〈少年Mと少女M〉ムーンショット

『本日夜十時頃、流星群がピークを迎えます。今回の流星群は数も多く、お天気にも恵まれましたので、全国的に広い範囲で天体ショーが楽しめるでしょう。都内でも公園などで観測イベントが……』

 誰かが持ち込んだラジオが、特別な今夜を告げる。

 下校時間はとっくに過ぎ、いつもなら静かな学校の屋上も、十数年ぶりの天体ショーのために解放されていた。天文部員以外にもイベント参加が認められたので、それぞれの手持ちの望遠鏡を前に、楽しげに空を見上げる少年少女達でにぎわっていた。

 少女は他の友人達とビニールシートに座り込んで、空よりも持ち込んだお菓子とおしゃべりに夢中になりかけていた。だが、ふとおしゃべりの隙間に、一緒にいたはずの親友の姿が見えないことに気づき、首を傾げる。ぐるりと屋上を見回してみるが、目当ての人物はいなかった。

 少女は立ち上がった。

 ここにいないなら、あそこだ。


 少女は屋上の隅っこで、ひっそりと佇む灰色のドームにするりと身体を滑り込ませた。

 ただコンクリートの壁を一枚挟んだだけなのに、水に潜ったみたいにぐっと冷えた空気と、遠ざかる喧騒。真夏の夜のお祭り騒ぎのすぐ横で、世界がわずかにずれたような違和感を覚える。

 少女は明かりもなく暗い狭い部屋に目を凝らした。

 黒い箱から、静かな歌が流れている。ノイズが混じったりたまに音が飛んでいるのは、ラジオの番組を録音したものだからだろう。さざ波の音にも聞こえるノイズの中に、流行りの歌が混じっている。ノイズは不思議と耳に馴染んで、歌を邪魔することもなく一緒に夜風に流れていく。

「部長。やっぱり、ここにいた」

 座り込んでなにやら作業に没頭していた人影を、少女は覗き込んだ。

「やぁ」

 夜の中に埋もれていたその人は、少女に気づくと片手を上げて軽く挨拶する。だが、すぐに視線を元の位置、つまり望遠鏡のレンズに戻した。

 ドームの中央に鎮座するそれは、外の生徒達が持ち込んだ小ぶりのものではなく、研究者が使うような本格的な望遠鏡だった。中古とはいえ、立派な天文台から譲られたそれは、隅々まで夜空を捉えていた。

 夢中になって天体観察するその人は、天文部の部長だった。一応このイベントの主催者なのだが、他の生徒をほっぽって、こうして自分の趣味に没頭しているダメ部長である。

 少女は肩を竦めた。こうなっていては、友人はいくら話しかけても上の空だとよく知っていたからだ。

 少女は友人の隣に腰をおろした。

 スライド式の天井から、細長い空が見える。

 そこからこぼれたひとすじの光の線上に、二人は並んでいた。

 星がとても近い。

「みんなと一緒に見ればいいのに」

 思わず落としたため息に、友人は器用にレンズを覗き込んだまま、肩を竦めた。

「この望遠鏡で見るから価値があるんじゃないか」

「でも、ずいぶん旧式なんでしょ?」

「最新だから良いってわけじゃないんだよ。まったく、ロマンというやつをわかってないな」

 ふんっと鼻をならした友人は、わざとらしい尊大な口調で続ける。

「いつかこれで新しい星を発見して、自分の名前をつけるんだ」

「それはまた大きな夢だねぇ」

「月にロケットを打ち上げるような壮大な計画だって、いつか誰かがたどり着く未来なんだ。それに、魚が人間になるよりは簡単だと思うよ」

 友人はしたり顔で頷いた。

「少年少女は、いつも夢を見ないといけないんだよ」

「自分でいうの。なんだかオジサンくさい」

「ひどい」

 クスクス笑う少女に合わせて、友人もレンズから目を離さないまま肩を揺らした。視線を合わせることは一度もないまま、軽やかな会話は続いていく。

 ピーク時間まで、あと少しだけある。手持ちぶさただったのか、ふと思い立ったように少女が呟いた。

「……ねぇ、なにかお話してよ。それなら星を見ながらでもできるでしょう?」

 なるほど、望遠鏡で観察しつつ、話をするにはちょうどよい。

「いいよ」

 友人は頷くと、とうとうと語りだした。

「むかしむかし、海にはひとりの女王さまが住んでいました。女王さまはまるで星のような光輝く身体を持っていたので、深い海の底であっても、丘と変わらず明るく隅々まで見通せました」

 聞いたことのない物語だった。

「それ、どこかのおとぎ話?」

「そう。海月のお姫様と鯨の王子様の物語なんだよ」

 友人は天体オタクだったが、星だけでなく、こうしてさまざまな事を知っていた。それは創作の物語だったり、自然科学だったり、共通することは、少女の知らない不思議な話ばかりということ。少女は友人の話を聞くのが好きだった。

「ある夜、遠い海の向こうから渡ってきた燕が一羽、力尽きて海に落ちてしまいました。哀れんだ海の女王様は、燕を海で生きていけるように、一匹の海月に変えました……」

 友人の語るおとぎ話は、ひっそりと夜空に吸い込まれていく。星と海を舞台にしたそれは、星ふる今夜にはぴったりの物語だ。

「部長はやっぱり、宇宙飛行士になるのが夢なの?」

「まぁ、そうかな。すごく狭き門だけど」

 友人はやや照れたように頷いた。将来の夢という熱い想いを語るのは、ずいぶんこそばゆいものだ。もじもじした空気をはらそうとしたのか、話題を変えるように、友人はドームのすみに設えられていた机の上を指さした。

「そういえば、この間、天文部のみんなで撮った写真を現像したって坂口が言ってた。たぶん、あそこらへんにあると思う。一枚持っていって」

「ああ、あれね」

 少女は望遠鏡から離れると、机に近づいた。相変わらず雑多ながらくたに占領されたそこは、おもちゃ箱をひっくり返したようになっている。作りかけのジオラマが文鎮代わりに置かれた写真の山を見つけると、二枚引き抜く。友人と自分のぶんだ。

「はい、どうぞ」

「うん、よく撮れてるね」

 友人は写真を受けとると、どこからか一冊の本を取り出した。そして、そこにしおりのように写真を挟んだ。

 少女はちらりと友人の手元に視線を向ける。

「ねぇ、前から聞こうと思ってたんだけど、その本いつも待ってるよね」

 それは、手帳ほどの大きさの黒い表紙の本だった。それを友人がいつも持ち歩いていることは知っていたが、何が書かれているかまでは知らなかった。天体観測の記録でも書き留めていると思ったのだが、友人の反応は少し予想と違っていた。

 友人はなにか、世界の秘密に踏み込んだような難しい顔をして、唇に指を当てた。

「秘密」

「えー、教えてよ」

 ダメダメ、と友人は首を横に振った。

「これは絶対に教えちゃダメなのさ。だってこれは、トリトンの秘密だからね」

「……トリトン?」

 少女は首を傾げた。友人は深く頷く。

「うん。いつか世界を変える秘密の計画書なんだ」

「へー、それはすごいね?」

 少女は、いつもの友人の作り話だと思ったのだろう。よくわからないまま頷いている。

 友人は不思議な笑みを浮かべた。

「そろそろ、時間だね」

「うん」

 少女の顔に月の光が当たった。二人の夏服のシャツが白々と光る。

「あっ、流れ星!」

 外の騒がしさが伝わってくる。

 少女達は、そろってそれを見上げた。

 星が、雨のように流れていた。

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