鯨の歌

「と、いうわけで、じゃ! 立ちはだかる数々の困難を乗り越え、海底探査機がついに海溝に到達し、その神秘に包まれた未知なる領域の偉大なる冒険に」

 その老人は意気揚々と語りながら、ビールジョッキよろしく、ビーカーに入った珈琲をぐびりとあおった。まるで場末の飲み屋のカウンター席の、暑苦しい常連客のような絡み。千鳥は彼から出された、やはりビーカー入りの薄い珈琲をずぞっとすすった。

 真夏の海が似合うような男だった。短く刈り上げられた白髪からも、肌に刻まれたいくつもの皺からも、それなりに高齢であることはわかる。しかし、彼の太い腕やら胸板やらは、鉄で叩いてもへこまないだろう固い筋肉でできていた。そしてそのパチパチの立派な筋肉を包むのは、ショッキングピンクのTシャツであり、やや顔の伸びたみなみちゃんがスマイルを投げつけている。ダメージジーンズに皮のベルト、足元はビーチサンダルで、室内なのに黒いサングラスをかけていた。そしてその海の男スタイルの上に、医者や研究者が身に付けるような白衣を引っかけている。

 自分が何故深夜の水族館で、見知らぬ老人を相手にビーカーから珈琲をすすっているのか、千鳥の理解の範囲は軽く飛び越えていたので、考えることはやめてただ受け入れることに徹する。

 もろもろの疑問と一緒に、黒い液体を飲み干す。珈琲は薄いくせにとても苦かった。




「と、いうわけで! 美波水族館夏休み特別企画第二段、私を捕まえてごらんなさい、みなみちゃんと水族館で鬼ごっこ大会!」

 ナイトミュージアムが無事に終わり、一息ついたところで、みなみちゃんからお誘いがあった。能天気な顔をして、実は仕事にとても意欲的らしい。

「次はこの企画でいこうと思ってるんだけど、どうかな! いいと思うんだよね、水族館って部屋がいりくんでて、かくれんぼとか鬼ごっこには最適っていうか! 水族館を探検しつつみなみちゃんとも戯れられるし、おとなしくなりがちな室内企画にアクティブな要素を」

「えっ、えっ?」

 とにかく一気に早口で捲し立てる。彼は新しいことや楽しいことを考えるのが大好きだが、夢中になったときのマシンガントークはかなりの攻撃力を誇るのだ。精神的にも物理的にも、被弾中の千鳥を完全に置き去りにして、軽やかに笑いながら廊下を爆速で進んでいくピンクのクラゲ。

「て、ゆーことで、わたしをつかまえてごらんなさーい!」

 叫びながら小さくなっていくクラゲの笑顔を、千鳥は呆然と立ち尽くして見送った。

「……あっ、待ってください!」

 そしてピンククラゲが廊下の向こうに消えてから、ようやく我に返る。鬼ごっこという言葉に千鳥はあわてて走り出すが、もう遅かった。

「ここ、どこでしょうか……」

 勝手にゲームを始めてしまったみなみちゃんを追いかけて、暗い水族館をさ迷う千鳥。

 水族館のバイトも初めてではなく、それなりに館内のバックヤードを含めて詳しくなったつもりだったが、まだまだ新米バイト、小さいと思っていた水族館も、知らない部屋や施設がたくさんあるようだった。

 さっきから、暗い廊下がずっと続いている。あきらかに展示室とは違う雰囲気で、無機質な部屋は学校や病院を思わせた。同じサイズ同じレイアウトの灰色の小部屋が、規則正しく並んでいる。

 千鳥は気づいていなかったが、水族館に併設されていた研究棟に入り込んでいたのだ。

 美波水族館は大学の付属機関であり、その広大な大学敷地内に併設されている。水族館という外へつながる入口を越えて奥へ奥へと入り込めば、そこは何でも飲み込む深く広い知恵の箱。千鳥は知らず知らずのうちに、その深淵に入り込んでいた。

 たいして長い時間ではないだろうが、一人きりという心細さに何時間も放浪した気になる。バイト中だったので、携帯電話は鞄の中だ。

 みなみちゃんは、いったいどこまでいってしまったのだろう。いいかげん、あきらめて戻ろうかと思った時には、すでに現在位置すらわからない。とにかく、前に進むしかなかった。

