第21話 溶けかけの夢、溺れかけの僕
会長と話していた時間はせいぜい十五分程度だった。けど、きっともう久田野は部室に来て作業をしているんだろうと思う。
「ごめん、会長の呼び出しで……」
部室の扉を開けて目に入ったのは、パソコン画面に向かって突っ伏して眠っている幼馴染だった。
「って……久田野、そんなところで寝たら風邪引くよ……?」
彼女にそう声を掛けるために近づいた僕は、それと一緒に久田野のパソコンの画面が視界に入る。
そこには。
「……あれ……」
「イラストはいいなって思って来たけど中身は全然じゃん」「キャラは可愛いけどストーリーはありきたりでつまらない」「無駄な五分間だった」「気づかずに地雷を踏みぬいてしまった自分を呪いたい」「かけかけでよくある表紙だけ作品だった件」「作者の妄想で草も生えない」
……荒れてる? コメント欄が、荒らされている……?
作品管理画面から、コメントだけを一覧するページには、そのような「僕の文章」を叩くコメントがわんさか溢れていた。
途端、さっきまで会長に威勢のいいことを言った僕は影をひそめる。言いようのない恐怖が背後から襲ってきた。
見なければいいものを、僕は彼女の無線のマウスを握って、ページを下へとスクロールしていく。
……ランキングが跳ねた理由。これか。
気づいてしまった。どうして今朝の時点で日間のランキングが上昇していたのか。
ポイントを付けると同時に……一緒にレビューを書くことができる。通常は「ここがよかったです!」とか、そういうポジティブな内容を添付することがほとんどだ。でも、その逆もありえる。酷評ならまだしも、ただのアンチコメントや悪口だけを書いてポイントを付けるそういう行為もしばしば発生する。
そして、コメントならそれを削除すれば基本は問題ないけど、「ポイント付き」レビューとなると、それを削除してしまうと上昇したランキングに支障が出る。アンチレビューよりも普通のレビューが数を上回っているのならばっさりと消すことができたかもしれない。でも、今の僕のランキングの原動力は、アンチコメント。
……だから、ここ最近寝不足だったの? 久田野。
キーボードに光る雫を見つけて、彼女が僕に隠れてやっていたことを理解する。
ページの一番下までスクロールすると、僕が寝る前にスルーした時刻のコメントが表示される。
「文章がイラストの足を引っ張っている。イラストのレベルについていけてない」
「っ……」
もしかしたら、これが一番、僕の心に刺さったかもしれない。悪口なんて、ネットで活動していれば叩かれることもしばしばある。ある程度なら耐えられる免疫も持っているつもりだった。
けど、けれど。
久田野のイラストの足を引っ張っていると言われて、何とも思わないはずがない。
久田野の、aoiの絵が凄いことは僕が一番よくわかっている。知っている。理解している。彼女の絵なんて目を閉じたって思い浮かぶほど見てきた。
僕なんかと比較にならないくらい、凄いのは僕が一番わかっている。
僕がいなければ、彼女はもっと上に行けるのかもしれない。文芸創作部に所属していなければ、いや、「僕が」いなければ、もっと、もっと、それこそ「かけかけ」の10万PVなんて目じゃないくらいの高みに行けるのかもしれない。
僕じゃ、なければ。
最後のコメントの下にたくさん並んでいる、まるで無限のように連なる「このコメントは悪意ある書き込みとして通報があったため削除されました」の文字列に、僕は目を覆いたくなる。
……僕が気づいていなかっただけで、久田野は、ずっとこれとも戦っていたというのか。
僕がもっとこまめにコメントに対する返信をしていれば、はやく気づけたのだろうか。
僕には、ないものばかりだ。才能もない、実力もない、自信もない。そのうえ、僕の側にいる光るダイヤの原石まで、その輝きを鈍らせようとしている。ダイヤは泥のなかに沈めるものではない。誰かに認めてもらって、つけてもらうために存在するものだ。
「こんなの……」
不意に零れた嘆きの言葉が、どうやら眠っていた久田野の目を覚まさせたらしい。
「あれ……私……って文哉⁉ あっ……えっ……これはっ!」
