海の街のナポリタン
「はい、おまちどおさま」
昼食はすぐに運ばれてきた。息子が腹をすかせてやってくるタイミングなど、母親にはお見通しだったのだろう。
少年アラシは、目の前に運ばれてきた湯気をたてる皿に、こぼれそうなほどまるまると目を大きくした。
「これは、なに?」
「何って、ナポリタンだろ」
鼻先がくっつくのではないかというくらい、顔を麺に近づけている。くんくんと匂いを嗅ぐその様子は、野生動物が人間に与えられた餌に、警戒心を抱きつつ興味津々な姿と似ていた。
マサキは一緒に運ばれてきたサラダをテーブルのすみに追いやりつつ(嫌いなセロリが入っていた)、フォークを手に取る。
白い大皿に盛られた赤い麺の山。甘ったるいケチャップがたっぷりと絡まっていて、ウインナー多め。パラパラと頂上に散らされた緑の粉はよくあるパセリなどの香草ではなく、青のり。ナポリタンの横には、ロールパンがひとつ、添えられている。
見るからに満腹になりそうな量だったが、はらぺこの成長期の少年にとっては、ありがたいメニューだ。
サラダには目もくれずフォークをナポリタンにつきたてるマサキは、アラシがじっと赤い皿を見つめたまま、動かないのに気づいた。
「もしかして、嫌いなもの入ってた?」
ナポリタンにはたっぷりのたまねぎとピーマンが入っていた。もしかしたらピーマン嫌い仲間かもしれないと、そっと期待を寄せたマサキだったが、アラシはナポリタンから目を離さないまま、首を横にふった。
「わからない。食べたこと、ないから」
さほど珍しいメニューでもないのだが、アラシは食べたことがないらしい。首を傾げつつ、マサキはアラシに食べ方を教える。
「ほら、こうやって、ぐるぐるするんだよ」
「うん」
「跳ねるから気をつけろよ」
アラシはぎこちなくフォークを握りしめた。まるで初めてフォークを触る、小さな子どものようだった。
「あっ」
アラシはマサキの真似をして、フォークをゆっくりと動かした。しかし案の定、ケチャップが飛んで、白いシャツに赤いシミが花のように咲く。マサキはくくっと笑った。
「最初はみんなやるんだ」
アラシは世界の謎に迫るかのような真剣な顔で、こぼれ落ちる麺を睨む。
「これは難題だね……」
「あと、これもかけてみろよ、うまいぞ」
マサキはテーブルの上においてあった粉チーズの筒をとって、たっぷりと振りかける。麺の上にチーズの小さな山ができた。
それから、次に小さな赤い瓶に手をのばす。
「これは、辛いから気を付けろよ。少しずつな」
タバスコは、三滴まで。マサキはタバスコの酸味のある辛さが苦手だったのだが、なんとなくかけるのが通らしい気がして、我慢してかけていた。
「うん」
マサキの手厚いナポリタン指導のもと。アラシはおそるおそる、ひとくち、食べる。
薄い唇にナポリタンが吸い込まれる。白い歯がちらりとのぞく。もぐもぐと、目を閉じてじっくり咀嚼する。アラシは最初のひとくちを、かなりの長さをかけて味わったあと、ごくん、と飲み込む。そして、呟いた。
「口の中がパチパチする」
「……は?」
それがナポリタンの感想だとわからなかったマサキは、自分の口に運んでいたフォークを一瞬止めた。
「しょっぱいのとすっぱいのとあまいのとからいのとが、口の中で一緒におどってるみたいだ」
独特の感想に、マサキは目を瞬かせた。
「……それは、おいしいってことなのか?」
マサキの言葉に、アラシは一瞬目を丸くしたあと、何度も何度も、なにかを確かめるように頷いた。
そうか、これが、おいしい、ということか。
小さな呟きを飲み込んで、アラシは笑う。
「うん、おいしい」
「そっか」
その笑みがあまりにも嬉しそうだったので、マサキもなんとなくつられて笑った。
あとはコツを掴んだのか、ケチャップを跳ねさせることもなく、アラシはナポリタンを頬張る。
夢中になって食べているアラシを眺めながら、ふと、マサキの目の前に重なる光景があった。
祖父だ。
もともと、この喫茶店の常連客だったのは祖父だ。何年か前に他界した祖父との思い出は、実はそう多くはない。大抵海の上にいた人だった。それでも限られた記憶のなかで、マサキにとって優しい祖父だった。
いつかの休日、祖父に連れられてこの喫茶店にやってきたマサキは、ナポリタンを初めて食べたのだ。ちょうど今のアラシのように、ケチャップを跳ねさせて。その時、祖父が浮かべていた笑みが、ナポリタンの甘酸っぱさと一緒に、ふと匂った。
「……じいちゃんが、ここのナポリタンは青のりがいいんだって、よく言ってた」
