スバルとミツキ

 白いワンピースに麦わら帽子をかぶった、千鳥よりも少しだけ年上の少女。やぼったい青いリボンの麦わら帽子が、少女の顔に濃い影を落としていた。

 観測会は中止になってしまって、それから一度も会っていない。学校で見かけることもなく、幻だったのかと存在すらも怪しんだ。

 しかし、嵐の記憶の中に取り残されていた彼女は、夏の最中の海辺のアパートで、ふいに千鳥の目の前に浮かび上がった。

 買い物帰りなのか、白いビニール袋を手に下げている。中にアイスでも入っているのか、ビニールには水滴がたくさんついていた。

「きぐうね、こんなところで会うなんて」

 スバルは千鳥ににこりと笑いかける。そして流れるような優雅な手つきで、千鳥の手を取った。ひやりと冷たい指先だった。

「うち、このアパートなの。暑かったでしょう? よかったらお茶でも飲んでいって」

「え、でも」

 千鳥は困惑する。けれど、スバルは強引でないのに振りほどくこともできない力で千鳥の手をひき、アパートの階段を上がり始める。名前の知らない白い花の間を通りすぎて、気づくと、千鳥は錆びた扉の前に立っていた。

 二階の真ん中、表札は出ていない。

 銀色の鍵をワンピースのポケットから取り出すスバルの隣で、千鳥は、あれ、と首を傾げた。

 この部屋は、かつて訪れたことがあるのではなかったか。

 部活の友人の、幼い弟が待っている小さな部屋。

 隣だったかも、とすぐに思い直すも、違和感は消えなかった。

 あまり記憶力には自信がない。たまたま同じ学校の生徒同士が隣に住んでいたとして、それはあり得る話だし、おかしなところなどない。

 けれどもそれは偶然というよりも、しかけられた何かのようで、ほんの少しだけなにかがずれているような、そんな軋みがあった。

 ガチャ、と金属の音がしてドアは開く。鍵には赤い魚のストラップが揺れていた。

「どうぞ、古い家でごめんなさいね」

 スバルはサンダルを脱いだ。少女の素足のくるぶしがやけに白くうつる。

 たったの一度、嵐の夜にほんのわずかの時間を過ごしただけの、なにも知らない少女の家。なぜ家に招かれることになったのかもよくわからないのに、しかし不思議と帰る気にはなれなかった。

 千鳥は、おそるおそる、おじゃまします、と呟いた。靴を脱いで、そっとつま先から足を落とす。壁の時計がちょうど三回鳴った。その部屋はただ静かに千鳥を迎え入れた。かけっぱなしなのか、ラジオのひび割れた音が流れてくる。

 散らかっていてごめんなさい、と少女は言ったが、部屋は清潔に整えられていた。

 同じアパートだから当然なのだろうが、一瞬彼らの家を訪れたような錯覚に陥る。

 他人の部屋の詳細まで覚えているわけではない。けれど、ドアを潜ったときの雰囲気というか、部屋全体にしみついたにおいが同じだった。

 間取りは同じアパートなのだから当然としても、ささくれだった畳のにおい、壁のしみ、ラジオから流れるかすれた音、壁の時計の少しずれた針、波模様のガラス窓とはためく白いカーテンと、窓枠に並べられた白い貝殻。その空間を構成する要素のすべてが酷似していた。

