鯨博士
そして、今に至る。
鯨について暑苦しく語る老人は、やはり研究者のようだ。千鳥はすっかり名前を聞くタイミングを逃してしまった彼を、こっそり鯨博士と呼ぶことにした。
鯨博士は、意気揚々と研究について語っている。
「それでその鯨の幼体は群れからはぐれた個体と思われたがしかし勇ましく海をひとりで突き進む姿にワシは深い感銘を覚えて追跡調査と個体識別のためにも名前をつけることにしたわけだが」
鯨博士はとにかくよくしゃべった。老人の話は長いと相場は決まっているが、どこかの誰かを思い出させるマシンガントークっぷりに、千鳥は慣れた様子で聞いているようで聞いていない受け答えをする。
「そうですね。それにしても気持ち良さそうですね」
「おお、わかるかね。波形を見るに、非常にリラックスした心理状態だ。気持ちよく歌っているのだろう」
鯨博士は成り立っているようで成り立っていない会話に、ウンウンと満足そうに頷いている。
黒い画面に表示される線の波は、難しそうな計算式や記号も一緒になって流れていく。信号に置き換わった鯨の歌は、重大な秘密を持った暗号のようだった。
「歌ったりおしゃべりしたり、人間みたいですね」
「うむ。鯨は非常に高い知能を持っているからな」
鯨博士との会話は、弾けて消える波泡のように、とりとめもなく続いた。
「じゃあ、泣いたり怒ったりもするのでしょうか」
「するだろうな。恋だってするのだから」
筋肉達磨から飛び出るにはロマンチックな言葉に、千鳥はクスリと笑う。
「素敵ですね」
ほう、と珈琲の匂いが残る息を吐く。
慣れない夜間バイトで疲れていた。穏やかに上下する波がまた眠気を誘う。ビーカーの底の珈琲は深い穴のようで、見つめていると落ちてしまいそうだった。
「……そろそろ解析が終わるな」
鯨博士は呟くと、空になったビーカーをデスクに置き、今さらながらに千鳥を見た。
「ところで、キミは誰だね?」
「い、いたーーっ!!」
千鳥が口を開くのと同時に、扉を蹴破って突入してきたのは、ピンクのクラゲだった。
「なかなか追いかけてこないから、また迷ったのかと思ってめちゃくちゃ探しちゃったよ! 鬼、こっちなのに!」
ぜいぜいと肩で息をするみなみちゃんに、千鳥はそういえば強制鬼ごっこ中だということを思い出した。
しかし、千鳥が何かリアクションする前に、白衣の壁が立ちはだかる。
「コラァッ!!」
叫ぶと同時に、鉄をも割りそうな拳骨が落ちた。
「ぐえっ」
断末魔の声をあげて、みなみちゃんが地に倒れる。
「……くっ、見つかってしまったか……」
「逃げるな!」
「うわわわ」
バタバタ暴れて逃げ出そうとするみなみちゃんをあっさりと捕獲した老人は、容赦なくクラゲの頭をむしり取った。
「痛、ちょっ、ちょっとやめて!」
「やっぱりお前か。何を遊んでいるんだか」
老人はクラゲから飛び出した少年の顔を見ると、深くため息をついた。
「遊んでないよ。超真面目な研究だよ!」
クラゲ頭を老人から取り返した折戸谷は、むすっとした顔で唇を尖らせた。
「ちっ、この時間なら邪魔が入らないと思ったのに、まさか遭遇してしまうとは……」
「ここで遊ぶなと、何度言ったらわかるんだ!」
なにやらぶつぶつ小声で呟いている少年に、鯨博士は肩を怒らせた。筋肉隆々の彼がそうするとかなりの圧になるのだが、少年は負けていなかった。
「だから遊んでないって。集客のためのイベント企画なの。だいたいいくら研究費が出るからってじいちゃんが好きなマニアックすぎる展示だけじゃ、お客さん来なくなっちゃうんだよ!」
「んなもん、どうとでもなるわい。まったく、若いうちから金かねと、夢がない」
「夢とかいうなら、ナイトミュージアム開催日増やしてよ。けっこうウケ良かったしー」
「ワシのかわいいお魚ちゃん達にストレスがかかるから却下じゃい」
「ケチ! ちょっとくらい良いじゃん。かわいい孫と魚とどっちが大事なんだよ」
「そりゃお前、魚に決まっとるわ」
「ひどい!」
「あ、あのー……?」
すっかり置いてきぼりの千鳥に気づき、折戸谷はクラゲ頭を抱えて眉をハの字に下げた。
「ごめん。驚かせたよね。たぶん名乗ってないだろうから補足すると、これ、うちのじいちゃんなんだ」
「折戸谷君の、おじいさん?」
ムキムキの老人と小柄な少年のイメージがまったく結び付かなくて、千鳥は困惑しながら少年と老人を交互に見た。
「これゆーな」
老人はぐりぐりと折戸谷の頭を手荒に撫でる。首がもげそうな勢いだが、あれで可愛がっているつもりなのだろうか。老人の大きな手のひらを押し上げて、折戸谷は白衣を摘まむ。
「じいちゃん、こう見えても海洋学者でね。ここはじいちゃんの作った水族館兼研究室なんだ」
千鳥はその言葉に思い出す。
水族館の正面入口にある、創立者であり館長である人物の紹介パネル。それに添えられた写真は、筋骨逞しい老人が白い歯を見せて笑っているものだった。千鳥は白衣に包まれた筋肉を指さして叫んだ。
「あっ、館長さん!」
「うむ」
