夏のおわりにつばめは去った
それから、つばめちゃんはわたしが練習中によく顔を出してくれるようになった。
フェンスの向こう側から、手を振っている。
わたしは手を振り返して、スタートラインに立つ。
つばめちゃんとのアイコンタクトは、決まってフェンスごしだった。
つばめちゃんの合図で、わたしは走り出した。
それが日課になって、たったの数週間だったはずなのに、もうずっと前からそうしていたように、わたしはなめらかに走り出す。
わたしは子どもの頃から、体を動かすのが得意だった。小学校でもクラスで一番速かったし、中学に入ってからは陸上部に所属して、まわりの大人たちが陸上の申し子だとか天才だとか言うのを、照れつつも受け入れていた。単純にほめれるのは嬉しかったし、記録を更新していくのも楽しかった。
そしてそこに、つばめちゃんが加わって、もっともっと楽しくなった。
中学の新記録を取ったときも、大会の代表選手に選ばれたときも、一番に喜んでくれたのは、やっぱりつばめちゃんだった。
「やっぱり、………ちゃんは、鳥なんですね!」
「ありがとう。つばめちゃんが一緒にいてくれたおかげだよ!」
フェンスごしに両手を合わせて、ぴょんぴょん飛び上がる。無表情でいることが多い子だったけれど、そのときは頬をほくほくと上気させて、幼い少女なように笑っていた。わたしはつばめちゃんが喜んでくれたことが、なによりも嬉しかった。
今思えば、わたしは完全に有頂天になっていたと思う。
わたしの根っこは、走ったり跳んだり、体を動かすのが好きということでできていた。
わたしはただ楽しくてやっていただけだから、わたしが楽しければそれでよいという無知だったから、よけいに無防備だったのだと思う。
わたしを良くない気持ちで見ている人がいることに、気づくことができなかった。
私がその違和感に気づいたときは、すでに落下の後だった。
高跳びで使う棒が、途中で折れたのだ。
分厚いマットレスは、わたしをきちんと受け止めてくれたので、別に怪我をしたとかではない。
ただ、驚いていた。
「大丈夫か? 古くなっていたのかな。きちんと確認したはずなんだが……」
きちんと管理されている道具だ。顧問の先生は生真面目で、手入れを怠るはずがなかった。
先生は首をかしげていたが、わたしは痛めたところもなかったし、大会が近い焦りもあって、ただ練習を続けたかった。そのときはまだ、ただの偶然だと思い込んでいた。
でも、わたしは遭遇してしまった。
「ねぇ、またやるの?」
「どうせばれないわよ。さっきだって怪我したわけじゃなかったでしょ。またちょっと驚かせるだけだよ」
ひそひそ、ひそひそ。
最初は彼女たちが何をしているのか、本気でわからなかった。
同じ陸上部の女の子たちだった。
仲が良いわけでもなかったが、悪いということもない。
強いていうなら、無関心。
そういう距離感だった。
少なくともわたしは、彼女たちをそういうふうに扱っていた。
そしてそれがもしかしたら、一番ダメだったのかもしれない。
わたしの使う道具に手を伸ばしながら、気持ちの悪い言葉を吐き出していた。
「ちょっとほめられたからっていい気になってさ。これ見よがしに自慢してくるの、いいかげんにしろっての」
わたしにはそんなつもりは全くなかった。
わたしはほめられたから素直に喜んで、全力で走っただけのつもりだった。
でも、彼女にとってわたしはきっと、嫌がらせをしたくなるくらい、嫌みなやつだったんだろう。
わたしは頭が回らなくて、ただただ立ちすくんだ。
「……あ」
そのときは、本当に間が悪かったのだろう。
わたしがいることに、その子たちが気づいてしまった。
反応は様々で、ばつが悪そうに顔をうつむける子、あきらかに動揺する子、そして、はっきりとわたしを睨み付ける子。
目が合った。
わたしの道具に手を伸ばしていた子だ。
その子の目は、嵐の海のようにおどろおどろしかった。
その子の目は、わたしのことなんて見ていなかった。
たぶん、その子を追い詰めるなにか、恐ろしいなにかに、その子も飲み込まれていたのだろう。
わたしは恐ろしくて、一歩、一歩と後退する。
その子は一歩、一歩と、わたしを追い詰める。
あなたなんか、と、口が動いた。
ドクドクと血潮が耳鳴りになって、音は聞こえなかった。
わたしをつかまえようとのびてくるおそろしい手。
「何を、しているのですか?」