 それは既視感。

 部屋の中央にちゃぶ台があって、煙草の灰皿と古びた黒いカメラが置いてあった。カメラの下に本が一冊下敷きになっている。

 どうぞ、とスバルはちゃぶ台を指さした。千鳥は平べったい座布団にそっと座る。

 千鳥が座った直後、ちゃぶ台の下でゴソッと物音がした。もとから緊張していた千鳥は、小さな物音に敏感に驚いて、座布団から飛び上がった。

「ひゃっ?」

 にゃあ

 可愛らしい声に、千鳥はちゃぶ台の下をのぞきんだ。奥に、なにやらふわふわした、まるい物体が転がっている。

 一匹の子猫が、じっと丸まって千鳥を見ていた。

 らんらんと輝く金の瞳。

 ふんふん、としきりに鼻をひくつかせて、侵入者に警戒と、子猫らしい興味津々の視線を向けている。

 ほっと息をついた千鳥は、家主にあいさつする。

「こんにちは、おじゃましますね」

 子猫はあいさつに応じるように、ふんと、ひげをそよがせた。

 それから、たっ、とちゃぶ台の下から飛び出すと、部屋のすみに置いてあった金魚鉢に突進する。

 床に直接置かれた金魚鉢は、縁が波のようなひだになっていて、ビー玉が底に敷かれていた。色とりどりのビー玉にゆらめいて、水が虹色に輝いて見えた。

 赤い小さな金魚が一匹、その虹色の水の中を、ゆらゆらと泳いでいた。特別な観賞魚などではなく、お祭りの屋台の金魚すくいで使われるような、ありふれた金魚だった。

 子猫はしっぽをパタパタと床に打ち付けて、あきらかに金魚を狙っている。遊びたい盛りなのだろう。

「猫、嫌いだった?」

「いえ、大丈夫です」

 それならよかった、とスバルは子猫の愛らしい後ろ姿を目を細めて見つめる。

「あ、あの。これ、良ければどうぞ」

 千鳥はさっき店でサービスとしてもらったゼリーの箱を差し出した。突然の招待だったが、手土産はちょうどよくあった。それすらもなにか都合がよすぎた気もするが、スバルは嬉しそうに笑っていた。

「まぁ、ありがとう」

 白い箱の中には、海色のゼリーがちょうどふたつ入っていた。

「これ、ブランカね」

 サービス品だからか、箱には包装紙も賞味期限のシールも貼っていなかった。つまり、店名を特定できるようなものはなにもなかったはずなのに、スバルは正確に店の名前を言い当てる。

「私もあそこのお菓子、好きよ。これもよく父が買ってくるの」

 飲み物を持ってくるね、とスバルが台所へ消える。

 ひとり残された千鳥だが、子猫は金魚に夢中で構ってくれそうにもなかったので、千鳥は手持ちぶさたに視線をさ迷わせる。

 すると、ちゃぶ台のすみに置かれたままの古びたカメラが目に入った。本が一冊、重そうなカメラに下敷きにされている。そっけない黒い厚紙の表紙の本だったが、なぜか視線を吸い寄せられた。

 千鳥は台所に視線を向けたが、スバルがすぐに戻ってくる様子はない。少しだけ迷ったあと、手をのばして、カメラの下から本をするりと抜き取った。

 ざらつく表紙にタイトルや著者名などはなかった。

 表紙をめくりかけた直後、

「それは父が撮影したものよ。写真が趣味でね」

 後ろ頭から声がふってきて、千鳥は、ぱっと本から手を離し反射的に謝った。

「ご、ごめんなさい!」

「いいのよ、好きに見て」

 スバルは微笑みながら、ガラスのグラスがふたつ乗ったおぼんを抱えて、千鳥の後ろに立っていた。

 サイダーでよかったかしらと、炭酸の泡の浮いた冷えたグラスを置く。

 千鳥は勝手にひとのものを見ようとしたばつの悪さに首をすくめつつも、本への興味を失うことができなかった。

 許可をもらったという後押しに、千鳥はおずおずとページをめくった。

 そして、目に飛び込んできた虹色の半透明のそれに、息を飲む。

「……クラゲですか」

 また、既視感。

 それは水と酷似したいきもの。

 この部屋とそっくりの部屋の住人が大切そうに集めていたものも、このいきものだった。

 スバルの言葉の通り、その本は手作りの写真集のようだった。写真集というよりはアルバムのようで、撮影した写真を直接ページに貼り付けていた。厚さは指の第一関節ほど。それなりにページはあったが、めくってもめくっても、現れるのは半透明の軟体生物だ。色も形もさまざまなそれらは、海の中を踊るように自由に泳いでいた。

