ナイトミュージアム
「こっちだよー、おいで、おいで」
フリルのスカートをひるがえし、巨大なクラゲが手招きする。ピンクのクラゲに導かれて、青い光の間をふわふわと泳ぐように進む子ども達。
今宵は、みなみちゃんが夜の海の世界を案内する、特別なツアーだ。
しんと静まり返った夜の水族館は、ひんやりとした不思議な空気に満ちていた。
明かりはギリギリまで落とされ、通路と水槽の一部を照らすだけになっている。スポットライトのように絞った照明が照らす水槽は、見慣れたもののはずなのに、全く違った何かに見えるから不思議だ。
その中でもみなみちゃんは、闇の中に光をまとってぼんやりと浮かび上がり、夜の妖精めいていた。あの能天気な顔すら厳かな雰囲気を醸し出しているのだから、夜というのはそれだけで特別なものなのだろう。
特にあまり夜更かしを推奨されない子ども達にとって、夜は未知の世界だ。そわそわする気持ちを隠しきれずに、けれどもこの静謐に飲まれるように息を押さえて、じっと水槽を覗き込んでいる。まるで夜を覗き込むようなその特別な鑑賞は、彼らの冒険の始まりなのだ。
「お魚さんも寝るの?」
「魚ってまぶたが無いんだ。だから、寝ててもわかんないの。泳ぎながら眠る器用なやつもいるんだよ」
解説のみなみちゃんを先頭に、親子で手をつないだ子ども達の列が続く。その列の最後、少し間を開けて着いていくのは千鳥だ。
「深海パスポートをこちらにお願いします」
「はい、スタンプを押しますね」
定期的にバイトに駆り出されているため、最初の頃に比べてチケットを受けとる姿も板についてきている。もうすっかりスタッフの一員である。
「はい、ありがとうございます。では、ナイトツアーをお楽しみください」
差し出される深い海色の小さな本は、この特別な夜の招待券でもある。千鳥は慣れた手つきで参加済みのスタンプを押し、参加賞のみなみちゃんストラップを手渡した。
最後の参加者が列に並び終わると、ナイトツアーの始まりである。水族館のマスコットにして解説魔のピンクのクラゲが案内人だ。相変わらず気の抜けるような顔に、ふりふりのスカートをひるがえし、その尾ひれに子ども達をくっつけている。
ツアーは寝静まった魚達の水槽の間を抜け、夜行性の生き物を中心に回っていった。案外夜行性の水生生物は多く、昼間には活動が見られない種類などは貴重な動く姿を見ることができるので、見ごたえがあった。夜の水族館という特別なシチュエーションも、冒険感をうまく演出している。
この企画は館長の肝いりとかで、みなみちゃんの固定笑顔にも気合いが入っているように見えた。
もともと子どもを対象にしていたので、長時間のツアーではない。たまにみなみちゃんの解説が脱線したり、エキサイトしすぎてタイムキーパーのスタッフにこっそり睨まれていたりしたが、おおむね順調にツアーは進んだ。あっという間に展示室は、最後のひとつになっていた。
「さぁ、いよいよここが最後の冒険。ゴールはもうすぐだよ!」
みなみちゃんは、声をひそめているのに元気よくという離れ業の宣言と共に、くるりと優雅に一回転。踊るようなステップで、分厚いカーテンに潜った。
みなみちゃんの後に続いて子ども達が次々にカーテンに飲まれていくと、千鳥もその後を追って、するりと真っ暗な部屋に身を滑り込ませた。
そこは、小さな暗い部屋だった。四方を壁で囲まれて外の光が入らないように徹底的に調整されているので、列の前の人すらよく見えないくらいに真っ暗だ。
千鳥は部屋の隅っこのスタッフ待機位置に立ちながら、ふと思い出していた。
「……そういえば、ここでユウちゃんと出会ったんでしたね」
今日はユウは参加していないようだ。魚好きなあの子なら、参加したがるかと思ったのだが。少し残念に思いながら、千鳥は今回のツアー、最後のイベントが始まるのを見守った。
「みなみちゃん、どこー?」
案内人の姿を見失ってしまった子ども達が、不安げな声を上げていた。あんなに目立つ派手で巨大なクラゲが、闇に溶けてしまったように姿が見えない。
「ふふふ、ショータイムのはじまりはじまりー」
ふいにみなみちゃんの含み笑いが部屋に響いたかと思うと、正面に不気味な赤黒い水槽が浮かび上がった。照明が赤いので、水の色も血のように赤く染まっていた。
水槽の中は、空っぽだった。灰色の砂やゴツゴツとした岩が底に敷き詰められているくらいで、魚や海老のような生き物の姿がまったくない。岩影に身をひそめているのだろうか、それにしてもあまりにも殺風景で、寂しい水槽だった。
暗い背景と相まって、まるで異世界の荒野のようだ。恐いもの知らずのやんちゃな子ども達すら、怯えたように息をひそめている。
