少女A

 ガラス張りの広い天井から落ちた白い光が、ピカピカの鏡のような壁や床に反射して、部屋全体がまぶしい光に満ちていた。しんと静かな展示室の中央、巨大な鯨の骨格標本が、銀のワイヤーに支えられて空を優雅に泳いでいる。光は空から骨の間を通って床に落ちて、木漏れ日のような不思議な斑模様を床に描いていた。静けさも光のきらめきも、祈りを捧げる神殿のような、誰もが息を静めて自然と背筋をのばす厳かな空気に満ちていた。

 そのゆらゆらとゆらめくやわらかな光影を浴びて、ポツンとひとり佇む人物がいた。夏休みの直前の今日、田舎の寂れた水族館の平日ということもあってほとんど人はいない。その男は片足を引きずるように少し斜めに傾いた姿勢で、白鯨を見上げていた。

 これといって特徴がないのが特徴のような男だった。黒ぶちメガネをかけていて、よれよれの白いシャツもずり落ちそうなジーンズも、裸足の安物のサンダルも、首から下げた重そうなカメラも、特に汚いというわけでもないがくたびれていて、その男の雰囲気ごと何もかもが古くさくやぼったい。

 少しだけ持ち上げた左腕。骨のような細くゴツゴツした指先で、もうそれ以上はどうやっても吸えないほどに短くなったくしゃくしゃの煙草をつまんでいた。

「ここは禁煙ですよ」

 男は後ろからかけられた少女の声に反応して、一拍の時差を置いてから、ゆるゆると視線をずらした。その黒々とした瞳は、嵐の海のように深く濁っていた。

 男に声をかけた少女は、高校生くらいだろうか、しなやかにのびた長い手足の、整った顔立ちの少女だった。夏の学生服のパリッとした白いシャツは襟も凛と立っていて、皺ひとつない。よく晴れた海のようにいきいきと輝く瞳も、すっと引き結ばれた色づく唇も、淡い色の艶やかな髪も、どこか日本人離れしている。

「……これは失礼。でも、火はついていないよ」

 男はかすれた声で答えた。しかし、答えは返したが、男の視線はほんのわずか、小指の爪の先ほど少女の顔からずれているような違和感があった。

「それに、たとえ燃えてしまったとしても、もう骨だからね。さほど困らないよ」

「……そうですか。でも、決まりだから」

 少女は困ったように目を細めた。男の回答は、どこかずれている。斜めの視線も片足を引きずるような姿勢もそのまなざしも、男のまわりの空気すら、少女との間になにか薄い幕が隔てているようだった。

「鯨が好きなんですか?」

 少女は男の隣に並んだ。物怖じしない性格なのか、やはり煙草が気になるのか、少女は親子ほども年の離れた奇妙な雰囲気の男に、また話しかけていた。

 男も嫌がっている様子はない。ただ、ふいに野良猫がふらりとすり寄ってきたくらいの遠くもなく近くもない距離感で、少女の存在を受け入れていた。

「自分の墓を眺めるなんて、奇妙だと思ってね」

「墓、ですか?」

 少女は首を傾げた。男はくすりと笑うと、それ以上はそれに触れずに、

「ところで、君はこの水族館によく来るのかい?」

 少女は素直に頷いた。

「祖父が海洋学者なので。祖父の研究の関係で、夏の間はこの街で過ごしています」

 そうか、と男は納得したように呟いた。

「どうりで君からは海の匂いがするはずだ」

 そこではじめて、男は少女を見た。今までは確かに見ていてたのに正しくとらえていなかった視線が、一瞬だけかちりと合う。錆びてどうしても回らなかった鍵が、なんの気まぐれか動いた瞬間のように。

