人魚の肖像
「彼は芸術家であり、冒険家であり、小説家であると自称していました。ライフワークだった海での撮影の最中、不幸な事故によって短い生涯を終えるまで、その肩書き通りの波乱万丈な人生を送っています。天才達の多くがそうだったように、無名時代が長く、存命中に脚光を浴びることはほとんどありませんでした。しかし近年になり、とある一枚の写真をきっかけに、天才写真家として脚光を浴びることになります……」
駅前の真新しいビルの最上階は、都心から遠く離れた田舎町とは思えないほど近代的でスタイリッシュな空間だった。どこぞの田舎水族館とは違い、無機質なガラスと金属の計算され尽くした建築物は、どこにも無駄がない。
駅前という立地も味方して、所蔵品を持たない企画展示のみの美術館としては、成功しているだろう。
作品の案内は音声自動再生で、聞きやすく口調もなめらかだが、どこか遠い場所から降ってくるような現実離れした声だった。
壁に整列した写真の被写体は、すべて海。
まるで海をそのまま切り取って並べたような青の群像は、あの古びた水族館と同じだった。
入り口の看板には、深い青の、溶けるような淡い文字がレタリングされていた。
『真崎翔洋回顧展』
額に押し込まれた海の間を、大学生くらいの女子の集団、上品な老夫婦、美大生らしいボサッとした青年、若いカップル、さまざまな人々が規則正しく並んで同じ歩調で歩いていく。
その人の波に、少年と少女はいた。
「やっぱり、こういう大人っぽくておしゃれな感じが受けるのか……子ども受けじゃなくて、デートコースを狙うのが正解……?」
悩ましい呟きを落とした少年は、ライバル施設の人気に悔しそうに歯噛みしている。千鳥はバイト先の集客に頭を悩ませる少年に、気遣いの言葉をかける。
「私は、水族館のほのぼのとした感じ、好きですよ」
「そうだよね、新しければいいってもんじゃない。親しみやすさだって大事だよね!」
ピンククラゲの案内係や、手作り感満載の館内装飾だって、愛嬌といえば愛嬌だ。
それにしても、と呟く。
「折戸谷くん、この写真……私、見たことがあると思うんですけど」
「うん」
少年と少女は顔を見合わせて、頷いた。
異国の花びらを運ぶ白波。射し込む光がまるでスポットライトのように照らし出す海底洞窟の沈没船。竜巻のように渦を巻く銀の魚の群れと、それを飲み込む巨大な鯨。海中を雪のように舞う丸くて小さなクラゲの大群は、まるで何かひとつの生き物のよう。
どれも見たことがある。しかも図録や印刷物ではなく、生写真として。
「あの灯台にあった写真と同じ、だよね」
取り壊しの決まった古い灯台。その中にひっそりと隠されていた大量の写真。出会った灯台守の老人。
託されたネガや写真は、今は部室兼少年少女の秘密基地である天文台に大切に隠されている。
「それで、この写真展に誘ってくれたんですね」
千鳥は半分肩を落として苦笑する。
「うん。そうだけど……どうかした?」
きょとんとした顔の少年に、千鳥はなんでもないですよと、少しだけそっけなく答える。
ますます首をかしげる少年を無視して、千鳥は改めて写真に視線を戻した。
「やっとあの写真の正体がわかったよ」
「有名な写真家だったんですね」
「そうみたい。僕は知らなかったけど……深海なら、知ってたのかな」
それにしても、奇妙な縁である。
千鳥は不思議な気持ちで多彩な海を眺めた。
芸術に疎い千鳥でも、なにかを感じずにはいられない、まさに天才の作品だった。無名であることが信じられない。来場者の多さも、彼の才能の証明だろう。人波は途切れることなく続いている。
途中、小魚の群れのように人が固まっているところで、千鳥は足を止めた。
「なんでしょう、あれ」
「有名な作品でも飾ってあるのかな」
折戸谷がうんと背伸びして、人々の頭の上から群がる彼らの視線の先を見つける。
そこには、ひときわ大きく引き伸ばされた、一枚の写真があった。
ループで流れているらしい音声ガイドが、ちょうど繰り返しはじめたところだった。淡々と語る女性の声に二人は耳を澄ました。
「……この一枚は、彼の最高傑作にして、彼の名前を世に広めた奇跡の写真。もはやこれが何者であるのか永遠の謎となってしまいましたが、ただ確かに言えることは、ここに捉えられたものは、真実であるということです」
