久田野で毎日僕の家のインターホンを鳴らしている。母親が出る日もあれば父親が出る日もある。誰も出ない日もある。でも、決まって親が言う切り出しは「ごめんね葵ちゃん」だ。
きっとスマホの通知にはおびただしい量の久田野のラインが来ているんだと思う。でも、それに向き合うつもりもなければ、勇気もない。
僕は、ひたすら現実から逃げ続けていた。
そして、そんな生活すら放棄したくなる出来事が起こった。
八月五日。雷撃小説大賞の二次選考結果が発表された。
僕の小説は、見事に選考漏れしていた。
それを機に、僕は完全に描けなくなった。これまでの抜け殻の時間もそうだと言えばそうかもしれないけど、何もできなくなった。キーボードを叩くことすら、僕はできなくなった。
何もかもが否定された。僕の周りは全て敵だ。そんな中二病くさいことすら思い始めた。
「僕……何が楽しくって生きていたんだっけ……」
創作に時間の限りを費やしていた人間から、創作を奪えば、自然とこんな台詞が聞こえてくる。本すら読むことができなくなった僕は、本当に、限りなく引きこもりに近い状態になった。
そんな僕を見かねた母親は、とうとう久田野を家へと上げた。
「……久し振り、だね……」
机に向かってパソコンを開いていた僕は、その声にくるっと振り返って彼女の姿を見つめていた。
硬い表情をした彼女は、夏らしい水色のワンピースを着て僕の部屋に入った。僕と言えば、部屋着のジャージにヨレヨレのTシャツだ。
「……原稿、してたの?」
僕の側に近寄って、恐る恐る彼女は尋ねる。瞬間、淀んでいた部屋の空気に爽やかな香りが混ざり合って、僕の鼻腔をくすぐる。
「……久田野が期待している『原稿』じゃないけどね」
自嘲するように笑って見せる。久田野は最初は何のことか理解していなかったようだけど、画面左下の文字数のカウントを見て口を手で塞ぐ。
「い、一文字も……ない?」
「……あれから、描けなくなったんだ。もう、公募のための小説も作れなければ、『だあるまさん』の続きも、僕には作れない」
「う、そ……」
久田野は信じられないというような反応をしてみせる。
描けなくなったからこそ、今こうして久田野と普通に話ができているのかもしれない。もしまだ描いては消してを繰り返している段階だったら、顔も見たくないって思っただろう。
「……最初はまだ、キーボードは叩けたんだ。全部消していたけど。でも、まだ文字を打つことはできていた。……雷撃の二次落ちてから、パタリと何も描けなくなったんだ」
彼女は無言のまま、僕の話を聞いている。でも、もう顔色は窺うことができない。俯いてしまっていたから。久田野の白いうなじが、パッと目に入る。
「……それからは、もう駄目。キーボードすら、叩けなくなった。今もこうして画面を開いているはいいけど、手が、動いてくれないんだ……」
「だ、だって……そん、な……」
「あの日から、さ。何描いても、何を打っても。全部全部僕の作るものが、久田野の絵の邪魔になるイメージしか湧かなくてね……。ランキングだって……ほとんど久田野の絵のおかげだってことが痛いくらい今回のことでわかったし……。もう……、多分、僕は何も描けないと思う」
僕がそう話すと、久田野は俯いていた顔を向ける。そして、顔を少しずつ歪ませては、会って二連続で彼女は僕の目の前で涙を流し始めた。
「……泣かないでよ。僕が描けなくたって、久田野が絵をやめることにはならないし、別に、部活でなくたって……」
「……違う、そうじゃない。部活じゃなきゃ、あそこじゃなきゃ……駄目なの、そうじゃなきゃ……嫌なの……」
涙をくぐった久田野の声は僕に否定の意思を伝える。
……そこまで部活にこだわる理由は、何なのだろうか。何が久田野をそこまで突き動かすのだろうか。
「もう、描けないの? ……もう、文哉は小説描けないの?」
ぐちゃぐちゃになってしまった顔と、落とした涙が彼女の露わになっている艶やかな肩を伝う。僕に伸ばした腕の隙間から見える透明のように綺麗な脇が、少しだけ僕の感情を揺さぶる。
心が死んでいたはずなのに、気持ちが動いてしまう。
それだけ久田野の訴えが、必死なものだという証左なのかもしれない。
「昔みたいに、私の絵にお話作ってくれることも、もうできないの……?」
鈴が鳴るくらいの音で、問いかける声に僕は首を無言で振る。
「小説描くの……やめちゃうの? 文哉はやめちゃうの?」
「……わからない。わからないけど……もう、怖いよ、僕は……」
比較されるのも、自分自身の無能さも、何もかもが怖い。
