嵐の少年

 見つめ合ったのは、瞬き三回ぶんくらいのほんのわずかな時間だろう。しかしその瞬間は、写真に切り取られたみたいに静止していた。

 少年を現実に引き戻したのは、響き渡るサイレンだった。高波を警告するそれは、荒ぶる自然に力のない人間が悲鳴をあげているようだった。

「……おい!」

 少年は我に返って、浜に向かって声をあげた。

 嵐の海には絶対に近寄ってはいけないと、親に叩き込まれていた。なにしろ家が漁師である。海の怖さは誰よりもよく知っていた。今まさに、こうして危険な海に近づいている自分のことは棚にあげて、少年は舌打ちする。

 雨にのまれて声は届かないと判断した少年は、傘を放り投げて走り出していた。あんなところに呑気に立っていたら、いつ波にのまれてしまうかわからない。

 立ち入り禁止のロープを障害物競走のハードルみたいに飛び越え、波打ち際に走り込むと、波をかぶっている少年の腕を掴んだ。ぞっとするほど冷たかった。

「なにやってるんだ、危ないだろ。早く離れろよ!」

 少年は少年の顔を覗き込んだ。

 白い顔に黒い瞳。薄いシャツが肌に張り付いている。靴は履いていなかった。自分と同じくらいの背格好で、年もたぶん同じくらい。どうということもない特徴のない顔立ち。ただ、荒れ狂う嵐の海に平然と佇んでいるのは異常だった。

「おい、聞いているのか?!」

 口の中に海と雨の水が入り込んでくる。その苦味に少年はさらに顔をしかめる。

 しかし、彼は動くどころか、まじまじと少年の顔を見つめ返した。

「……君は、海の匂いが濃いね」

「はぁ?」

 突然の言葉に、少年は面食らう。

「……それ、おれが魚臭いって言ってるのか?」

 少年はそれどころではないというのに、反射的に噛みついていた。

 漁師の家や父親のことを、少年はひそかにコンプレックスにしていた。別にそれで何か嫌がらせを受けたとか、実害らしきものがあったわけではない。古くさい家も、魚のにおいが染み付いた父親も、ただなんとなくかっこよくない気がしたのだ。

 隣の家の父親なんて、なんだかえらい役人らしく、毎日ビシッとした黒いスーツに身を包み、ピカピカの革靴をカツカツ鳴らして、高級そうな車に乗って通勤している。

 対して、自分の父親はどうだろう。いつでも生臭い匂いを染み付かせて、汗と潮に濡れている。

「気にさわったなら、ごめん」

 声を荒げた少年に、睨まれた少年は困ったように眉毛を八の字に下げた。つい、かっとなって見ず知らずの相手に怒鳴ってしまったことに気づき、少年は自分をなだめるように首をふる。

「お前、どっからきたんだよ? こんなところでなにしてたんだ」

 それはばつの悪さを隠すための質問で、そもそもさっさと海から離れなければならなかったのだが、聞かれた相手は律儀に質問に答えるように、ゆっくりと、それを持ち上げた。

「これを、拾ったんだ」

 少年は、差し出されたものに目を見張った。

 それは黒い武骨な四角い箱。少年が嵐の中、ずっと探していたものだ。

「オレのカメラ!」

「やっぱり、君のだったんだね」

 少年はこくこくと頷く。

「もう、見つからないと思ってた……」

 呆然と呟いて、おそるおそるカメラに手をのばす。見たところ、壊れている様子もない。あの日少年が力任せに投げ捨てたままの姿だ。

 絶対に、見つからないと思っていた。海での落とし物など、いくら日本が財布を落としても中身が減ることなく持ち主に届けられるような国であったとしても、大自然はまるで容赦なく、様々なものを海底へとさらっていくのだから。

「こんな偶然あるんだな」

 思わず呟いた少年に、少年は楽しげに笑った。

「いいや、それは運命だよ」

「……うん?」

 やけに自信満々に言いきるものだから、少年は勢いにのまれて意味もわからず反射的に頷いていた。

「運命と偶然の違いは物語になるかどうか。きみのそれはまさに物語さ」

 どこぞの三文小説にでも乱用されていそうな、わざとらしいセリフだった。少年はカメラを抱えたまま、ポカンと目を瞬かせる。

「……えっと?」

 混乱する少年はその場に立ちすくんだが、しかしそこは嵐の海の真っ只中である。

 突然立ち上がった大波が襲いかかってきて、少年は悲鳴をあげた。

「!!」

 小柄な少年の背よりも高い波だった。下手をすれば、そのまま海へと押し流されてしまいそうな圧倒的な暴力だった。

 少年は身を固くし、足をできるだけ踏ん張った。それでどうなるわけもないのだが、恐怖に萎縮した身体は、重石にでもなったみたいに動かなかった。

 しかし、その次の瞬間。実に奇妙なことがおきた。

 波がグニャリと歪む。

 大波が、少年を、避けた。

「……え?」

 目の前の一瞬の異常に、少年の思考は追い付かない。何かを考えたり疑問に思うよりも早く、波は彼らの横を通りすぎていった。

「……大丈夫?」

 顔を覗き込まれて、少年は我に返る。自分がまだ二本の足でしっかりと浜に立っていることを確認して、少年は落ち着けと自分に言い聞かせる。きっと今のはなにかの見間違いだろう。