 ページをめくるごとに、やはりどこかで見たことがあるという感覚が増していく。

 写真には、メモのような手書きのコメントが添えてあった。撮影日や撮影場所、それからクラゲの名前。あまりうまいとは言えない殴り書きのような文字だ。

 千鳥はそのひんまがった文字に首を傾げた。 

 この文字、どこかでみたことがあるような……

 しかし千鳥が思い出す前に、スバルの言葉に思考は途切れる。

「ダイオウクラゲね。体長が10メートルにも及ぶ巨大クラゲで、深海にいるからほとんど目撃例もないの」

 千鳥が興味があると思ったのか、スバルが写真に添えられた文字に指を這わせた。

 最後のページは、見開きにしてひきのばされた、一匹の大きな大きなクラゲの写真だった。

 しかし、優雅なヒレをなびかせるその美しい佇まいは優雅な貴婦人を思わせて、ダイオウというよりも女王さまといった方がぴったりだった。

 千鳥は思わず呟いた。

「みなみちゃんみたい……」

「みなみちゃん?」

 千鳥の呟きを拾ったスバルが首をかしげて、千鳥はあわてて説明する。

「えっと、私、たまに水族館でバイトをするんですけど、そこのマスコットキャラがそんな感じで」

 頭に思い浮かんだのは、能天気な笑顔が脱力感を誘う、クラゲのお姫さま。

「そうなの」

「かわいいんですよ。ちょっと派手だけど……」

 千鳥はスタッフシャツの鮮やかすぎるピンクに苦笑を浮かべる。今はもう慣れたが、最初は着るのに勇気が必要だった。

「なんていう種類なのかしら」

「さぁ。創作なのかもしれないですけど」

 なにしろ、変わり者の館長の手によるデザインだ。

 こんど見てみたいわね、と笑うスバルに千鳥も笑い返す。まるでずっと昔から友達だったみたいななごやかな空気だった。部屋のすみでは子猫がころころ転がっている。カーテンの向こうから、海の匂いを含んだ風が入り込んでくる。この部屋に染み付いているのは、煙草と海の匂いだと千鳥は気づいた。

「溶けちゃう前にいただきましょう」

 スバルに促されて、二人でゼリーをつつく。

 プルプルとふるえる海の色。

「クラゲみたいね」

「そうですね」

 クスクスとふたりで笑い合う。サイダーを口に含むと、シュワシュワと喉で泡が弾ける。ゼリーを食べつつ飲むサイダーは、海の味がするようだった。

 ゼリーを食べながら眺めるクラゲは、ついおいしそうに見えてくる。

「本当にたくさんいるんですね」

「そうね。確か三千種はいるんじゃないかしら。世界中の海にすんでいるもの。浅い海にも深い海にも、暖かい海にも冷たい海にも、遠い海にも近い海にも、どこにだっているのよ」

 スバルは本を閉じながら、ふと呟いた。

「クラゲっていろんな漢字を当てるんだけど。海の月って書くのが一番好きなの」

 そういえば、解説魔の部長がそんなうんちくを話していたのを千鳥は思い出した。海月、水母、水月、鏡虫。呼び方も当てる漢字もいくつもある。

「月が好きなんですか?」

 千鳥の何気ない問いに、一瞬だけスバルの笑顔が固まった気がした。ラジオのメロディが途切れる。時計の針が止まる。炭酸の泡が消える。機構がずれて、歯車が噛み合わなくなったような、一瞬の軋み。

 千鳥はこの部屋に入った瞬間に感じた違和感を思い出した。

「なぁに?」

 首をかしげるスバルは、さっきと変わらない笑みを浮かべている。だがその一瞬は、何かが、どこかが、わずかにこわばっていた。

 ちゃぷん、と金魚鉢から水がこぼれた。

「みつき、こら」

 金魚鉢に手を突っ込んで傾けた子猫に、スバルは顔をしかめた。

「……あの子の名前、みつき、っていうんですか」

「そうよ」

 みつき、どこかで聞いたことのある名前だ。どこだったか、思い出せない。

 千鳥も子猫に顔を向ける。能天気に転がる姿はかわいらしいし、心をなごませるもののはずなのに。

「……かわいいですね」

「いたずらばっかりよ」

 千鳥は軋みを抱えたまま、子猫を見つめる。スバルは肩をすくめた。

「弟が夏祭りで金魚すくいをしてきたの。うちには猫がいるからダメだっていってるのにね」

「弟さんがいるんですか」

「ええ」

 何度目かわからない既視感と共に千鳥が尋ねると、スバルは頷いた。

「そういえば、また観測会はやらないの?」

「ええと、部長さんはやりたがってるんですけど」

 無念の中止だったし、イベント好きの部長のことだ。たぶん次の計画は練られていると思う。例えそれがはた迷惑で騒々しく、突拍子のないものであったとしても、巻き込まれるのをどこかで楽しみにしている自分もいると、千鳥は苦笑する。