 そしてどれくらいさ迷ったのか、廊下の先に、ついに明かりが漏れているのを見つけた。

 まさに、砂漠で発見したオアシス、海底に見つけた宝船。千鳥は喜色を浮かべて明かりを目指して走った。それはまるで海底に潜み、疑似餌で獲物を誘き寄せる捕食者に、まんまと騙される小魚のようだった。

「あ、あのー……」

 千鳥は薄く開いていた扉をそっと押した。鍵はかかっておらず、扉は簡単に開いた。

 そっと覗き込むと、部屋には誰もいない。

 パソコンのディスプレイがつけっぱなしになっていて、そこから青々とした光と、ノイズのような音がこぼれていた。

 その部屋を見て千鳥が最初に思い浮かべたのは、学校の理科準備室だった。様々な薬品や実験道具、分厚い本やガラスケースに納められた標本が規則正しく陳列されている。

 しん、と冷えた空気に、薬品と埃の混じった独特の匂い。蛍光灯の目が痛くなるような光と、暗い廊下のギャップに目眩を覚える。その白昼夢のようなふらつきの中に、鮮烈な青が目に入った。足は自然とそちらに向いていた。

 パソコンに流れていたのは、海の映像だった。空中撮影だろう、青々と光を弾く大海原を見下ろしている構図だ。

 白い波を切り裂いて突き進む、一頭の鯨を追いかけていた。鯨に平行して飛んでいくのは、小さな黒い鳥。燕だろうか、はるか彼方から海をわたってやってきた渡り鳥だ。黒い流線型の大小の生き物が海を走るその光景は、千鳥の目を奪った。

 聞こえるのはBGMの音楽ではない。潮の渦巻く音、鯨の尾が海面を叩く音、風に乗って鳥が流れる音、そういったただの環境音の中に、かすかに混じる振動のようなもの。

 海の映像を流すディスプレイの隣、計器らしきそれからは複雑な波形がうねりながら流れている。激しく小刻みに上下したり、穏やかな一定調子で流れたり。

 千鳥は耳を澄ました。記憶のどこかにひっかかりを覚えて、首をかしげる。

「……このメロディ、どこかで聞いたことがあるような……?」

「それは、歌を抽出しているんじゃよ」

 いきなり背後からかけられた声に、千鳥は文字通り飛び上がった。

 振り返ると、目の前に分厚い筋肉があった。いつの間にか、見知らぬ老人がすぐ後ろに佇んでいた。巨岩に挟まれたような圧迫感に、千鳥は思わず息を止める。

「あ、あの……」

 とっさに声をつまらせた千鳥の横を、スタスタと老人は素通りする。てっきり咎められるかと身構えた千鳥だったが、肩透かしを食らって立ち竦む。

 老人はそんな千鳥を気にする風でもなく、自動的に映像を流し続ける薄い箱を、ひょいと覗き込んだ。

「収集した音と電波の解析を同時に行っておるのだ。これはワシがプログラミングした解析システムで、鯨の感情レベルまで細かく音を分析する。この、鯨の歌をな」

 老人の言葉に、千鳥は目を瞬かせた。

「……鯨の歌?」

「うむ。歌であり、言語でもある」

 勝手に部屋に入ったことを咎めるでもなく、初対面の千鳥の身元を確認するでもなく、老人は箱から流れる不思議なメロディについて語りだした。

 千鳥はその様子に何か既視感を感じつつ、老人の話しに耳を傾けた。

「鯨のエコーロケーションは、周囲の仲間とコミュニケーションをとるために発せられている。つまりは、歌で会話をしておるのさ」

 千鳥は平行する燕と鯨の姿を眺めた。それは、一緒に海を泳いでいるようにも見えた。

「……燕とお話しているみたいですね」

 千鳥のこぼれた呟きに、老人は、ほう、と軽く唸って顎に手をやった。

「うむ。それは大変興味深い視点だ。同種族間でのコミュニケーションと思われておったが、他種族にも使われていてもおかしくはない」

 老人はニヤリと笑うと、ぐいっと杯をあおるジェスチャーをする。それはそれは悪い大人の笑顔だった。

「せっかくだ。飲みながら話そうか?」

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