彼女は体を起こして僕のことを見るなり慌ててタブレットPCを畳んで画面を隠す。
「いいよ……。もう、全部見たから」
その行動が無意味であることを伝えるために、僕は首を振って久田野にそう言う。
「……ち、違うの、違うって……文哉」
何かに怯えるように声を震わせる。彼女は僕と目を合わせることもせずに、動揺で口ごもってしまう。
「これは、ただの、ただのコメントだからっ! 中学のときに言われたあの言葉と同じくらいのレベルで、聞く必要のない言葉だから! だから、気にする必要なんて……!」
「無理だって」
話の途中に刺したその呟きが、久田野の顔色を真っ青に染める。何かを伝えようと口を動かしてはいるけど、言葉になっていない。
「……ごめんね、僕が久田野の邪魔になってたみたいで。もう……そんなになってまでコメントの削除とか、続けなくていいから……」
そんな時間があるんだったら。
一枚でも多く、何か描いてもらったほうが、久田野にとって有意義なはずなんだから。
……会長の最後のアドバイスって、このことだったのかな……。こんなことを書かれているコメントの数々を見て、ああ言ったのかな……。まあ、なんでもいいや。
「僕、もう帰るね……」
これ以上、ここにいたくない。
足を出口に向かって動かし始めた瞬間、久田野がすがりつくように僕の体を抱き留めてくる。普段ならドキドキのひとつでもするのだろうけど、心が死にかけている今、そんな隙間はどこにも残っていない。
「待って! 待ってよ、文哉! 違うんだって! そうじゃないんだって!」
「……だから何が」
必死に懇願する口調で、彼女は僕に説得してくる。
「……文哉はそんな、コメントで叩かれるようなもの描いてない! これは、これは何も考えていない人が、もしくはネットで憂さ晴らししたいだけの人がやってることだって! 文哉は、文哉の文章が、つまらないなんて言われる謂れはない……!」
「……持ち上げすぎだよ、久田野。……いいよ、庇わなくて。久田野だって思っていたんでしょ? ……つまんないなーって」
「っ、そんなことない! 思ってない!」
耳に突き刺さるような大声が彼女の口から叫ばれた。反射で僕は両耳を押さえようとする。
「確かにちょっと軽い掛け合いとか、ニヤニヤしたいシーンとかのぎこちなさはあったけど、それも今はよくなったし……! 文哉の小説読んでつまらないなんて思ったこと一度だってない!」
「それは主観でしょ……?」
「どうしてそこまで……! そこまで悲観的になれるの? 自分のことを低く見られるの?」
……否定しなかった。久田野の主観であることを、久田野は否定しなかった。そっか。
そっかそっか。
「……久田野に、実力のない人間の気持ちなんて、わからないよ」
僕は彼女の体を突き放して、冷たい色の声で告げる。
そう言われた僕の幼馴染は、絶望に染まった顔をする。いつもは底抜けに明るく、バリエーションに富んだ表情を浮かべる彼女は、このときばかりは。
焦点の合わない瞳で、僕の姿を探し求めていた。……いや、違うか。僕じゃなくて、「面白い小説を描ける僕」か。
「僕……もう帰るね」
「……待って、お願いだから……私の話を聞いて」
二たび僕の体にしがみつく久田野。でも、さっきより掴む手に力は入っていない。よく見れば彼女の瞳から、もういくばくかの涙が流れている。
「……本当は、僕じゃないほうがよかったんだよね?」
部活にいるのは、僕みたいな凡人ではなく。例えるなら、福島先輩のような人がよかったんだ。
「違う、そんなことないっ……私は文哉じゃなきゃ……!」
「……じゃあ、またいつか」
ならば、邪魔者はさっさと立ち去ってしまおう。彼女の手を振り払い、ドアに手をかける。
「ね、ねえ、『だあるまさん』の原稿やめないよね……? まだ続けるよね……?」
幕の引き際、最後の確認だろうか。久田野がか細い声で僕に聞く。
「……今は、考えたくないかな」
間違いのない、本音だった。
それを捨て台詞に、僕は部室を後にした。数秒後、背中から耳に入ってきたのは、久しく聞いていない久田野の大泣きする声だった。
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