「スバルさんは星が好きなんですか?」

「私、というより弟が好きでね。前の観測会も、外部の人が行ってもいいって書いてあったから、弟を連れていこうと思ってたんだけど……」

 この部屋に入り込んでから感じる既視感は、さざ波のように何度も何度も押し寄せてくる。ひとつひとつは小さいのに、いつかそれがとてつもなく大きな何かになって押し寄せてくるような、そんな曖昧な予感。

 ごーん、と重い音が鳴る。回数は五回。

 窓からさしこむ光は赤い色を帯びていた。

「あらやだ、もうこんな時間」

 ひき止めてごめんなさいね、とスバルは立ち上がる。そんなに時間が経った感覚はなかったが、すっかり夕方になっていた。千鳥は後ろ髪を引かれる思いで立ち上がった。このつながりを途絶えさせたくなくて、つい決まったわけでもないのに誘っていた。

「あの、観測会はまたするので、よかったら来てください。弟さんと一緒に」

「ええ。ぜひ」

 スバルは頷いて微笑む。

「……あの、これよかったら、弟さんに。観測会が中止になってしまったお詫びです」

 千鳥は荷物をがさがさとあさると、さっき買ったばかりのチョコレートをひとつ取り出した。

 スバルは一瞬目を丸くした。

 そしてゆっくりと、白い指先でつまむように銀色の包装紙にくるまれたチョコレートを受け取った。

 カーテンがはためいて、日が沈む前の強い光が部屋にさしこむ。少女の白い顔とワンピースに銀紙が乱反射して、チカチカとメルトブランカの文字が踊る。

「……ありがとう、喜ぶわ」

 スバルは、小さなチョコレートをまるで宝物のように、そっと手のひらで包みこんだ。

 金魚と猫が戯れて、窓際の白い貝殻がカーテンに押されて畳に落ち、サイダーの泡が弾けて、ラジオから知らない歌手の知らない歌が流れる。チョコレートの甘い香りが、とてつもなくいとおしいもののように、その時間ごと手のひらでつつみこむ。

 この瞬間を忘れてしまわないように、と。


 楽しみにしているから

 スバルは囁いて千鳥を見送った。





 夕暮れに沈む道で、千鳥はふと立ち止まった。振り返っても、海辺のアパートもそこに住む人々も、もう見えない。最近姿を見せない幽霊部員もその弟も、誰かに酷似している少女も、海の気配と共に遠ざかっていく。二度と会えないわけでもないのに、やけに寂しさを覚えていた。

 一瞬、戻ろうかと迷ったが、思い直して千鳥は首をふった。なぜこんなにも気になるのか。千鳥は正体がわからない予感に困惑して立ち往生していた。

 おろおろと洋菓子店の紙袋を抱え直し、そしてその時、黒い化粧箱のとなりに、一冊の本がはさまっていることに気づいた。それはさっきまでスバルと一緒に見ていた、スバルの父親が撮影したというクラゲ図鑑だった。

「あれ、持ってきちゃった?」

 焦った千鳥はあわてて本を袋から取り出した。返さないと、と本を持ち上げた千鳥は、なぜかまた違和感を感じて目を細めた。

 なんだか、さっきよりも薄汚れている気がする。急に古くなったというか、こんなにくたびれていただろうか?

 すると、本の間にはさまっていたのか、それともスクラップされていた写真が剥がれたのか、はらりと何かが地面に落ちた。

 そして、しゃがんで落とし物を拾おうとした千鳥は、のばした腕をふと止めた。

「あれ、この……写真」

 ふいに思い出した。

 そうだ、あの日、スバルと出会った嵐の夜、部室に貼ってあった写真が一枚、なくなったのだった。消えたのは、クラゲの写真だった。

 それは消えた写真ではなかったけれど、空いた穴の代わりに返されたようなそれは、やはり見覚えある写真だった。

 クラゲではなく、人物の集合写真だ。

 写真の左下に、鉛筆で殴り書いたようなメモと、撮影日があった。

 あっ、と千鳥は声をあげていた。

 折戸谷が持っていた、天文部の日誌にはさまっていたもの。十年以上も前に撮影された、かつての天文部のキラキラした思い出の写真。

 しかし、折戸谷が持っていたものと違い、それには汚れや染みがついていなかった。だから、ひとりひとりの顔が、ちゃんと写っていた。

 写真のすみっこにいた、仲の良さそうな少女ふたりの、そのかたわれ。それは、スバルの顔だった。

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