〈博士Aと役人A〉嵐の前に
「おっと、失礼」
スーツのポケットからバイブレーション。今日、この会談が始まってからいったい何度めだろう。
役人はため息と共に端末を眺めて、顔をしかめた。
「……すみません、ちょっと込み入った要件なようで。少しだけ席をはずしても?」
なにかのトラブルだろうか。
「大変そうですね」
博士は頷いてのんびりと紅茶をすすった。
席を立つ時、役人はテーブルに置かれたままの黒い本に、チラリと視線を投げる。
「ところで、そのブラックブックですが……」
物言いたげな視線に、博士は先回りをする。
「先ほども申し上げましたが、これはまだ未完成です。この研究室からの持ち出しも、厳重に制限しておりまして」
「そうですか……残念です」
断られる予測はしていたのだろう、それ以上食い下がることもなく役人は席を立った。
「……ああ、そうだ。ひとつ、参考までにお聞きしたいのですが」
役人はふと今思い付いたとばかりの自然さを装って、博士に鋭い視線を投げる。
「ミミックにとって、天敵となるようなものは存在するのでしょうか?」
突然の質問に、博士は紅茶のカップを口元に運ぶ手を止める。
「……物騒な質問ですね」
「変な意味ではありませんよ」
緊急要件と関わりあるのだろうか。どこか余裕のない空気を感じとり、博士は悩ましげに腕を組んだ。
「……そうですね」
役人の向こう、並んだ水槽に視線を向ける。
「強いて言えば、この世界、でしょうか」
「……と、いうと?」
博士の答えに、役人は意味を理解できなかったようで、不可解な顔をする。
「深海の生物にとって、陸の環境そのものが猛毒、という意味です」
博士は言い直した。
「深海生物は、低温や高水圧など、我々からみれば過酷な環境に適応するため、独自の進化を遂げてきました。体の成分をほとんど水と同じにしたり、視覚を捨て、嗅覚や触覚を極端に進化させたり。しかしそれは、陸の環境には、まったく合わなくなってしまうということでもあります」
「人間が深海では生きられないのと同じですね」
「深海生物の生体での捕縛例や、人工での飼育の成功例が極端に少ないのは、それが原因です。空気に触れた途端、体の崩壊が始まってしまうこともあるのですから」
丘に迷った鯨のように、と博士は目を細める。
「彼らの生きる世界と、我々の生きる世界は、あまりにも遠く離れている。そう、それこそ、月と地球くらいには」
役人は神経質にこめかみを指で押さえる。
「まるで宇宙人を相手にしているようですね」
そうかもしれませんね、と博士は微笑む。のほほんとした博士とは反対に、役人の反応は固い。
「……映画やコミックの中でなら、人類を侵略する敵役ですね。今は大人しくても、突然牙をむき侵略者となる可能性も、ないとは言いきれない」
博士は肩をすくめた。
「侵略者、ですか。それこそ物語のテンプレートなら、よき友人となるかもしれませんよ?」
「博士はやはり、彼らに対して好意的なのですね」
役人は暗に肩入れしすぎていると批判しているようだった。博士は軽く首を横にふる。
「研究者として、思い入れがないと言えば嘘になります。けれど、研究者だからこそ、友人とよぶには彼らは遠い存在だと知っています」
役人は探るような視線を博士に向ける。
「では、博士にとって彼らは何者なのですか?」
役人の質問に、博士は少し考える。
「そうですね……」
紅茶を飲むように、彼女はゆっくりと答えた。
「隣人、でしょうか」
友人でもなく、仲間でもなく、家族でもなく、さりとて無関係でもない。
それがミミックと私たちとの距離感。
「……なるほど」
青い瞳と黒い瞳が、わずかに逸れて交差する。
「それでは、ちょっと失礼しますね」
「ごゆっくり」
互いに、にこやかな笑みを顔に張り付けて、役人は博士の研究室を後にした。
エレベーターは、音もなく上昇していく。
体にまとわりつくような重みは、狭い閉鎖的な箱に押し込められているせいか、あるいは。
役人はわずかに顔を上げ、階数表示に視線を向ける。無機質に光る数値は、一定のリズムで淡々と流れていく。
13、12、11、10……
それは、おかしな表示だった。
エレベーターは確かに上昇しているのに、階数は減っていくのだ。
役人はしかしそれを疑問に思うことなく、淡々と眺めている。
チン、と気の抜けた音がして、ようやくエレベーターは止まった。
動かなくなった数値は、1、だった。
扉が音もなく開く。
その途端、強い潮風が吹き込んできて、役人は目を細めた。
ビルの屋上のようなずいぶんと開けた場所だった。
視界いっぱいの青の水平線。
白い入道雲が悠々と流れて、太陽はまぶしい。
ついさっきまで深海の底のような場所にいたせいで、空をずいぶんと近く感じた。
博士に言った緊急要件とやらに取りかかる様子もなく、役人はくたびれた様子で目の前の海を斜めに眺めている。
役人は仕事用の情報端末の代わりに、ポケットから潰れかけた煙草の箱を取り出した。
最後の一本を抜き取る。
くしゃりと箱を潰して、くわえる。
風が強いので、なかなか火が着かない。
チカッと火花が散って、ようやく煙が立った。
「……不味いな」
煙と呟きを深く吐き出す。
博士と会話していた時の愛想笑いは消え、眼鏡の奥の黒い瞳は穴のようにただ暗い。
濃い潮の匂いが煙草の味と混じっている。
安い銘柄で、しかしもう何十年と愛飲している。
海の苦い味だ。
真横に流れる煙。
その後ろ姿は黒いシルエットになって、青い海に切り取られている。
入道雲の向こうの海が、灰色に染まっていた。
潮の匂いがきついのは、雨がくる前触れだ。
風は遠い嵐の気配を運んでくる。
今は静かな海も、近く荒れるだろう。
ああ、本当に煙草が不味い。
「……これだから海は嫌いなんだ」
それでも最後の一本を、これ以上は火傷するくらいに短くなるまで吸い続ける。
風を巻く音。
暗闇を引き連れて、厚い雲と凶悪な風が近づいてきている。
「……嵐が近いな」
いつかの懐かしい海のようだった。
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