〈観察者Mと生物M〉マダムの講義
「では、流れ星が願いを叶えるメカニズムについて、講義をしたいと思います」
年齢性別国籍もバラバラな若者達が、一人の老婦人の元に集まっていた。これはオカルトや宗教ではなく、れっきとした権威ある大学の、ごくまっとうな研究室の、ごく真面目な講義である。集まった学生達も、優秀な頭脳を持ち将来を期待された若者達だ。そして彼らは、あるひとつの謎の解明の為に、その優秀な頭脳と貴重な時間を費やす変わり者でもあった。
彼女の講義は、とにかく風変わりで有名だった。
まず、彼女は講義中でも紅茶を欠かさない。今も彼女の目の前には、甘い湯気のたつ白磁のティーカップが置かれている。講義が開かれているこの場所も、殺風景な研究室ではなく、若々しい芝生が広がる中庭のような場所だった。古い大学にはこういった公園のような場所が残っており、現代的なビルディングと煉瓦造りの洋館が隣り合わせに並んでいたりする。ここもそんな歴史の隙間のような場所で、夏を目前に高く晴れた空の下、古いエニシダの木がある小さな中庭だった。鋭い刺のような葉を繁らせた樹木の前に猫足の英国式テーブルセットが設えられていて、彼女はいつもそこに座っていた。
生徒達は芝生にハンカチを広げたり、直接の腰を下ろしたりしてくつろいでいる。まるでピクニックでもしているような、とても講義中には思えない風景だが、優美な老女が若者達に穏やかに語る姿は、なにか厳かな儀式のようでもあった。
彼女はその貴婦人のような佇まいから、博士や教授ではなく「マダム」と呼ばれていた。
マダムの講義は、いつもこの台詞から始まる。
「魔法は存在するのか。それを証明してみましょう」
そう、この研究室が扱うテーマは「魔法」
魔法という存在を、哲学、自然科学、歴史学、文学、経済学、美学、法学、工学、医学、ありとあらゆる学問から読み解く。そのため、集まった学生の専分野も多種多様で、さながら人類の持つあらゆる知識がここに集まっていた。
フィクションだ、迷信だと笑われつつもなぜか消えることなくずっと存在し続ける。疑心と信心の中間地点にある、おまじない、噂、民間伝承、都市伝説。願望の顕在化、そのひとつの形。魔法の存在証明。それがこの講義における主題であった。
生徒の間では、この風変わりでありながら人類の叡知が集う異端の講義を、ひそかに魔女のお茶会と呼んでいた。
「今日は聴講生がいましたね」
はい、と立ち上がったのは、東洋系の女性だった。
「ミツキです」
「では、ミス・ミツキ。自己紹介をどうぞ」
「はい。専門は宇宙工学です。今日は流れ星についての講義と伺ったので、聴講を希望しました」
彼女は少しくせのある英語で、控えめに発言した。黒い長い髪がいかにも大和撫子の、しかし意思の強そうな瞳の女性だった。
「そもそも流れ星と一言で言っても、天文学的に見れば、それが流星なのか箒星なのかも不明ですね」
混同されがちだが、両者は違うものである。箒星とは太陽の周囲をぐるぐる回っている主に氷でできた天体で、太陽の熱を受けて溶けたとき、尾のように後をひいたもの。対して流星とは大気圏に突入した砂粒が摩擦で溶けて光って消えたものである。
「願いを叶えるって、信仰のようなものだろう?」
発言したのは宗教学を専攻する学生だ。彼は文学や歴史学にも造形が深い。
「都市伝説は歴史や経済に色濃く影響している。抑圧された民衆心理の……」
「3という数にも注目したらどう。宗教的にも意味がある数字よ」
学生達はすでに議論を始めている。マダムの講義は、講義と言っても教師が生徒に教えるというよりも、思考することそのものが主で、学生達は自由に議論を交わしている。
「流れ星は、中国でもヨーロッパでも、世界的に見ればどちらかといえば凶兆でしょう。空の星は誰かの命で、それが流れるということは、誰かの死を意味するというものが多いですね」
「空に自分の星があるというものですね」
「この願いの流れ星は、カトリックの古い信仰の中にルーツがあるという説があります」
「天国のドームですね」
「それなら、やはり信仰でしょうか」
「宇宙と信仰は切り離せないものでしょうね。宇宙はとても遠い。手が届かないこそ、多くの宗教で神のいる場所もそこに定められている。世界の始まりと未来の終点を解き明かすために、人類は様々な思考を巡らせてきました」
