メルトブランカ

 鈍く光る銀の取っ手をひねると、カランカラン、とベルが鳴る。いつものように玄関にだらんと寝そべった猫が、面倒そうな顔で、のそっと顔を上げた。

 千鳥は視線がかち合った金色の瞳に軽く会釈して、尻尾を踏んでしまわないようにゆっくり、大きく足を上げて猫を乗り越える。前に一度、慌てて入って尻尾を踏んでしまって以来、猫は疑わしげな視線を千鳥に寄越すようになっていて、千鳥が乗り越えるまで、じっと金色の瞳が追いかけてくるのだ。

 それでも玄関から動く気はないらしいので、千鳥はしかたなく、注意深くドアの前で深呼吸してから店に入る習慣がついていた。

「いらっしゃいませ」

 店に入ると、砂糖とクリームのにおいと、白いエプロン姿の店員が千鳥を迎える。クッキーとジャムとパウンドケーキが行儀よく並んだ棚に横目で視線を送りつつ、海月のスカートのような傘をかぶった赤い古びたランプの下に立った。

「こんにちは。アキラさん」

「こんにちは。今日も暑いわね」

 千鳥は店員にも軽く頭を下げると、冷えたショーケースを覗き込む。冷却装置の調子が悪いのか、もとからそんなものか、ショーケースのガラス面には細かな水滴で曇っていて、店員の少女がこまめに布巾で拭き取っていた。

「あちこち古くて嫌になっちゃうわ」 

 千鳥とそう変わらない年頃の店員であるアキラは、すっかり馴染み客となった千鳥に、ひまわりが咲いたみたいな爽やかな笑顔を浮かべた。汗だくのショーケースと格闘するアキラに、千鳥は大変ですねと返して、いつもと変わらない顔ぶれのケーキを眺める。

 古い商店街の古い洋菓子店は、並ぶケーキや焼き菓子も、子どもの頃に大切にしていたおもちゃの宝石のような、少しやぼったいが愛らしい佇まいをしている。千鳥は右側から順番に一通りケーキたちを眺めて、シュークリームとショートケーキの間に挟まれた、青い海のようなゼリーに目を止めた。カラフルな魚の形の寒天が、ゼリーの海に泳いでいる。

「お決まりですか?」

「えっと……この、チョコレートをください」

 少し迷ったあと、ゼリーではなくケースの中央のチョコレートを指さした。箱入りの高級そうなチョコレートは、夜闇のようななめらかな表面に、キラキラと光る金粉が散っている。ゼリーに心引かれても、今日の目的は自分のためのおやつではない。

「メルトブランカね。いくつにする?」

「えっと、五個でお願いします」

 そのやりとりは接客にしてはくだけていて、友達の延長のような気楽さがあった。人見知りが激しい千鳥にとって、この古びた洋菓子店は、気兼ねなく訪れることができる数少ない場所になっていた。

 夏休みに入り、部活は嵐で無念の中止となったあの夜からまだ再開されていない。次に集まるのはいつだろう、と千鳥はそわそわしながら部長からの連絡を待っていた。チョコレートなら日持ちするし、いつ呼ばれても差し入れとして持っていけるだろう。

「チョコレート、好きなの?」

 保冷剤と包装紙を用意しながら、アキラは千鳥に問いかける。

「夏にチョコレートを買うお客さんは少ないから」

「前にもらったんです。美味しかったから、今度は私が差し入れしようと思って」

 折戸谷から以前もらったチョコレートは、少し溶けていたけど口のなかでとろけた。海の風の中で食べたあのあまさを思い出しながら、千鳥は頷く。

「そうなの。うちの看板商品だから、気に入ってもらえてうれしいわ」

 そんな世間話をしつつも、アキラの手は止まることなく滑らかに動き、あっという間にチョコレートを包む。キリッと折られた艶やかな白い包装紙に包まれた箱に、黒色のリボン。リボンに挟まれたカードには流れる波のような文字で、店名が綴られている。

「ありがとうございます」

 チョコレートの箱の上に、アキラはもうひとつ、一回り小さな箱を乗せた。首をかしげた千鳥に、アキラは笑顔を向ける。

「余り物なんだけど、よかったら持っていって」

 小さな箱には、海色のゼリーが入っていた。

 千鳥がゼリーを凝視していたのを見て、サービスしてくれたらしい。千鳥はそんなに物欲しそうだったかな、と少し恥ずかしくなりながらも、お礼を言って受け取る。

「ありがとうございます」

「お得意様へのサービスよ。また来てね」

 はい、と頷くと、千鳥はふたつの箱を大事に抱えて、店を出た。猫がひげをそよがせながら千鳥を見送ってくれた。

 商店街のアーケードを抜けると、千鳥の足は自然と海の方角へと向いていた。まだ昼を少し過ぎたばかりの、夏の陽ざしがさんさんと降りそそぐ、でこぼこのコンクリートの道を歩く。保冷剤はたっぷりと入っていたが、じわじわと溶け出していた。

 千鳥はせっかく買った冷たい菓子のためにも早く帰ったほうが良いとわかっているのに、なぜか足はまっすぐに海に向かって進んでいく。つい、と黒い鳥が千鳥を導くように、まっすぐ海へ飛んでいく。

 夏休みが始まって少し、まだ夏はたっぷりとある。そんな解放感からか、あるいはなにかに呼ばれるように。気づけば千鳥は、あの海辺のアパートの前に立っていた。

 深海とその幼い弟に最後に会ったのはいつだったろう。その喪失の時間に気づいて、千鳥はますますアパートに強い視線を向けていた。

 そこには以前訪れた時の記憶のまま、古びた二階建てのアパートが変わらず存在していた。潮風に錆びた鉄の階段も、植物に覆われたトタン屋根も、階段に置かれたプランターの、名前がわからないままの白い花も同じだった。ただ、軒下にあった燕の巣からは雛鳥の姿が消えていて、空っぽだった。

 千鳥は二階の真ん中あたりに視線を向ける。重い扉はかっちりと閉められて、中の様子を窺い知ることはできなかった。

 ふと、視線を感じて千鳥は顔をアパートの反対の道路に向けた。灰色のコンクリートに、人の影がくっきりと落ちていた。

 その影をたどると、壁に隠れるようにして、中年の男の姿が目に入った。取り立ててどうということもない、ごく普通のおじさん、という雰囲気の男だったのに、なぜか引っ掛かりを覚えて首をかしげる。

 そしてほどなく、どこかで見た顔だと思い出した。

 あのおじさん、前に深海くんのうちに来ていた役所のひとだ……

 玄関口からチラリと見えただけだったけれど、そんな気がした。千鳥の視線に気づいたのか、役所の男はそそくさと道の向こうへと歩いていく。たまたま通りかかっただけなのか。そもそも千鳥の勘違いということもあるのだが、千鳥はやはり彼が深海のことを見張っているように感じてしまった。

 千鳥が困惑に立ち竦んでいると、ふいに肩を叩かれた。驚きにビクッと大きく震える肩に合わせて、抱えた箱も揺れた。おそるおそる、振り返る。

「……アキラさん?」

 千鳥はその少女の姿を見た瞬間、さっき別れたばかりの洋菓子店の店員の少女の名前を呟いていた。

「また、会ったわね」

 しかし、穏やかなのに、なぜか心がざわつく微笑みを向けられて、彼女はアキラではないと、はっと気づいた。

「……スバルさん?」

 それは、嵐の夜に天文台で出会って消えてしまった、あの不思議な少女だった。

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