第4話 僕と彼女の現在地
翌日火曜日。昼休み直後の五時間目の数学Bの授業。
「……ベクトルが出てきて垂直、直角、90度って来たらもうほぼほぼ内積を使うって思っていいからー、この問題もそう──」
気だるそうな様子で授業を進め板書を書いていく男性教師。若くて顔もすっきりした雰囲気なのでそれなりに女子生徒からの人気は厚い。まあ、性格は若干適当なところもあるけど。
僕は黒板に書き進められていく文字をノートに書き写していく。板書を一旦止め、説明に入るようだ。先生がまた話し始める。
ならば、と僕は意識を先生から窓の外に見えるグラウンドに移した。問題自体は解けているし、内積も理解できている。なら答え合わせだけしておけばいいかなあって思ったから、眠くなりそうな五時間目、襲う睡魔から逃れるためにちょっとよそ見させてもらうことにした。
どうやらグラウンドでは体育の授業が行われているみたいだ。ジャージの色からして、二年生の。まだ新学期始まって間もない時期なので、体力テストの50メートル走をやっているようだ。
体育教師が鳴らす笛とともに、二名の女子生徒がクラウチングスタートから砂地のコースを走り出す。少し舞い上がる砂煙が、程よく吹く風に乗ってどこかへと流れていく。あの方角は……ああ、住宅街だな、これ。洗濯物取り込んだほうがいいと思いますよーこの時間は……。
「……あ」
どうやら、今体育をやっているのは、久田野のいる三組と四組のようだ。創成高校は体育の授業を二クラス合同で行う。基本隣りあわせのクラスとね。僕は一組なので、被ることはない。
で、次に走るのがその久田野のようだ。
凛とした表情でゴールラインを見つめ、スターティングブロックに足をセットする。少しして、再び先生の笛が鳴り響く。
それと同時に、久田野ともう一人の女子生徒は走り出した。けど。
一瞬で久田野は併走していた女子生徒を置いてけぼりにしてしまう。綺麗に回転する両足両手は、走るという動作に一切の無駄がない、そんなフォームに見える。一点だけを見つめて駆けていく姿は、いっそ見とれてしまうほどだ。体育だからか後ろ髪を結んでいて、いつもと違う髪型で尚更ドキッとしてしまう。遠目からでもはっきりとわかるくらいに白い肌、小顔で近くを舞い落ちる桜の花弁のように少し桃色に染まった頬。さすがにここからでは見えないけど、彼女の丸い瞳のもとには泣きぼくろもあって、それがまた可愛かったりする。
「久田野、7秒96」
……微かに聞こえた先生のタイムコール。……僕より速いんですけど……。
駆け抜けたゴールラインから、再びスタートの列に戻る久田野。
「葵やっぱ早いねー、なんで文芸創作部なのー?」
「そうだよ葵、勿体ないから陸部入ろうよ、練習したらもっと伸びるって」
列に合流するなり、友達から笑顔でそう話しかけられている。その姿を見て、少しだけ胸がチクリと痛くなる。
やっぱり、僕みたいな根暗、久田野とは本来関わり合いになるはずのない人種なんだ。ああいう明るくて運動もできて、友達もたくさんいる人気者、僕には高嶺の花すぎる。昔は、小学校中学年くらいまでは久田野のことを葵って名前で呼んでいた。幼馴染のよしみもあって。けど、思春期に入って男子は男子、女子は女子と仲良くするのが当たり前になると、名前で呼ぶのが恥ずかしくなり、葵だった呼び名は久田野に変わり、さらに彼女に対する劣等感……とは違うかな、でも、そんな気持ちも重なって、二度と僕が、彼女を葵と名前で呼ぶことはなくなってしまっていた。
「葵―、ねえ入ろうよー」
「あ、ちょっと陸部ばっかりずるいって、ね、女バスも一度見学しよっ、葵なら大歓迎だからさっ」
……うん、久田野はきっと、文芸創作部がなくてもやっていける。彼女の性格なら、どこでもうまくやれるに違いない。
「おーい、泉崎―。問3の証明、わかるか―?」
すると、耳に先生が僕の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。慌てて意識を授業に戻し、ノートに視線をやる。
「はっ、はい!」
えーと問3問3と……あ、ここか。答え合わせ待ちのところでよかった。
「えっと、まずOCベクトルとABベクトルの内積を求めて、それがbベクトルとcベクトルの内積マイナスaベクトルとcベクトルの内積で、与えられた条件式を変形していくと、最終的にbベクトルとcベクトルの内積とaベクトルとcベクトルの内積が等しいことが導けて、同じものを引くと内積は0になるので、垂直であることが証明できます」
「……なんだ、できてるのか、ずーっと俺の話聞かないで女子の体育見てたから当てたんだけどなー。ん、正解」
先生がそう言うと、教室は失笑に包まれた。……やばいバレてた……。しかもクラスのみんなに女子の体育ガン見している変態って思われたかも……ああもう、今度から女子の体育によそ見はしない。遅いけど……。
このシーンでわかってくれたと思うけど、僕は、久田野と違って、友達はいない。
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