喫茶店の古びたシャンデリアの、ほの赤い灯りにぼんやりと浮かぶ、海波のような皺を刻んだ祖父の顔と声。店内ではずっとラジオがかかっていて、さざ波のようなメロディが流れている。流行りの曲ではなく、店主の趣味か、この店でしか聞いたことがない曲だった。名前も知らない歌が、ゆるゆると流れていた。
ナポリタンの匂いと、祖父の珈琲と煙草の匂いと、この街にいるとずっと離れることのない海のかすかな匂いとか、すべてまざりあっていた。
そういえば、この喫茶店に来るときは、祖父は必ずカメラを持ってきていた。写真を撮るわけでもなかったのに、なにか離れがたい相棒のように、ずっと傍らに置いていた。
それをふと、思い出した。
「海の街のナポリタンだから、青のりなんだって。食べ物には、海のものと山のものが入らないといけないんだ」
それはこの店でナポリタンを食べる時の、祖父の口ぐせだった。
「海と山はつながってるから。どっちかだけじゃ、ダメなんだ」
「そうか、みんな、つながっているんだね」
ケチャップで口のまわりを赤くして、アラシは深く頷いた。そして、付け加えるように呟く。
「僕と君がつながったように、ね」
「うん?」
その小さな呟きは、祖父との思い出にぼんやりと浸っていたマサキの耳には、はっきりと届かなかった。
テーブルの上にそっと置かれたカメラ。海に消えて、奇跡的に少年の手に戻ってきたそれは、祖父との思い出も一緒だった。
ナポリタンを頬張りながら、マサキはアラシとたくさん話をした。話題など、田舎町の子どもの小さな世界では、家や学校でのささいな出来事ばかりだったのに、アラシはマサキの話にいちいち頷き、興味深そうに聞いてくれた。
ナポリタンの山があらかた崩れたところで、マサキは棚に雑多に並んだ雑誌を引き抜いた。学校で流行っている少年漫画だ。ごはんを食べながら漫画をみていると母親に叱られるのだが、母親が給仕に忙しくしているのをいいことに、擦りきれたページをパラパラとめくった。
「それは、なに?」
漫画に興味を抱いたのか、アラシはずいっと覗き込んできた。もしかしたら、ナポリタンと同じく漫画も知らないのかもしれない。
「海の神様だよ」
キャラクターの名前を問われたと思ったマサキは、トリトンっていうんだぜ、と、キャラクター紹介のページを分かりやすく見せてやる。
「かっこいいよな」
「そうだね、かっこいい」
キラキラした目で漫画を眺めるアラシに、マサキはふとこぼした。
「漁師なんかより、ずっとかっこいい」
「……マサキは、漁師にはなりたくないの?」
つまらなさげな呟きに、アラシは首を傾げる。
「……なんか、かっこわるいし」
そうかな、とアラシは首を捻る。
「じゃあ、なにならいいの?」
「うーん」
そうやって改めて問われても、具体的な夢や目標があるわけではない。答えに困ったマサキは、視線をさまよわせる。迷って、とりあえず思い付いたことを適当に口にした。
「冒険家とか、芸術家とか、小説家とか……?」
それは漫画の世界観そのままだった。とにかく、自由で楽しそうな気がした。知らない世界に冒険に行く。ありふれた小さな世界しか知らない少年の、夢そのものだった。
しゃべりながら、マサキはカメラに目を止める。
「……写真家も、いいかもな」
ふとこぼれた言葉だった。祖父は趣味で水中カメラマンをしていた。古びたカメラと共に海の底に潜っていく祖父の姿を想像した。家には祖父の残した写真集があった。深く暗い海の底から、眩しい海面を見上げるような写真だった。
「うん、それはいいね」
「そうだろ。うん、俺、将来写真家になろうかな」
「役人にでもなってくれたら、安泰なんだけどね」
横から甘い匂いの黒い三角形がすっと置かれる。母親は昨日のだからサービスよ、と言って、すばらしいデザートをプレゼントすると、またすぐに厨房に戻っていった。
「やった、ブランカのチョコレートケーキだ」
母の差し入れに、マサキは手を叩く。
「チョコレート?」
「なんだよ、チョコレートも食べたことないのか?」
またもや目を丸くして、美しい闇のような艶めく黒を見つめるアラシに、マサキはにやりと笑う。
「今日は友達がいるから、母さんサービスいいな」
「ともだち……」
「うん」
何気なく頷いて、マサキはアラシが、「トモダチ」というものも知らないのだと、はたと気づいた。
「えっとな、友達っていうのは、一緒に遊んだり、一緒に勉強したり、一緒にごはんとか食べたりする……」
もたもたするマサキに、アラシは少し考えてから、
「一緒にいるのが、友達?」
マサキの言葉を集めて、そう結論したらしい。まぁそんな感じだ、と頷いてから、また、はっとする。
「……友達で、いいよな?」
「うん」
アラシのうれしそうな笑顔に、マサキは照れたように鼻の頭をかく。
「ねぇ、マサキ」
