《間話》織姫と彦星によろしく
「引き継ぎはこれだけ?」
「ええ、もともと、たいしたものもありませんでしたから」
少女は薄い本を受け取って、表紙の針金のようなタイトルを眺めて呟いた。
ここはどこなのだろう。
上は雲ひとつない空。
下は波ひとつない海。
全てが青い世界で、少女がふたり、向かい合って佇んでいた。
少女はどちらも黒髪に黒目、制服らしい白いシャツに濃紺のスカートという出で立ち。背格好も同じで、まるで鏡合わせのような対面だった。
「でも、あなたも運がないわね。途中まではうまく行っていたんでしょう?」
少女は肩をすくめる。
「そうですね。でも、しかたのないことです。これも、彼女との取り引きのうちですから」
「……彼女なら、うまく交渉すれば猶予をくれたかもしれないわよ?」
少女は肩をすくめた。
「そうかもしれませんが……でも、潮時だと思っていたのも事実です」
「まぁ、あなたが納得しているのなら、いいけど」
少女は空を見上げた。
「あの子は、まだ、雛なのです。これからいくらでも飛べるはずだった。私と関わったことでその羽が傷つくなんて、許せなかった」
「あなたがもう飛べないから、その代わりに?」
少女はあごを斜めにひいた。その表情は、肯定とも否定ともつかなかった。
「代用品だとは思っていません」
「あら、私たちそのものが、ある意味代用品だというのに?」
やはり、少女は否定も肯定もしなかった。
ただ、静かに目を閉じた。
「彼女にとって、人間でもそうでなくても、どちらでも同じでしょう」
「そうね、彼女のことだものね。考えてもしょうがなないわね」
気がかりなのは、残ってしまった深い傷。
「……腕の傷は直すことはできましたが、心に負った傷までは、彼女は癒してはくれなかった」
「それが、あなたと彼女の取り引きというわけ」
「私が返せる価値では、それが限界でした」
「後悔はないの?」
「あったとしても、それくらいしか私が持っていけるものはありませんから」
「そう」
うつむく少女と、空を見上げる少女。
いつの間にか、空の色が赤から紫のグラデーションに染まっていた。徐々に青が濃くなっていく世界に、星の川が流れはじめる。やがてそれは大河になり、少女たちはその煌めく流れの中にいた。
「……そういえば、今夜は星に願う夏祭だったわね」
「ああ。人間は彼女のことを知らないはずなのに、似たような伝承があるのは興味深いですね。それに、彼のことも」
「ずいぶんと美しく脚色されているようだけど」
「ロマンチックではありませんか」
「……皮肉の間違いないじゃなくて?」
少女は肩をすくめた。
とりとめのない会話も終わりが近い。
そろそろ時間ね、と少女は呟いた。
「行くの?」
「ええ」
じゃあね、と互いに軽くうなずく。
まるで、学校帰りの学生のような気軽な挨拶だった。次は永遠にないと知っていながら、あっさりとしたものだった。
「ところで、あなたは何番目だったかしら」
「三十番目ですね」
「じゃあ、私は三十一番目ね」
少女は軽く頭を下げる。
「それじゃ、織姫によろしくね」
「そちらこそ、彦星によろしく」
まったく同じタイミングと同じ角度でうなずき合う少女。まるでひとつのようにふるまうふたり。
「さよなら、三十番目の私」
「さよなら、三十一番目の私」
星の大河は静かに瞬く。
そして、少女はひとりになった。
最後に覚えているのは、少し悲しそうに微笑むつばめちゃんの顔だった。
わたしが憧れていた長い黒髪が、風に巻き上げられるように大きく渦巻いた。
そして、つばめちゃんの姿が、一羽の黒い鳥に変わる。
それはまるで魔法だった。
鳥がくちばしを開いて、聞こえたのは確かにつばめちゃんの声だった。
……さま、お願いを届けます。
そう、聞こえた気がした。
その声に答えるように、虹色の雲のようなものがあたりを包み、鳥をさらっていった。
それは瞬き一回よりも短い時間のなかの出来事だった。
何度思い返してみても、夢だったとしか思えない。
ただ、気づいた時には腕に負ったはずの傷は消えていて、つばめちゃんはそれきり姿を現さなくなった。
あれから彼女たちは部活を止め、たまに廊下ですれ違っても、互いに顔を合わせずに空気のようにただ通りすぎる。
ただ、あの出来事とつばめちゃんが幻ではないことを、わたしの手首に残った花のような形のあざが教えてくれる。
つばめちゃんとおそろいのあざだ。
つばめちゃんという存在の痕跡が、自分の体に刻まれている。
あざを見るといつも胸がぎゅっと苦しくなるけれど、その痛みは同時に、わたしのなかのつばめちゃんが、消えていないことの証明でもある。
突然降って突然止む雨のような女の子だった。
いつの間にか、空を見上げるくせがついた。
そこに小さな鳥の黒い影が見えないかと、つい探している自分がいる。
いくら願ってもあの夏もあの子も戻ってはこないけれど、雨は止むし夏はやっぱりやってくる。
「ああ、ほら、もう晴れたよ」
店主が眩しそうに目を細めた。
少女は雨上がりの空を見上げた。
雷雲は過ぎ去り、真白の雲のカンバスを、黒い点が絵筆のように一本の線を引いた。
「……あ、つばめだ」
新しい夏を引き連れて、あの鳥がやってきた。
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