マダムは生徒達の会話を遮ることなく、自然に言葉を落としていく。
「世界中に似たような伝承が存在しますね。それはいったい、誰が言い出して、誰が広めて、誰が受け止めていくのか。瞬間のきらめきのようであり、脈々と受け継がれる伝統のようでもある」
「はい、マダム」
「なんでしょう、ミス・アームストロング」
海色の瞳の若い女性は、涼やかに立ち上がった。飛び級も多いこのクラスは、年齢の差も大きいのだが、そのなかでもずいぶんと若い。まだ少女のあどけなさを残す彼女は、ハキハキと答える。
「流星の生存時間は一秒から二秒。実質、願いを三回も言うのはとても難しい。それは隠喩ではないのでしょうか」
「つまり?」
「願いは叶わない」
「身も蓋もないなぁ」
生徒達からブーイングが起こる。
「あの……」
「ミス・ミツキ。なんでしょう?」
おずおずと手を上げたのは、聴講生の女性だった。
「この講義に関係があるかはわかりませんが」
彼女は伏し目がちに口を開いた。
「流れ星に関する、こんなおとぎ話を友人に教えてもらいました」
彼女が語るそれは、民俗学や文学を専門とする学生も知らない物語だった。
「水が蒸発して空に向かって上昇し、冷えて雨になってまた地上に落ちるように。ひとの願いが空に昇り、ひとつに固まって重くなり、空から落ちたものが流れ星なのだそうです。流れ星は燃えて消えてなくなるのではなく、そのまま海に落ちて深海の底にまで沈んでいく。そして、そこには魔法使いがいる。深海の魔法使いが、気まぐれに落ちてきた願いを叶えるのだと」
「聞いたことがないね。もしかしたら、その友人の創作だったのかも?」
「そうなのかもしれません。彼女はとても海が好きだったから」
「大変興味深いお話ですね」
マダムは微笑む。
「海は宇宙と同じくらい、人間の手が届かない遠い場所です。月へ行くのと深海へ行くのと、どちらが困難なのかわからないほど」
マダムの講義はそのスタンスから、とにかく話題が飛びがちだ。それはただの雑談であることもあれば、哲学の本質的な理解であることもあった。
「海は、すべてを飲み込む巨大な装置です。人を含めたありとあらゆる生き物を循環させる世界装置」
マダムはまるで、魔法使いの呪文のような言葉を口にする。
「マダム、それはどういう意味なのでしょう?」
「生物の進化の歴史? それとも生態系の循環?」
優秀な学生達の頭脳をもってしても、彼女のその不思議な言葉をどう受け止めていいのかわからず、顔を見合わせた。
「……深海にいるというその魔法使い、会ってみたいものですわね」
しかしマダムの答えはない。ただふんわりと微笑んで、紅茶を傾けるだけである。
その後も、ありとあらる学問の視点から議論をかわしたのだが、結局のところ、こういう結論に行き着くのだ。
「やっぱり、流れ星は願いを叶えないんじゃないか」
学生達がたどり着いた答えに、マダムはそうですね、と穏やかに頷いた。
「流れ星が願いを叶えるというおまじないは、実証できませんでしたね」
魔法という研究テーマを扱う彼女が、身も蓋もなくそう言う。
彼女は決まりごとが多い。決まった会話の順に紅茶に中庭。そして講義の最後に必ず告げられるこの言葉も、彼女のお決まりだった。
そう、つまるところ、彼女が証明したいのは。
「この世界に、魔法は存在しません」
マダムはきっぱりと魔法の否定を宣言する。
「ですが、ただひとつの例外があります。まるで魔法としか考えられないような不可思議な存在」
マダムの研究は、つまり、この魔法は存在しないという彼女の定義を証明するために、その魔法としか考えられないそれの正体を暴くことにあった。
「ミミックとは何なのか。それを解き明かすのが、私の使命です」
慣れっこの学生達は、ちゃかして言う。
「もしかして、ミミックは宇宙人とか?」
「いえ、違うと思います」
講義の作法に慣れていない聴講生に真面目に答えられて、お調子者の彼は肩を竦めた。マダムはくすりと笑う。
「彼らはこの地球の生命体であることに疑いはありません。しかし、彼らの擬態には、魔法としか思えない現象が起こっている」
「それを解明するのが僕らの仕事なんだよね」
「そうね」
いつもなら、ここで講義は終わる。けれどその日、マダムはとても珍しく、こう続けた。