アラシはフォークを皿に置いた。
「僕のお願いを、聞いてくれないかな」
それは、唐突な言葉だった。
「お願い?」
「うん、君にしか頼めないんだ。友達の君にしか」
マサキはぱちくりと目を瞬かせる。アラシは真剣そのものの顔、しかしどこかいたずらっ子がわるだくみするみたいな影を落として、マサキを見つめる。
「君の一部を、僕にくれないか」
「え?」
マサキは食べかけのケーキを見下ろした。
「違うよ、ケーキじゃなくてね」
問いかけるよりも先に、アラシが身を乗り出した。声を潜め、耳元で囁くように唇を細める。
「君の夢がほしい」
「は?」
何を言われたのかわからなかったマサキは、目をぱちくりと瞬かせた。アラシは慎重に言葉を選んでいるようだったが、それは説明というよりも独り言に近いものだった。
「僕はなにも持たずにここまで上がってきてしまった。彼女を出し抜いてやったことだから、しょうがないけど。でも、空っぽのままだと、たぶん僕はすぐに消えてしまう」
「……なにを言ってるんだ?」
本気で何を言っているのかわからなかった。ますます首をかしげるマサキに、アラシはゆっくり頷いた。
「大丈夫、ちょっとコピーさせてもらうだけだからね。君の生活は何も変わらない。いつものように学校に行って、友達と遊んで、小さなことに悩んで、自然に大人になっていくんだ。この小さな田舎町で、退屈で理想的な生活を謳歌する」
「??」
「僕には、アンカーが必要なんだ」
少年は、テーブルの上に置いてあったカメラを、猫を撫でるみたいにいとおしげに指でなぞった。
「これは、……の、願いをのせて、底までたどり着いたから、流星のかわりに彼女の魔法が動いた。とても稀有な現象だ。僕は本当に幸運だった。彼女を介さずに ……に、なれた」
ところどころ聞こえなかった単語があって、マサキは眉間にしわを寄せる。
「なに……? なにに、なれたって……?」
アラシはずっと一人で話し続けている。
「君の夢と、名前と、傷をもらう。それだけあれば、かなり持つはずだ」
いつの間にか、祖父のカメラが、少年の白い手のひらに包まれている。
「そう、写真家、だったね」
「……アラシ?」
名前を呼んで、あれ、と思う。アラシって、誰だっけ?
襲ってきた眠気は、心地よい波打ち際のようなくすぐったさで、少年のまぶたをくすぐる。さざ波のようなメロディが、店内ラジオから流れてくる。いや、この声もラジオから流れてくるのか?
ぐにゃりと少年の顔が歪む。珈琲に落としたミルクのように、ぐるぐると渦を巻いて溶け合わさっていく。ナポリタンもチョコレートケーキもカメラも少年も。みんな一緒になって溶けていく。
その渦の向こう側から、少年が白い歯を見せて笑った。
少年はカメラをかまえた。
まっすぐに、少年の顔を捉える。
フラッシュがバシッと光った。
まぶたの裏側に、少年の影の形が焼きついた。
マサキは目を閉じた。
眠くて仕方がなかった。
たらふく食べたせいだろう。
なんとも心地よい眠気。
貝殻を耳にあてた時のノイズのような声が、直接耳の中に響いた。
「ありがとう。おかげで良い写真が撮れたよ」
「……ちょっと、ごはん食べながら寝ないでよ」
母の苦笑混じりの声に、少年は重いまぶたを持ち上げた。
「……あれ、アラシは?」
「うん? 嵐はもう過ぎたわよ。ほら、いいお天気」
カーテンをあげると、アーケードの天井からキラキラと明るい光が落ちていた。雨の音も風の音も聞こえない。
「いや、台風のことじゃなくて……」
そこまで口走って、はたと停止する。
「……誰のことだっけ?」
微睡みから覚めた時には、ナポリタンは皿から消えていた。テーブルに置かれた皿はふたつあった。
「あんた、二人分もよく食べたわねぇ」
食べ盛りの息子の食欲に、母親は苦笑する。
「俺が全部食べたんだっけ?」
「あんた以外に誰がいるのよ」
夢でも見てたの?
母親は笑いながら皿を片付けていく。ナポリタンの皿もサラダの皿もケーキの皿も二枚ずつあった。どの皿もきれいに完食されている。テーブルの上には、空っぽの白い皿以外、何もなかった。
「なんか、大事なものが、あった気がしたんだけどな……」
ふと、テーブルのすみに視線を向ける。なにもないそこが、なぜ気になるのか。そこに何かあった気がするのだが、やはり思い出せない。
少年はあくびに大口を開け、うーん、と、のびをする。
「なんか、良い夢だった気がするから、目覚めたのはちょっと残念だったかな……」
微睡みの終わりに、少年は眩しそうに目を細めた。
Mimic @248773
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