〈間話〉陸に上がった鯨の話
「ひどい写真」
少女は一枚の写真を眺めて、ひっそりとため息をこぼした。
水に濡れてインクが滲んだように、ぼやけた写真だった。
写っているのは少女のような魚のような何者かで、まぶしい光の乱反射と波の弾ける飛沫によって、表情どころか顔形さえもよくわからない。ただなんとなく、微笑んでいるような気配だけが伝わってきた。
奇跡の一枚、などと、大袈裟な謳い文句が写真をごてごてと飾り立てていたが、彼女にとっては不釣り合いな装飾だった。
これは、そんなに大層なものじゃない。子どもが撮ったみたいな、へたくそな失敗作だ。
その日は、写真展の最終日だった。もう閉館間際で少女の他には誰もおらず、もともと無人に近い美術館なので、人の気配はなかった。音声ガイドの現実離れして整った声が、無機質にループする。
「……もうちょっと、うまく撮ってくれたら良かったのに」
不満げに呟く声も、つるつるの白い床に滑ってどこかに転がっていく。
でも、これは最初で最後の一枚だった。彼女にとっては思い出深く、どんなに下手な写真でも、彼が自分を写したというだけで、魔法使いの呪文のように特別なものになる。
少女は鞄から一冊の薄い本を取り出した。
黒い表紙のそっけない装丁のそれは、本というよりは手帳のようで、どうやら誰かの日記だった。それも角が丸くなるくらい時が経った古い日記だ。
細やかで少し歪んだ、落書きに近いような気ままな文字が、白いページを軽やかに飛び交っていた。日によって気分が変わるのか、紙が黒く見えるくらいびっしりと書き込まれたページもあれば、ただの一行が水平線のように紙を横切るだけのページもあった。
パラリ、パラリ。
本の最後の方にしおりが挟まっていて、少女はそれを目印にページをめくっているようだった。
それは過去の一日一日を思い出す、神事の前の決まりごとのような、どこか厳かな作業だった。
やがてその日にたどり着くと、少女はしおりをすっと抜き出した。
しおりになっていたのは、一枚の写真だった。
手のひらサイズの薄っぺらい一枚。滲んだ黒いインクがこもれびのように斑模様を描いている。
それは、大きく引き伸ばされる前の、人魚の肖像だった。
とある写真家が残した謎。彼女にとっては懐かしい記念写真だ。
日記はその挟まれた写真の後ろから全て白紙だった。そのページは、この日記の持ち主が最後に記した日であるようだ。
そこに書かれた文章は、日記のようで、なにかの物語のようでもあった。
少女はさらりと視線で文字を流して見ると、くすりと苦笑をこぼす。
「へたな物語ね。写真はともかく、小説家の才能はなかったみたいね?」
作家志望だったはずの彼が書いたものだが、できの悪い詩のような、物語ともつかない文章に、少女は鼻をならす。その嫌みのような独り言にも、どこか懐かしさが滲んでいた。
少女は写真を抜き取ったまま、本を閉じた。
もう、その日がどこに存在したのか、目印をなくしてしまった今、わからなくなってしまった。
しかし少女はどこか吹っ切れたような清々しい顔で、閉じた本の表紙を撫でる。楽園、という簡潔なタイトルのその日記は、彼の残した最後の物語だ。
「さて、そろそろ全員が役についたころね。それでは計画を始めましょう。彼の描いた物語、トリトンの企みを」
少女の呟きの意味を知るのは、少女以外にはいない。開幕の宣言は、彼女以外の耳に届くことはない。
そうして閉館を告げるアナウンスが流れる頃には、少女の姿は波に弾ける泡のように消えていた。
そのクジラとの出会いは
僕が14のときだった
クジラは空を泳いでいた
ゆっくり
ゆっくりと
日が昇り沈むように
水平線の向こうから跳躍を開始して
僕の頭を通り越して
街も川も山も通り越して
地平線の向こう側へと落ちていく
僕の頭を通りすぎるとき
その腹の分厚い皮膚にびっしりと付着した貝や海藻
細かな傷なんかもはっきりと見えた
潮をふくと虹になって
そのアーチをクジラがくぐる
僕はその長い長い跳躍を
ただひたすらに立ち尽くして見ていた
クジラは僕の頭よりも大きな黒い瞳で
ここではない遠くを見ていた
地上の僕には
宙を泳ぐ彼の見る世界も
その先にあるものも見えない
僕は首が痛くなるほど頭をそらして跳躍を追った
1日かけて大陸を飛び越えた彼は
雲の波の中にゆっくりと沈んでいく
僕はその姿が消えてしまってからも
雲を叩くあの力強い尾びれに
目を奪われ続けていた
僕の心もクジラと一緒に地平線の向こう側へと
旅立ってしまったのかもしれない
ああ写真を撮っておけばよかった
そうすればたとえそれがただの陰影でも
忘れることはないだろうから
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