「指定外擬態生物郡、通称ミミックについて。新しい発見がありました」
学生達は少なからず動揺した。かすかな緊張が、和やかだった空気に広がる。
「ミミックは必ず身体の一部に、星形のあざのようなものがあります。擬態痕、と呼ばれるものです。あざのある位置や大きさは個体差がありますが、それは一様に星のような形をしているので、ほとんど人間と変わらない彼らをミミックだと判断する、貴重な手がかりと言えます」
しかし、とマダムは続ける。
「実は、この星形のあざは、ミミックだけに発現するものではありませんでした」
「と、いうと?」
「擬態痕を持ちながら、その人々はミミックではなく、ごく普通の人間でした。そして、その擬態痕を持つ人間と、まったく同じ姿をしたミミックが発見されたのです」
毒などの攻撃手段を持たない昆虫が、毒を持つ似たような種族の姿を真似て、捕食者の目をくらませるという擬態の形式がある。しかしそれは漠然とした特長を真似るだけのものだ。
「ミミックの擬態は、精密なコピーだったのです」
学生達の間に、静かな興奮の波が広がっていく。ほとんど何もわかっていないミミックの謎の、ごく一部とはいえ、解明の光が当たったのだ。
「ミミックの擬態は、個人レベルで行われていました。容姿、年齢、性別……ホクロの位置さえも同じ。ひとりの人間をまるまるコピーする。それは本当に精密で、ミミック同士ですらお互いがミミックだと気づかないケースすらあるようです」
「では、あざのあった人間というのは」
「ミミックの、擬態モデルになった人間です。モデルとなる人間と、擬態したミミックの持つ擬態痕は、完全に同じでした。身体の同じ場所、同じ位置、同じ形に現れる」
「それは、ミミックがコピー擬態をするときに、なんらかの痕跡を残しているということですか」
「虫刺されの痕みたいなものかな」
「やだ、蚊じゃないんだから」
クスクスと笑う学生達に、マダムも苦笑する。
「ブライアン、もう少しロマンチックな表現力を持たないと、シャーリーに逃げられてしまうわよ」
青年は焦ったように立ち上がった。
「なんで知ってるんですか!」
「だってマダムは魔女だもの。なんでも知ってるの」
仲間の一人が青年をからかう。マダムの佇まいや不思議な雰囲気は、確かに魔女のようであった。ただ、魔法を否定する魔法使いであるけれども。
「まるでマーキングですね」
「ミス・アームストロング。その意見には私も賛成です。なんらかのしるしと思われます」
マダムの首肯に、学生達の議論は再び加熱した。
と、そんな中。
「……それは、絆という意味ではないのでしょうか」
また、控えめな声があった。例の聴講生である。
マダムは一瞬、驚いたように目を丸くする。そしてふわりと微笑んだ。
「おもしろい見解です」
「あなたの意見は興味深いわね。少なくとも、私にはない発想だわ」
「……ありがとう」
二人の女性は視線をかわす。海色の瞳と、深海のような黒い瞳が、じっと見つめ合う。
「……紅茶が冷めてしまいましたね」
マダムは底に少しだけお茶が残ったカップを、ことりとテーブルに置いた。
今日の講義はこれで終わり、という合図である。
「次の講義では運命の赤い糸の実証実験を行います」
次の講義も予測がつかない。しかも実証実験である。いったい、なにを行うつもりなのか。
「ずいぶんとロマンチックな課題ですね」
「でも、これはこの研究室が始まって以来の難題かもしれないよ」
「まったくだ」
若者達の笑い声が青空に軽やかに響いた。
「実験の前に、いくつかの前提条件を決めておきましょう。まず、運命の定義について……」
アームストロング博士は、恩師が高齢で引退する時に譲り受けたティーカップを、ゆっくりと傾ける。そして、かつて彼女から教えられた言葉を、おまじないのようにそっと口にする。
「……この世界に魔法は存在しない。けれど、ミミックという魔法じみた何かだけは、確かに存在する。その魔法を解き明かすこと、それが私の使命」
カップの底に残ったわずかなお茶に、海色の瞳が歪んで落ちている。博士はカップを静かに置いた。
それは、終わりの合図だった。
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