流星
少年はカメラを海に捨てた。
カメラは少年ではなく、少年の父の持ち物だった。
年頃の少年と父親のありがちで、かつ、くだらない喧嘩の衝動として、少年はなんでもいいから父を困らせてやりたかった。
季節外れの台風が近づいていた。
少年の幼い体では抱えきれなかった感情が暴れ出した。喧嘩の勢いの波に乗って、嵐の気配のする浜辺に走った少年は、カメラを両手で掴んで、えいやっと、荒く波立つ海に向かって放り投げた。
幼い少年の心もとない腕力では、少年の思い描いたように高々と遠くに飛ぶこともなく、べちゃっという情けない音を立てて、それほど離れてもいない少年の足元近くにカメラは落ちた。
カメラは古びた一眼レフ、あちこち痛み、持ち主の手の形に馴染むまで使い込まれ、痕跡が刻み込まれていた。少年はこのカメラを父が本棚の奥に隠すように大切にしまっているのを知っていた。少年は父の宝物を盗んできたのだ。
ハァハァと荒い息をついて、無様に砂にめり込んだカメラを眺める。ざざん、と波がカメラに被った。
とたんに、少年の心に小さな後悔が泡立つ。しかし、いつもよりも強い波は力持ちで、海は、さあっと素早くカメラを奪っていった。歪な跡が残った砂も、すぐに次の波に飲み込まれる。
波しぶきを顔にかぶった少年は、滴る水を手のひらでぐいっとぬぐった。しかし、水はあとからあとから顔を濡らす。顔中べしょべしょになって、ついでに鼻水とか余計なものも垂らしながら、少年は、放心したように海の向こうを眺めた。
黒灰色の重苦しい空もとぐろを巻く海の波も、少年の心うちをそのまま映したかのようだった。
それが、数日前のことだ。
少年は捨てたカメラが祖父の形見であったことを後から知って、青ざめることになった。漁師でもあったが、若い頃に水中カメラマンをしていた祖父から、海の写真を見せてもらったことを思い出したのだ。
すぐに少年の悪行はばれて、母親にはしこたま怒られたが、しかし肝心の父親は怒らなかった。ただ、とても悲しそうに、そうか、と呟いただけだった。
季節外れの台風は迷走しているらしく、ぐるぐると同じところで足踏みして、一向に通りすぎない。
少年の家は代々続く漁師で、台風のおかげで海に出ることができず、父親はずっと家にいる。少年は少年で夏休み中で学校はないし、友達とも遊べない。気まずいことこの上ないのだ。
少年は見つかるわけないと思いつつ、それから毎日、海を眺めていた。雨がビニール傘に当たって、バチバチと激しい音を立てている。傘の半ドームの中で反響するその音に溺れながら、少年は黒い何かが波打ち際に見えないか、ひたすらに目をこらしていた。
嵐は強くなり、遠くで落雷も聞こえる。海は危険だから近づいてはいけないと、母親に厳重に言い渡されていた少年は、さすがにそろそろ帰ろうと、海に背を向けた。
その時だ。
身を震わせるような衝撃が、少年を襲った。
空から落ちてきたまぶしい光の一筋。少年の目の前の海に、一直線に突き刺さる。
まるで流星が落ちたみたいだった。
反射的に目を閉じた少年は、光が消えてから、おそるおそるまぶたを持ち上げる。そして開けた視線の先に、何か黒いものがあるのを見つけて、ひゅっと喉をならした。
その黒い影は、ひとの形をしていた。
目が合った、と、少年は思った。
それなりに距離はあったはずなのに、血管が透けて浮かび上がるなめらかな肌も、細い顎の形に沿って流れる柔らかな髪も、睫毛から落ちる水滴のひとしずくも、三日月に歪んだ薄い唇も、はっきり見えた。
それは、少年の形をしていた。
瞳は空と海と同じように、嵐の色だった。
波打ち際に佇むその少年は、まるで今まさに、深い海の底から這い上がってきたかのように、全身くまなくずぶ濡れだった。
立ちすくむ少年は、人間にもわずかに残った獣の本能のようなもので、恐ろしい、と感じていた。けれど、目を離すことはできない。魅了されたように動けない。
波打ち際の少年の唇が、動いた。
激しい雨と波で聞こえるはずはないのに、その声は、嵐に乗って少年に届いた。
気が抜けるほど、能天気な声だった。
「……やぁ、いい海だね」
それは、まるで運命の人についに出会ったとでも言いたげな、晴れやかな笑顔だった。
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