深い深い青のグラデーション。
この世のすべての青という色を使って描いた絵画のような背景に、ひとりの人間らしきなにかがいた。
弾ける泡と光の粒子に容姿はよくわからない。
けれど、少女だとなんとなくわかった。
海を泳ぐ少女の姿。それだけならなんということもない。
しかし、その少女の下半身は光鱗の尾ひれだった。
それはまるで、おとぎ話の人魚姫。
「CGとか、人形なんじゃないの?」
いぶかしげな密やかな囁きが周囲からこぼれてくる。当然、創作を疑うだろう。
しかし、そうでないからこの写真は奇跡と呼ばれているのだ。
「あれ、真崎の代表作だね。なんか専門家がよってたかって調べても、本当に撮影されたものだったんだって」
「本物の、人魚だと?」
半信半疑の千鳥に、折戸谷は肩をすくめた。
「それがわからないから、注目されているんだよね」
それに、と目を細める。
「本人が人魚だったっていう噂もあるんだよね」
千鳥には、これが本物なのか偽物なのか判断することはできなかった。けれど。
「とても、きれいなひとですね」
それだけは、わかった。
折戸谷は頷いた。
「そうだね。きっと、本物かどうかはどうでもいいんだよね」
「……灯台の取り壊しは来週でしたよね」
「僕らがもらったあれって、新発見の作品ってやつだよね」
それにしても灯台にあった写真に比べて、この展示会に並んだ写真は、ずいぶんと数が少ない。たぶんあれらは、未発見の作品だろう。
「やっぱり、寄贈とかしたほうがいいのかなぁ」
「そうかもしれませんね。でも……」
千鳥は口ごもる。
秘密にしたい気持ちがある。
あの美しく不思議な空間を、誰にも知られたくない。そういうのは、ずるいのかもしれない。
「でも、秘密にしたいなぁ、僕は」
へらっと笑った折戸谷に、千鳥はぱちくりと目を瞬かせた。
「……いいんでしょうか?」
「いいんじゃない?」
少年は、いたずらっ子のようにニヤリと笑う。
「共犯者だね」
千鳥はゆっくりと頷いた。
「……そうですね」
秘密の共犯者。なんだかくすぐったい。
「ふふっ」
楽しげな共犯者の顔に、千鳥も淡く笑う。
いつのまにか、最後の写真にたどり着いていた。
最後の写真は、人物だった。
嵐の前だろうか、黒と白が入り乱れる海。
後ろ姿だ。黒い細長い筒のようなシルエットに、ゆるく煙草の煙がたなびいている。
カメラをかまえているのだろう、やや不自然な角度の腕の持ち上がり。背を向けているために、その顔を知ることはできなかった。
見えないのに、見えるようだった。海の向こうに真摯に向けられた視線。
顔がわからない肖像写真。
灯台の秘密のアトリエの主。
人魚だったと噂される人物。
それは、芸術家であり、冒険家であり、小説家であり、天才と呼ばれたひとりの写真家。
「おっと、失礼」
人混みに、誰かの肩とぶつかる。
珍しいサラリーマン風の男で、やぼったい黒ぶち眼鏡をかけていた。会社帰りにふらりと展覧会に寄るにしては少し違和感のある男の様子に、千鳥は首をかしげた。
「落ちましたよ」
男の足元に、黒い手帳のようなものが落ちていた。千鳥は男の落とし物だと思い、拾い上げる。
手渡せば、落としたことに気づかなかったのだろう、男は驚いた顔をした。
「……これは、失礼」
一瞬の間に、千鳥はまた首をかしげた。
受け取った本をスーツのポケットにしまい、男は足音もなく去っていった。
音声ガイドが、淡々と締めくくった。
「真崎翔洋は、自身の作品をすべて写真ではなく物語と表現しており、自身の作品はそれが写真であっても彫刻であってもただの走り書きであっても、ひとつの物語の一行であると語っています」
ゆえに、と声は続ける。
無機質で優雅な空から降ってくるような声が、少しだけなめらかになった気がした。
「すべて、タイトルはひとつ。それは……」
少年も、同時に口を開いていた。
『ティル・ナ・ノーグ』
少年の言葉とアナウンスが重なって、不思議な声になった。
「楽園っていう意味だよ」
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