嵐の肖像

 この写真を前にして思い出すのは、嵐の海と、あいつのトレードマークだった煙草と古びたカメラだ。


 そいつとの出会いは、嵐の前の海辺だった。

 大学に通う道すがらだった。

 浜に沿って伸びる歩道には、高めのコンクリートの壁があって、そこに腰かけていた。

 ふいに目についた。

 海を見つめる男の後ろ姿だ。

 煙草の煙が水平に流れていた。

 海は灰色に染まっている。

 腕の持ち上がりや角度から、カメラをかまえていることがわかった。

 雲は重く、波が目立つ。まだ雨はふっていなかったが、すぐそこまで嵐は迫っていた。

 潮の匂いが濃い。

 なぜ足を止めたのかはわからない。

 くわえていた煙草の灰がこぼれかけていたからかもしれないし、その日の大学の講義が嫌いな教授のものだったからかもしれない。海の向こうの嵐に向かって飛んでいく、燕に目を奪われたからかもしれない。

 ただ、その男の隣に、足を止めてしまった。


「やぁ、いい海だね」


 突然振り返ったそいつと、目が合う。

 まるで何十年来の親友のような、屈託のない笑顔だった。

 そいつの顔には見覚えもなく、初対面である。

 こちらが面食らっているにも関わらず、煙草の煙をゆったりと吐き出しながら、古びたカメラをコンクリートに置いた。

 そいつがくわえた煙草は、このままでは火傷するだろうというくらいに短くなっていた。


「海は嫌いだ」


 反射的にこぼれていた。

 産まれも育ちも海街だが、だからといって海が好きかというと、そういうわけでもない。

 身近ではあるが、身近に過ぎて好き嫌いを考えることもなかった。

 空気と同じように、あって当たり前のものだった。

 マリンスポーツにも釣りにも興味はないし、ただ生臭く広い水溜まりでしかない。


 そして、煙草が不味くなる。

 この独特の湿気った臭いに混じって、安い煙草など飲めたものではない。

 しかし学生バイトの薄給では、財布としても味の好みとしてもこの銘柄が適当で、長く愛用したせいもあり、この銘柄以外を買う気はない。

 海の近くに住んでいたのは、大学がそこにあったからだ。

 家が漁師だったため、なんとなく海関連の学校に進みはしたが、漁師になどなるつもりは毛頭なく、進路についても公務員を希望している。


「そうかい。こんなにも美しいのに」

 肩をすくめて煙草をコンクリートに擦り付ける。


「ところで、一本もらえるかい?」


 煙草は、自分のものと同じ銘柄だった。

 気がつけば、煙草を一本差し出していた。

 最後の一本だった。

 空になった箱をくしゃりと潰す。


「写真を撮っているのか」


 見ればわかることをわざわざ質問して、自分で顔をしかめた。

 自分は芸術にも写真にも興味はなく、海や空の風景を見ても、感動したりしない。

 ただ、そうあるものとして受け止めるだけだ。


「いいや、本を書いてるんだ」

「……本?」


 カメラをかまえて何を言っているのだろう。

 相当怪訝な顔をしていたはずだが、そいつはまるで気にしたふうもなく、ただ当たり前のことを言っているだけのようだった。

 淡く微笑みながらカメラを軽く撫でる。


「そう、こいつは映像ではなく世界から物語を切り取る装置なのさ」


 変人であることは、すぐにわかった。

 ほんの数秒前まで、まったくの他人だった。

 共通項は、煙草の銘柄だけ。

 なのに、気づけばそいつの隣で、不味い煙草をくわえて嫌いなはずの海を眺めていた。


「……どんな本なんだ」

 本人が写真ではなく本だと言うのなら、それに合わせようと思った。

「そうだね。月へ行くような話さ」

 また、海を目の前にしておかしなことを言う。

 やはり、変人で確定である。

 なのにまるで、親友のように話し込んでいた。


 嵐は、安酒が回るような酩酊だ。

 潮は熱く、うねる。

 身体の中に津波が起こったような感覚。

 煙草の苦味に潮の匂いが混じる。

 最後の煙草の火が落ちた。


「……そういえば、お前、名前は?」


 もう一度、写真を見る。


 海を見つめる男の後ろ姿。

 煙草の煙が水平に流れている。

 嵐の前の海は灰色に染まっている。

 腕の持ち上がりや角度から、カメラをかまえていることがわかった。

 嵐の前の日、出会ったとある変人の姿をそのまま切り取っている。


「真崎翔洋」


 それはその写真のタイトルであり、とある写真家の名前であった。

 

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