「ここは居心地が良くていいね。被写体も多いし」

 男は煙草をつまんだまま、右手でカメラを撫でる。

「……写真撮影も禁止です」

 少女の抜け目ない指摘に、男はさらに笑う。

「厳しいね」

「決まりですから」

 男は肩をすくめると、カメラから手を離す。

「これでも水中カメラマンでね」

 男は少女から鯨へと視線を動かした。少女も男の後を追って、この部屋の主を見上げる。

「でも、これはもう骨ですよ。もう、海に戻って泳ぐこともない」

 少女の冷たいような言葉にも、男はひょうひょうと、またどこかずれた返事を返した。

「そうだね。だから墓なんだ」

 男はそこで、唐突に話題を変えた。

「知ってるかい。人間の約八割は水分でできてる」

「ほとんど海水と同じ成分なのだと、祖父から聞いたことがあります」

 少女は賢く頷いた。男はだからね、と薄く笑う。

「人はね、生まれながらに自分の中に海を持っているんだ。人という入れ物の中は、海で満たされているということさ」

「……人の中の海」

 少女は神妙に口の中で言葉を反芻した。

「知ってるかい? 深海には女王がいてね」

 男の話はまたゆらゆらとゆらぐ。

 気まぐれな波のような会話を、しかし少女は不思議がりつつも終わらせようとはしなかった。波打ち際に素足を浸してそのくすぐったさに遊ぶように、男の呟きに耳を傾けている。

「海の女王?」

「そうさ、なんでも願いを叶えてくれる」

「ああ、人魚姫ですか。海の魔女が、声を引き換えに願いを叶えてくれる」

 誰でも知っている有名な物語を連想した少女に、男はしかし首を横にふった。

「彼女をモデルにした物語は、世界中のいたるところにあるよ。なにせ、彼女は海と同義語だもの。恐ろしくて、気まぐれで、慈愛に満ちて、とても尊いものだ。そしてたくさんの物語になった」

 男は、少女の好奇心に輝く瞳を見ると、

「君は、そうだな。さしずめ、不思議の国に迷い込んだ退屈に飽きた女の子かな」

 ウサギを追いかけて穴に落ちて夢の中を冒険する。

「ところで僕はね、偶然というものをとても大切にしているんだ。つまりそれは運命ってやつだからね」

「……運命と偶然の違いがわかりません」

 少女の言葉に男はなぜか嬉しそうに笑う。

「それは物語か現実かの違いかな。僕はね、実は小説家なんだけど」

「写真家ではなくて?」

 先ほどカメラマンと名乗ったはずの男に、少女は不思議そうな顔を向ける。

「写真家兼冒険家兼小説家かな」

「……多才なんですね」

 長い肩書きに少女が眉をひそめる。

 さて、と、男は煙草を掴む手とは逆の手で、ポケットからなにやら引きずり出した。

「偶然と運命に従って。これを君にあげたいんだけど、どうかな」

「これは?」

 それは、一冊の本だった。擦りきれて角がとれてボロ本だと言われてもおかしくない風体。

「灯台かな」

 男はまたわけがわからないことを言う。

「……ただの本に見えますけど」

「そうだね、まぁ、灯台の役目を果たす、ということかな。灯台は海に道を作るものだから」

 男は少女の困惑にかまわずにマイペースに続ける。

「暗く果てなく絶望に満ちたこの広い世界に、ひとすじの道を照らすんだ」

 ふふ、と男は楽しげに笑った。

「はぁ……」

 物怖じしない少女もさすがに面食らったのか、本を見下ろして困ったように立ち竦んでいる。それこそ、突然不思議の世界に迷い込んだ少女のように。

 その時、閉館を告げるメロディが流れた。少女は本を抱えたまま、首を傾げた。

「あら、いつもより早いのね……水槽のメンテナンスでもあるのかしら……」

「これからいろいろと騒がしくなるからね」

 男はなにやら知ってる風に頷くと、それじゃ、と、少女に背を向けた。少女はその背中に追いすがるように声をかけた。

「ねぇ、あなたの名前は?」

「トリトン」

 少女は口のなかでその名前を呟いた。男は振り返らずに、ひょい、と片手を上げて手を振った。指にはくしゃくしゃの煙草が摘ままれたままだった。

「さよなら、アリス。よい冒険を」

 役者じみた台詞と共に、男は去った。少女は呟く。

「……さようなら、トリトン」

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