博士A
海色の瞳を持つその女性は、喫茶店のソファに深く腰かけて、視線をゆったりと窓の外に向けていた。
飴色の木の窓枠にはまった磨りガラスが、虹色に揺れる。今日は商店街で毎年行われる七夕の夏祭りだ。屋台が並び、いつもの静かな商店街も熱気に包まれている。しかしそのお祭り騒ぎも、クーラーのきいた涼しい喫茶店の中から見ると、写真に映った光景のように、少しだけ遠い。
女性は明るい胡桃色の髪をふわりとまとめ、高級ブランドの白いシャツブラウスと濃紺のスカートを嫌みにならずさりげなく着こなして、くつろいだ様子で喫茶店の窓際、角の席に座っていた。高い鼻の頭に乗っかった細い銀のフレームの眼鏡、その奥の瞳は、よく晴れた海の色だった。
海辺の田舎町の、商店街の中央あたりにこの古びた喫茶店はあった。古びた、と言っても、この商店街に新しい店などひとつもない。最近できた大型スーパーに存在を脅かされつつも、しぶとく生き残っている地元店だ。
染みだらけの壁紙に、すみっこが破れた皮のソファ。手書きのメニュー表には、素朴な料理の名前が並んでいる。白いプラスチックの鉢に名前のわからない観葉植物が青々と大きな葉を繁らせて、BGMは何代も前の世代の歌謡曲。赤っぽい電灯で照らされているせいか、店内は朝でも昼でもいつでも、夕暮れのようだった。
海色の瞳。はっきりと日本人ではないとわかる顔立ちの女性は、しかし、この実に日本くさい枯れた商店街の空気に、なぜか違和感なく収まっていた。
「……あら、もしかして、アリスちゃん?」
女性は目を瞬かせた。懐かしい呼ばれかただった。自分をそう呼ぶ人は、もうそう多くない。たいていはアームストロング博士か、ただの博士、だ。
博士は目の前の光景と、記憶の中の光景を、重なった二枚の写真のように透かして見ていた。
十年以上ぶりに訪れた場所。少女時代を過ごした夏の街。そこは何もかもが少女の記憶のままだった。
注文を取りに来た中年の女性は、かつての常連客の顔をちゃんと覚えていたようだ。
「はい。お久しぶりです」
博士は淡くはにかむように頷いた。
エプロン姿のおばさんは、嬉しそうにふくよかな頬を緩ませた。そのほっとする笑いかたも記憶のままだった。いや、よく見れば、なかった皺や白髪が増えている気はする。間違い探しのように、ほんのわずかな違いを見つけて、ようやく過ぎた年月を実感する。
「もう十年ぶりくらいになるの? いやだわ、私も年を取るはずよねぇ」
きゃっきゃっと声を弾ませるおばさんは、子どもが里帰りしたときの反応を博士に向けている。
「今日は里帰り? おじいちゃんはお元気?」
「ええ、今日はちょっと仕事のついでに、近くに来たので。ちょうど七夕だったので、のぞいてみようかと思って……」
「そうなの、そうなの。でも、昔に比べて人も減っちゃったでしょう? 寂しくなっちゃったわよねぇ」
祖父の研究のために、この海辺の田舎町に夏の間滞在するのが毎年の恒例だった博士にとって、ここは懐かしく親しい場所だった。大人になって夏休みに遊びに来ることがなくなっても、こうしていつもの席に座ってみれば、古い記憶と同じように、博士をすんなりと迎えてくれた。
商店街の夏祭りは、夏のバカンスに異国から訪れる少女にとって、なんともエキゾチックで楽しみなイベントだった。極彩色のすだれ飾りやにおいたつ屋台、浴衣姿でかき氷を片手に通りすぎていく人々を眺めて、博士はうらやましそうに目を細める。
「……そうですね。でも、ここから見える景色は変わりません」
博士は壁に貼られていた手書きのメニューに、懐かしげな視線を向ける。
「この七夕特別メニューも」
「そうそう、毎年これなのよね。いつも代わり映えしなくてごめんなさいね」
七夕限定セット。サンドウィッチセット、ケーキセット、フルーツジュースセット。(ナポリタンとカレーはできます)
