深海の研究室
「箱、というのは、不思議な装置だと思いませんか」
博士の目の前の水槽には、無数の小さなクラゲがヒラヒラと泳いでいた。半透明に光に透け七色に輝いて、貴婦人のドレスのように美しい生き物だった。
「そこらじゅうにあるただの風景も、写真という箱に入れて飾れば作品になる。人の営みというごくありふれたものをスクリーンという箱に切り取れば映画になって、誰かが吐いた言葉を本という箱に綴れば小説になる」
博士は振り返らない。
猫足テーブルの向こう側にいる聞き手は、博士の背中を見つめながら、静かに声に耳を傾けている。
「水槽も同じです。海を箱に入れて見せれば、それは水槽です」
研究室が細かな振動に揺れていた。少しずつ近づいてくるようにも思えるそれを、博士は静かに待っていた。
クラゲたちはゆらゆら、ゆらゆら、まるで水そのもののようにたゆたっている。
単体で自由に動いているようでありながら、それはなにか、とてつもなく大きなひとつの流れの一部であるようにも見えた。
「クラゲの身体はほとんど水でできていると申し上げましたが、クラゲは漢字で、水の母とも書くのです」
博士は微笑んだ。
「まるで深海にいるという彼女のよう」
だんだんと大きくなる振動にあわせて、クラゲたちはダンスでも踊るように水槽の中を跳ねる。
「かれらは海そのものであり、彼女の端末のひとつ。あるいは監視役、とも。私たちは、常に見られている。私たちが彼らを見つめるように、彼らもまた、私たちを見つめている」
その時、博士の白衣のポケットから、携帯電話の呼び出し音が鳴り響いた。静かな室内でそれは、耳障りに響く。
『……博士、大変申し訳ありません。緊急の案件が入ってしまいまして、たいへん失礼なのですが、このまま失礼させていただければと思います』
相手は役人だ。丁寧だが早口で捲し立てる。
博士は役人の電話に穏やかに応じている。
「いえ、お仕事大変ですね」
『……本当に申し訳ありません。では、これで失礼いたします。博士の講義は大変勉強になりました。また、ぜひご教授いただければと思います』
「私こそ、充実した時間でしたわ」
通話終了のボタンを押すと同時に、にこやかな笑顔もぶつりと終わる。
博士はゆっくりと振り返った。
「深海の彼女。海に属するすべてのものが、彼女に従う。それは……ここも例外ではないのですよ」
博士は部屋中の水槽を見回した。水槽の中には、多種多様な海の生き物達がひしめき合っていた。それはさながら本物の海のようだ。
振動が近い。
それはすぐそこまで来ていた。
博士のちょうど目の前の水槽に、巨大な影が通りすぎようとしていた。
それは、一匹の鯨だった。
水槽などよりも、いや、この研究室ごと飲み込めそうなほどに巨大な海の王者が、ゆっくりと博士の目の前を横切る。
博士の側から、つまり研究室の内側から見れば、それは壁に埋め込まれた水槽だった。
しかし、魚たちの側から見れば。
そこは、海だった。
ガラスの壁も天井もない、ただひたすらに広がる海底と大きくうねる海流と、潮に乗って何千キロと旅をしてきた回遊魚達。
そこは、海底に沈んだ白い箱だった。
壁には無数の海草や貝類が付着している。箱の中央辺りから一本の管が上に向かって伸びていて、そのまま海上へと繋がっていた。この海中エレベーターが、博士のいる海底研究所と上をつなぐ生命線だ。
「ここは海の中にある陸の前線基地。あるいは大使館のようなものかもしれません。彼女へアプローチするなら、海に潜らなければ話にならない」
魚達から見れば、白い箱の中に見知らぬ生き物がいるので、物珍しく見物していることだろう。
博士は壁に埋め込まれた水槽に見えるそれ……海と研究室を仕切るガラス窓から、通り過ぎていく鯨を見送る。海の向こうへ消えていく尾を眺めながら、冷めた紅茶を乗せたままの猫足テーブルから黒い本をすくいあげる。
博士は本を無造作に開いた。
ページは、すべて白紙だった。
ただの紙の束を興味無さそうに机に戻すと、博士は猫足テーブルの向こう側へ優雅に微笑んだ。
「……お茶を入れ直しましょう。きっと長い話になりますから」
海上フロートに設置された、海中エレベーターの発着所。頭の上は遮るもののない空、視界すべては海の波。巨大なイカダである海上フロートは、奇妙な海の浮遊物だった。陸は遥か彼方にあり、荒立つ波に不安げに揺れている。
「……酔狂なことだな。鯨にでもなったつもりなのか。私には理解できんよ」
役人は肩をすくめつつ、スーツのポケットへ通話の終わった携帯端末を戻す。
そして端末と入れ換えに、黒い小さなチップを取り出した。
「まぁ、このデータが手に入ったのだから、海の底まで出向いたかいはあったというものか」
近づいてくるヘリコプターのプロペラ音に、薄く獰猛な笑みを浮かべる。海風とは逆向きの風がスーツを大きくはためかせた。
役人は黒縁のメガネをぐい、と押し上げる。
「それでは博士、いずれまた。今度は陸で会いたいものですね」
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