夏のはじまりにつばめと出会った
風に濃く混じった夏の匂いが、春を容赦なく追い出そうとしている。
少女は黒雲の空を見上げた。叩きつけるような雨は、アスファルトを黒々と染め上げる。
「やぁ、ひどい雨だねぇ」
商店街の小さな酒屋の店主が、急な雨に店の軒先を借りていた少女に愛想よく話しかけた。
「すいません、傘を忘れてしまって」
いいよ、と気さくな店主は笑顔で応じる。
「雷も近いみたいだしね。でももうじき止むさ。夏の嵐はあっというまだから」
雲の流れは駆け足だ。店主の言う通り、あと数分もすれば雨は止むだろう。
少女はふと、商店のひさしに目に止めた。
「……つばめ」
思わずこぼれた呟きだった。
少女の視線の先には、鳥の巣があった。古巣のようで、壊れているわけでもなさそうだが、住人の姿は見当たらない。この時期であれば、子育ての真っ最中で、雛がピイピイとやかましいはずだが。
店主は、ああ、とうなずいた。
「昨年、蛇が出てねぇ。卵がやられてしまったんだよ。毎年きてたんだけど、今年はこないかもねぇ」
店主は少し残念そうに呟く。
「そうですか」
少女は空っぽのそれを眺めてひっそりと呟く。
嵐をやり過ごすつかの間、懐かしい夏の日と黒い鳥の面影が重なる。
わたしがその女の子に出会ったのは、中学校最後の夏のある日だった。
陸上部に所属していたわたしは、いつものようにグラウンドでトレーニングをしていた。柔軟体操から、軽いランニング。それから、わたしが種目として選択している、棒高跳び。
走り込みからの跳躍を繰り返し、あっという間に汗だくになる。大会が近いので、練習にも気合いが入っていた。
空を高く黒い鳥が飛んで行くのを、タオルで汗をぬぐいながら眺める。
ラスト一本。
わたしは駆け出した。
わたしは走る時、あまりものを考えない。
考えることが得意ではないこともあるけれど、体に鼓動が、肌に風が、目に空が映ることを、それだけに集中するから、他のことを考える余裕がないのだ。
風と心臓の音がひとつになって、耳の中でメロディになる。わたしはその音を聞くのが好きだった。
陸上競技の中で、棒高跳びという種目を選んだのは、空中のほんの一瞬、視界が空で埋め尽くされる光景が好きだったからだ。
でも、その時は違った。
跳躍の瞬間、空の残像の中にその子はいた。
グラウンドを囲むフェンスの向こう、木の影に溶け込むように、静かに座っていた。
まるで息をしていないような、人形めいた静かな姿だった。読書をしているのだろう、うつむいた顔は、微動だにせずただひたすらに文字を追っていた。
ただの一瞬に、わたしにはそこまで見えた。
それくらい鮮烈な印象だった。
わたしが跳んだその時、彼女がふいに顔を上げた。
目が、合った気がした。
まっすぐにこちらを見ていた。
凪の海のように深く静かな目。
練習を終えて、夕暮れのグラウンドを横切る時、フェンスの向こうに佇むあの子がいた。
シワひとつないシャツが目に痛く感じるほど真っ白で、髪と瞳が対照的にしっとりと黒くて、そのコントラストが印象的だった。
女の子の手には、黒い本がある。小説だろうか、細い針金のような文字の英語のタイトル。
海の匂いが濃い風に、長くてまっすぐな髪がさらさら流れて、その姿に思わず見とれて立ち止まった。
わたしは運動するのに邪魔になるからと、女子としてはずいぶんと髪は短い。つんつんした毛先を無意識にいじる。
無言で見つめ合うこと、瞬き三回ぶん。
口を開いたのは、あの子だった。
「……あなたは、本当に楽しそうに飛ぶのですね」
平坦な、感情の読み取りにくい声だった。
けれど夏の風のように透明で、大きくはないのにどこまでも届きそうなきれいな声だった。
わたしの高跳びのことだと気づくまで、少しだけ考えてしまった。
「えっと、あの、ずっと見てたの?」
彼女はこくん、と頷く。
こんなきれいな女の子に、ずっと見られていたのかと思うと、なんだか急に恥ずかしさが込み上げてくる。わたしはもじもじとうつむいた。
「まるで、鳥みたいでした」
女の子は人見知りするわたしに、透明な声でそう言った。
「そ、そうかな」
わたしは嬉しくなって、顔を赤らめた。
そんなふうに言われるのは初めてだった。
「ええ。空で生まれた人のよう」
不思議な言い回しに、わたしは首をかしげる。
でも、とてもきれいな言葉だと思った。
「あなたなら、本当に空を飛べるかもしれません」
彼女は微笑んだ。
わたしはどきりとした。
なんてきれいな人なんだろう。
まるで、ひとではないみたい。
「わたしは、つばめです」
彼女はそう名乗った。
夏を告げる鳥と同じ名前。黒いキラキラひかる瞳とつやつやの黒髪が、その名前にふさわしいと思った。
「あなたは、………さんですか」
わたしの体操服のネームプレートを見て、その子が首を傾げた。変わった名前ですねと呟く。わたしの名前はよく読み間違えられる。
でも、この子にそう呼ばれることは、なんだか特別な関係になったようで、わたしは間違いを訂正しなかった。
「……また、跳ぶところを見てもいいですか?」
「も、もちろん!」
わたしは勢いよく首を縦にふる。
「ありがとう」
フェンスの隙間に、彼女はその細い腕を滑り込ませる。するりと差し出される手のひらは、人形のように白くなめらかで、汗ひとつかいていない。手首にあった花のような形のアザですら、なにかのアクセサリーのようだった。
彼女が手にしていた黒い本のタイトルが目に入る。
ティルナノーグ。
いったいどんな物語なのだろう。
それが、彼女との出会い。ひと夏過ぎれば姿を消すあの鳥達と同じ名前の女の子。
少女は空っぽの巣を見つめる。
もう、あの巣に鳥が戻ってくることはないだろう。
去ったものは戻らない。
夏と共に去っていったあの子のように。
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