夏祭りのこの日は、いつもの通常メニューはお休みだった。そのかわり、商店街の店をよせ集めてできているような特別メニューになる。右隣のパン屋のサンドイッチ、向かいのケーキ屋のケーキ、左隣の八百屋のフルーツジュース。夏祭りを楽しみたい厨房スタッフが休むためのメニューだというのが、もっぱらの噂だ。
しかし、ケーキの部分だけ、斜線が引かれていた。
「……ケーキはもう売り切れですか?」
「ああ、そうなの。ブランカさん、今日はお休みなんですって。残念ねぇ。アリスちゃん、あそこのチョコレートケーキ、好きだったものね」
「残念ですけど、またの機会にしますね」
おばさんはそこまで話してやっと、自分の給仕の仕事を思い出したようだ。
「あっ、そうそう、注文は……いつもので、いい?」
もう十年近く来ていなかったのに、おばさんはかつての常連の注文を覚えていた。博士は笑って頷いた。
「はい。いつもので」
外に人は多いが、客のほとんどが屋台に行くので、店内はさほど混んでいない。注文してまもなく、料理はすぐに運ばれてきた。
「はい、おまちどうさま」
どん、とおばさんは白い皿をテーブルに置く。ナポリタンとアイスコーヒー。いつも彼女が注文するのはそれだった。すぐ隣がパン屋なので、ナポリタンの皿に小さなロールパンがひとつ、ついていた。たっぷりの粉チーズに、パセリではなく青のり。甘いケチャップにウインナー多め。おしゃれさよりも満腹を優先するボリューム。はらぺこの学生に人気のメニューだ。
博士は皿やフォークまで変わらない好物メニューに笑みを深くする。かすかな海のにおいが、ナポリタンのケチャップのにおいと混じって、食欲を刺激した。
「お仕事、忙しいの?」
「ええ、まぁ。なので、こうしてたまに息抜きしたくなって」
「そうなの。アリスちゃんも、もう大人だものねぇ」
少女のころを知るおばさんは、しみじみと呟いた。
「そういえば、よく彼氏と来てたわね。あの時の彼はどうしたの?」
おばさんの指摘に、博士はわずかに息を詰める。
そうだ。あのころ博士がこの席に座るとき、向かい側の席には人がいた。
「よく、この席で待ち合わせをして、デートに出掛けてたわよねぇ」
よく覚えているものだと、博士はおばさんの記憶力に感心した。自分でも忘れかけていたくらいなのに。
そして同時に、誰もいないはずの向かい側のソファに、残像のように古びたカメラが見えた気がして、博士はその幻想を振り払うように唇を歪めた。
博士が無言なのを見て、おばさんはなんとなく察したようだった。
「……そうね。あれからもう十年も過ぎているのだものね。二人とも、大人になっちゃったのね」
おばさんはどこか寂しげに、しみじみと呟く。
さめないうちに、どうぞ。おばさんは、ナポリタンを残して、入ってきた新しい客にあわただしく走っていった。
博士はおばさんを見送ってから、フォークではなく、テーブルに置かれた一冊の本に手をのばした。
ナポリタンの隣にポツンと置かれた黒い擦りきれた表紙の手帳。針金のような文字のタイトル。
彼女が少女であった頃、不思議な男から譲られたこれに、博士の運命と偶然は捕まれていた。
博士は本を開いた。
黒い鉛筆を取り出して、さらさらとなにかを書き付ける。短い一文、メモのようなそれを満足げに眺めて、博士は改めてフォークを手に取る。
コーヒーのグラスから落ちた水滴が、ナプキンに滲む。ナポリタンは油っぽくて、ケチャップはこびりつくように甘かった。ああ、あのころのあの味だ。博士はうっすらと微笑む。
夏祭りはこれからだ。
博士は満足げにナポリタンを平らげた。
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