鯨博士こと館長は、サングラスをぐいっと押し上げ、威厳たっぷりに腕を組んだ。だが、ピンクのシャツでクラゲが笑顔を振りまいていては、威厳とは程遠い。
「イベントの手伝いをしてくれたんだったな。ありがとうよ。あと、こいつのお守りもいつもすまんね」
「あっ、いえ、慣れてますから」
和やかなやり取りの向こうで、折戸谷はクラゲ頭を抱き締めて唸る。
「なんか今、すごくバカにされた気がする」
「気のせいじゃ」
「気のせいですよ」
「……まぁ、いいけど」
鯨博士は肩を竦める。
「まったく、こんな遅い時間まで若い娘さん連れ回して。いったい誰に似たんだか……」
「最後にひき止めてたのはじいちゃんだよね?」
孫の主張を無視した祖父は、明後日の方向を見た。
「ともかく、遊びはここまで。とっと帰れ」
ペッペッと手を振る博士。時計を見れば、すでに十時をまわっていた。
「ほれ、さっさと送っていかんか。気がきかんやつだなぁ」
「もう、わかってるってば!」
館長命令でお開きが決定する。
外に出ると、すっかり月が昇っていた。
またおいで、と手を振る鯨博士に別れを告げ、千鳥は折戸谷とそろって暗い道を駅に向かって歩いた。
見上げると、満天の星空だった。水槽の中の星空の輝きが、まぶたの裏に浮かび上がってきて重なった。
「あ、ポラリス」
折戸谷はひときわ強く輝く星を指さした。
「知ってる? 北極星ってひとつの星だと思われてるんだけど、実は三つの星が重なった三連星でね……」
折戸谷は楽しそうに解説している。普段のクラゲ姿だと忘れそうになるが、彼は天文部の部長である。そして、いくら叱られても懲りないのが、彼の通常運転である。
「あっ、次の企画、真夏の夜の水族館で肝試しとか、どうかな?!」
楽しい思いつきは尽きないらしい。
今日の反省だとか次の企画だとかの話をしていると、駅にはすぐに着いてしまった。千鳥はまぶしい灯に目を細めた。駅はまるで宇宙船の入口のように煌々と光っている。
「送ってくれて、ありがとうございます」
千鳥が改札口を通った直後、折戸谷が思い出したように声をあげた。
「あ、そうだ!」
ごそごそとポケットから何かを取り出すと、改札越しに少し湿った紙切れを手のひらに押し付けた。
「はい、これ」
「なんですか?」
電車がもうすぐ到着すると告げる合成音のアナウンスの向こう側で、少年が微笑んだ。
「魔法使いからの招待状」
「え?」
千鳥は目を見開いた。
カンカン、カンカン、音がうるさい。
「せっかく二人きりになろうと思ったのに邪魔が入るから、仕切り直さないとさ」
なにやら口の中で呟いているが、喧騒に紛れて聞こえない。改札口で立ち止まっている千鳥達の横を、他の乗客が邪魔そうに通りすぎていく。
「え、いま、なんて……」
ちょうどその時、電車が到着した。千鳥が気をそらした一瞬に、少年は駅を飛び出していた。
「じゃ、また明日ね!」
ブンブンと元気よく手を振って、あっという間に行ってしまう。
「……はぁ、また明日……?」
ナイトミュージアムは今日だけのイベントで、明日は休みのはずだが。千鳥は首を傾げたが、聞き直そうにも少年の姿はすでに消えている。明るい改札口の向こう側は、宇宙のように真っ暗だ。
まもなく発車しますのアナウンスに、立ち竦んでいた千鳥は、はっと我に返った。
あわててホームを駆け抜けて、人がまばらな電車に乗り込む。飛び込み乗車はご遠慮ください、の声も、発車した電車から通りすぎていく。
つり革に体重を預けて、静かな振動に身を任せた。座席に居眠りしている学生のイヤホンから音楽が漏れていて、とぎれとぎれのメロディが聞こえる。
ふと目に入ったつり革広告は、美しい海の写真だった。誰か有名な写真家の回顧展のポスター。
千鳥はもう一度、押し付けられた紙切れを見た。海をそのままインクにしたような色のチケットだ。
「あ、これ」
つり革広告の写真展。その招待券だった。
「普通に言えばいいのに……」
また明日。
たぶん、あれが約束の言葉だったのだろう。唐突な上、こちらの都合などお構いなしの迷惑な約束。なのに楽しみにしている自分がいる。
千鳥はとろけるような眠気に任せて、瞼を閉じた。
「やれやれ。まさか、あの子を連れてくるとはなぁ」
老人はアゴをさすってため息をつく。研究室のデスクには、空のビーカーが二つ残されていた。
鯨博士は停止した波形に視線を向けた。点滅を繰り返す記号は、あるひとつの結論を示している。
「なるほど、本物というわけか。あれが興味を示すわけだな」
ぶつぶつと呟きながら、すさまじい勢いで解析結果を読み解いていく。サングラスに、びっしりと並んだ大量のデータが映り込んでいた。
「さてはて、これから騒がしくなりそうじゃい」
博士はビーカーに新しい珈琲を注ぐ。あつ、あつ、と言いながら、苦い液体を啜る。真っ黒なディスプレイの中央で明滅する光は、まるで星のようだった。
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