「……とにかく、さっさとここから離れるぞ」

「そうだね。君の忠告に従うことにするよ」

 奇妙に大人びた言葉遣いだったが、少年は素直に頷くと、手を引かれるままに埋もれた砂から足を引き抜く。しかし、砂に埋もれているせいか、小柄な少年からは想像できないような重さで、手を引く少年が一瞬のけぞるほどだった。

「……っ。い、急げよ、警報も鳴ってる」

「うん」

 次第に大きくなる警報に急かされて、砂浜からコンクリートで固められた防波堤にたどり着き、多少雨を遮ってくれる分厚い壁に背を預けて一息つくころには、二人はもうこれ以上ないほどずぶ濡れだった。

 少年はさっき走り出す前に捨てた傘を拾い、もうすでに濡れすぎてはいたが、一応、少年にさしかけてやった。

「ありがとう」

 少年は礼を言ってにこりと笑う。

 ため息とともに、落ち着いてまじまじと相手の顔を見る。小さな田舎町のこと、近所の子どもならみんな顔見知りのはずなのだが、この少年の顔には見覚えがない。

「それで、どこから来たんだ?」

「えっと……あっち?」

 彼が指さすのは嵐の海だった。少年は首をかしげる。

「向こうって、船で来たってことか? 今は台風で船便はみんな欠航のはずだけど」

「それはまぁ、なんとか、裏技みたいなやつで」

「は?」

 いまいち要領を得ない会話が長引いて、夏といえどもさすがに身体が冷えてきた。少年はとりあえず、移動することにした。

「……まぁ、カメラの恩人だし。ついてこいよ、タオルくらい貸してやる」

 少年はそのまま手を引いて、近所の商店街へと足を向ける。古びたアーケードに、切れかけたネオン。喫茶店があって、かすかに煙草の匂いがした。扉を潜ると、チリンチリン、と静かな店内に鈴が鳴り響く。

「いらっしゃいませ」

 出迎えたのはエプロン姿の女性で、ずぶ濡れの少年二人に目を丸くした。

「あら、どうしたの、びしょ濡れじゃない」

 女性は少年を見るなり、目を丸くした。彼女は少年の母で、この喫茶店で働いていた。見かけない顔の息子の連れに、母親は首をかしげる。

「あら、おともだち?」

「うん」

 さっき知り合ったばかりなので友達もなにもないのだが、説明するのがややこしく、少年は適当に頷いた。

「母さん、こいつにタオル貸してやって」

 家ではおかあさんと呼んでいるくせに、人前に出ると母さんとか少しかっこつけて呼ぶ年頃の息子に、母親は苦笑する。

「まさか、海で遊んでたんじゃないでしょうね」

「違うよ。風で傘を持っていかれちゃったんだよ」

 母の鋭い指摘にぎくりと肩を揺らしたが、なんとか取り繕って澄ました顔をする。疑いの視線を振り切るために、少年はわざとらしく連れに絡んだ。

「まぁ、座れよ。昼飯、おごってやるから……こいつの、お礼だ」

 最後の言葉は母親に聞かれないように、小声で囁く。少年はもう二度となくさないように、服の中に隠したカメラをぐっと抱きしめる。

 少年は窓際のソファの席に我が物顔で陣取ると、母親が持ってきたタオルを受け取る。

「はい、ちゃんと拭きなさいよ」

 少年はお化けのように頭から白いふかふかのタオルをかぶると、わしゃわしゃと頭を拭いた。サンダルを床に投げ捨て、砂がついた足でソファに座り込む。母親が汚れた床に顔をしかめているのは気づかないふりだ。母親が文句を言う間を与えないように、一心不乱にタオルで身体中を拭く。

 ふと、少年は自分の足のくるぶしに、小さなあざのようなものがあることに気づいた。浜で走った時にどこかにぶつけたのだろうか。痛みはないが、ほんのりとした熱を持っているような気がする。

「なんか、流星みたいだな……」

 何となく、そう呟いていた。浜で落雷を見たせいかもしれない。

 しかし、そのわずかな熱もすぐに馴染んで、少年の意識からもすっと消えていった。

「……なんだよ?」

 少年はふと視線を感じて顔を上げた。向かい側のソファに座った少年が、やけにニコニコとした笑顔で、自分を見ていることに気づいたのだ。

「ううん、なんでもないよ。ふふっ、うまくいったみたいだね」

「は?」

 先ほどから、微妙に会話が噛み合っていない気がする。しかし相手はなにか上機嫌で、ならばそう気にすることでもないのかもしれない。まぁいいかと、厨房から流れてくる美味しそうな匂いに鼻をひくつかせる。

「そういえば、まだ名前聞いてなかったな」

 ものめずらしそうに店内を見回している少年に顔を向けた。

「オレはマサキ。お前は?」

「僕? 僕は……そうだな……」

 自分の名前を名乗るのに、なぜか少年はほんの少し、悩むそぶりを見せた。そして、うん、と何かを決めたように頷く。

「僕は……アラシ」

 嵐の海で出会ったその少年は、その出会いにふさわしい名前だった。

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