その声は、夏の突風のようだった。
「なによ、あんた」
怯えたように顔を見合わせる女の子たち。
「……つばめちゃん」
わたしはそのきれいな声に、ようやく我に返った。
つばめちゃんはいつものように、フェンスごしに静かにたたずんでいた。
けれど、まとう空気はいつもと違っていて、それはまるで嵐の前の、冷たくひりつく雷をはらんだ風のような、緊張感に満ちていた。
「あんたには関係ないでしょ。あっち行きなさいよ」
つばめちゃんは、はっきりと顔をしかめた。
「それ以上は、もういたずらでは済まされませんよ」
まるで全てを見透かしたような目で、冷たく告げるつばめちゃん。
「な、なによ。証拠でもあるの?」
「そ、そうだよ。言いがかりは止めてよね」
動揺している女の子たちは、追い詰められた小動物のように攻撃的になっていた。
「……なんてみじめな」
そして、つばめちゃんの声は、侮蔑と呼べるくらいに凍えていた。
「このように姑息にからんでくるのは、正面から勝負しても敵わないと理解しているからこその行動なのでしょう。あなたたちは、自分から世界に負けたのです。それを哀れと言ったのですよ」
「な、なんですって?」
つばめちゃんの言い回しは独特で、わたしにはその言葉の意味を理解することはできなかったと思う。彼女たちも同じだろう。
けれど、つばめちゃんが向ける視線の意味は、じゅうぶんに伝わっていた。
でも、弱い動物を追い詰めてはいけない。必死に噛みついてくるから。
「……なによ、バカにして!」
一番前にいた女の子が、とっさに手を振り上げた。
彼女も自分が何をしようとしているのか、わかっていなかったと思う。ただ動揺を隠すために、弱い自分を隠すために、突発的にそうしてしまったのだと思う。つばめちゃんではなく、弱そうなわたしを狙ったのも、自分が勝てそうな相手を選ぶ本能のようなものだから。
わたしはとっさに目をつぶった。
でも、振り上げた拳がわたしを打つことはなかった。
つばめちゃんが、その腕をつかんでいた。
わたしは目を瞬かせた。
驚きは、ぶたれそうになったことではない。
つばめちゃんはまるで魔法を使ったかのように、一瞬でフェンスを乗り越えて、わたしのとなりに現れた。
わたしを守るように凛と立っていた。
そのうつくしい顔に、思わずみとれた。
その時気づいたのだが、わたしはフェンスごしでないつばめちゃんの顔を、初めて見た。
わたしは同時に違和感を覚えた。
フェンスは、わたしの背よりもずいぶんと高い。出入り口はグラウンドの反対側で、今さっきまでそこにいたつばめちゃんが、フェンスのこちら側にくることは不可能のはずだ。
それは本当に魔法でも使わなければ不可能な不思議だった。
そして、わたしの違和感が疑問に変わる前に、それは起きてしまった。
唖然とする彼女たちに、つばめちゃんは有罪を告げる裁判官のように冷徹に宣言する。
「私は、あなたたちを許しません」
つばめちゃんが、すっと手をのばした。
女の子はビクッと大きく肩を揺らして、あきらかに怯えていた。
わたしは止めなければと、つばめちゃんと女の子の間に、無理矢理割って入ろうとした。
「ま、まって!」
そして、わたしも動揺していた。
突進した勢いで、積み上がっていた用具にけつまずいた。そして、つばめちゃんを巻き込んで、バランスを崩して倒れこんだ。
とにかく運がなかった。
「………ちゃん」
つばめちゃんの呆然とした声。
針金かなにかが飛び出していたのだろう。
わたしは手首をざっくりと切っていた。
どくどくと流れる赤い血。
熱いのに冷えていく体温と、痛みよりも身体中を駆けめぐったのは衝撃。
「……あ」
わたしはくらりと頭が揺れるのを感じた。
大会が。
「あ、あたしの、せいじゃないからね」
女の子の声には、焦りとほの暗いよろこびがにじんでいた。
ふらり、とつばめちゃんが立ち上がる。
背を向けていたから、彼女がどんな表情を浮かべていたのかも、何を言っていたのかも、わからなかった。
「……つばめちゃん?」
ぶわり、と突風が吹き抜けた。
黒い流線型のシルエットが、わたしの目の前を流星のように横切った。
そして、腕の傷と、つばめちゃんの姿が消え失せていることに気づいたのは、しばらく経ってからだった。
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