「……そ、そんな……。何かものを作っていたらそういうことあるって……。私だって中学生のときは全然だったし、下手とかたまにツイッターであげた絵のリプに来たりもしたし……でも、それでも──」
「久田野と僕は違うって……。前に言ってたろ? 僕は僕。福島先輩は福島先輩って。……それと同じだって。……僕らは、違うんだって……」
いつか久田野が僕に言った言葉を反芻する。
彼女のそれは単純に「下手」と言われたもの。僕のそれは「イラストの足を引っ張っている下手」というもの。
重さが違う。
このままいけば、僕は久田野まで巻き込んで沈んでいくことになる。泥船だ。そんな船に久田野を乗せるわけにはいかない。
「っ……そ、それは……確かにそう言ったけど……」
僕の反論に、唇を嚙みしめて言い淀む彼女。
「……だから、僕がやめるからって久田野には」
「関係あるのっ! 私は文哉に小説を描くことをやめて欲しくなんてないっ!」
彼女は僕の胸倉を掴んで、潤んだ瞳をこちらに向ける。
「……お願いだから、やめるだなんて言わないで……文哉が続けるためだったら何でもするから、だから……そんなこと言わないでよ……。そんな……私のせいで……文哉がやめちゃったら……」
「別に。……久田野のせいでやめるわけじゃない。……僕のせいで僕がやめるんだ……」
そう、これは僕の実力不足が招いたことなんだから。彼女が気に病む必要なんて皆無なのだから。
「……やだよ……私、絶対やだ……」
するすると力が抜けたように僕から手を離す彼女。僕はストンと落ちるように真下の椅子に座る。彼女の声の後ろに、エアコンが動く音が微かに聞こえてくる。
「……文哉がやめるなんて……絶対にやだ……やだ……」
駄々をこねるように。子供が親にお菓子をせびるように。久田野は「やだ」を連呼し始める。
「……思い出してよ、ねえ……! 幼稚園のとき、一緒に作った絵本のこととか、中学生のときに初めて新人賞の一次選考抜けたときの喜びとか、一緒に福島先輩の祝賀会とかやったときとか……! 続けていれば、続けてさえいれば、もっと楽しいこと経験できるかもしれないんだよ!」
……確かに、楽しかったよ。その瞬間瞬間の思い出は、大切なもの。でも。
僕は部屋の片隅にしまわれたカラーボックスを少しの間だけ眺めて、記憶を遡る。ボロボロになったスケッチブックが、僕の心をくすぐる。
でも、すぐにそれは終わりにして、次の言葉を繋ぐ。
「……過去の、ことだよ……もう。僕に……これからなんて……ない」
全部、過ぎたことだ。今には、何も関係はない。そして、未来にだって。
「……どうしたら……どうしたら文哉は続けてくれるの? わかんない。わからないよ……」
床に両手をついて、顔も下を向く。何があっても僕に小説を描くことを続けて欲しいと願っている彼女は、まだ方法を探しているみたいだ。
「……『だあるまさん』のPVも、きっと止まっているんでしょ? ストックも、使いきったよね。なら……もう間に合わないよ。10万PVなんて、やっぱり僕には無理だったんだ。……終業式の日、会長に言われたんだ。……転部を考えるなら、夏休み中だって。それ以降は、もう相手にしてくれないかもしれない。そうなったら、恐らく僕らはどこの部活にも所属できずに、半ば強引に生徒会庶務とかにさせられて、白坂会長にいいように使い走りにされるだけだよ。……僕のことは、もういいからさ。……久田野は、今からでも間に合う。転部していいよ……他の部活に」
「だからそれじゃ駄目なんだって!」
きっと、リビングにいる母親にも聞こえただろう。それくらいの大声だった。
「……明日。明日の午後二時に、迎えに来るから。何があっても、来るから。……連れて行きたい場所が、あるんだ……」
「……どこに?」
彼女は、一言一句、間違えることないよう慎重に、その時間を呟いた。
「行けばわかる。……それで、最後にするから。だから」
最後、という単語のチョイスを聞いて、僕は「いいよ」と首肯した。
「……私、もう帰るね。また、明日」
ひらり揺れる薄い藍のワンピース。ちらりと覗く彼女の健康的な膝と、ふくらはぎが視線に飛び込む。薄暗い僕の部屋の雰囲気とは、まるで対照的だ。陰と陽、闇と光、それくらいには。
「……逃げないでね、文哉」
去り際、久田野は一言だけそう言い残し、ここを後にした。
椅子に座ったままの僕は、しばらくの間、そのままの状態でいた。
夏の陽射しが照りつける音と、セミの鳴く音、自転車のチリンというベルの音。
どれもこれも、物音立たないここには、オーケストラのように大きく聞こえた。実際は、耳に障るくらいのはずなのに。
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