部屋にはたくさんの人間がいるはずのに、いやに寒く感じた。千鳥は腕で身体を包むと、ぶるりと身震いした。もともと水温管理に室内温度が低く設定されていることは知っているし、リハーサルですでに見たことがあるのに、ただこの目の前の色の無い光景に、凍えていた。
「さぁ、前を見てごらん」
声だけがどこからともなく響いてきた。それは確かに千鳥のよく知る能天気な部長のものだったが、遠い海の底から響いてくるような、すぐ耳元で囁かれているような、不思議な響きを持った声だった。その声が響くと、不思議と寒さが和らいだ気がした。
ふいに、水槽の中に、流星がひとすじ流れた。
えっ、と子ども達が驚いている間にも、星はひとつ、またひとつと増えていって、一瞬で星のキラキラに視界が埋め尽くされる。
「お星さまだ!」
わあっ、と子ども達の歓声が上がる。
それはさながら夜空に現れた流星郡のようだった。
子ども達のキラキラと輝く瞳のような星の瞬きは、生まれては消え、また生まれては消えるを繰り返している。
しかし、目の前にあるのは暗い水が満たされただけの水槽のはずだ。生き物らしい生き物の姿も見えない、寂しい水槽。それなのに、小さな光の粒子が無数に漂って明滅している。
「海の中にお星さまが落ちたの?」
子ども達がそんな疑問を浮かべていると、いったいどこに隠れていたのか、にゅうっとピンクのクラゲが姿を現した。
「ふふふ、みんな、驚いてるね」
「なんでー?」
「これなにー?」
子ども達の声に答えて、みなみちゃんは触手を揺らした。
「実はね、この流星の正体は、深海の小さな生き物なんだ」
もう一度、流星が水槽を横切る。
よく見れば、流星の先頭に青い魚がいることに気づくだろう。青魚が泳いだその軌跡を辿るように、光の筋が生まれているのだ。
「水中の微生物が、こうやって魚なんかとぶつかって衝撃が加わると、光を放つんだ。それが星みたいに見えるんだよ」
みなみちゃんが流星の正体を教えてくれる。
流星の先頭を泳ぐのは、メカニマルという機械の魚だった。流線型の体に大きな尾ひれは、青くカラーリングされていた。まるで本物の魚のようにすいすいと水槽を泳ぎ回って、新しい星を次々に生んでいた。
「ようこそ、深海の世界へ」
みなみちゃんが両腕を広げた。
「深海の生物は、低気圧と低温、乏しい資源に光もない過酷な環境に適応して、独自の進化を遂げた不思議な生物ばかりなんだよ」
みなみちゃんの言葉に合わせるかのように、徐々に部屋が明るくなる。流星が消えるのと同時に、部屋の中の他の水槽の姿も浮かび上がってきた。
それは不思議の一言だった。貝とも海草ともつかない妙なもの、目玉やヒレが異様に大きな魚、蛇のような長細い体の目のない魚、ほとんどが透明なゼラチン質の魚らしきもの。
「深海の底って、なにもない荒野みたいなところを想像するかもしれないけどね。実はこんなにも、おもしろおかしい生き物達がいっぱいいるんだ!」
「宇宙人みたい!」
子どもの誰かが、みなみちゃんを指さして叫んだ。
「たしかに月面と深海の底って似てるかもねぇ」
みなみちゃんはそう言いながら、ひらりと水槽の前で回転して見せる。
千鳥はその言葉に、いつか見た月面写真がふいに頭に思い浮かんだ。
月面といえば有名なのは、灰色のクレーターに、白い輝くシャトル、その前に銀色の宇宙服を着た宇宙飛行士が立っている写真だ。
宇宙遊泳するみなみちゃんの姿を想像すると、千鳥は思わずくすりと笑ってしまった。灰色の荒野に漂うピンクのクラゲの姿は、ずいぶんと楽しそうだった。
「もっかい光らせてー!」
「これ、きもちわるいー」
「みなみちゃん、これなにー?」
驚きで恐怖を忘れた子ども達は、あっという間に元気になると、みなみちゃんを質問攻めにしている。
ワイワイと楽しそうに、奇妙で案外多彩な深海の世界を満喫していた。
そうしてあっという間に、ツアー終了の時刻となっていた。
「……それでは、気をつけてお帰りください」
ナイトミュージアムは、大成功に終わった。
みなみちゃんは最後の一人が水族館の出口へ消えるのをずっと見守って触手を振り続けた。固定された笑顔だが、そこにはやり遂げた漢の顔が見えた気がした。宇宙人扱いされても、みなみちゃんは立派に案内人を務めきったようだ。
最後の親子を見送って、千鳥はほっと息をつく。
みなみちゃんはひょっこりと顔を出すと、千鳥の肩をバンバンと叩いた。
「おつかれー!」
「無事に終わってよかったですね」
ナイトミュージアム企画は初めての試みだったので、なかなか緊張していたのだ。他のスタッフも、大きな事故やミスがなくツアーを終えられたことを喜んでいる。
「それにしても、みなみちゃん、宇宙人って言われてましたね」
「失礼しちゃうよね。こんなにかわいい宇宙人、いる?」
みなみちゃんはクスクス笑う千鳥の顔を、じっと見つめた。なにやらもじもじとしていると思ったら、みなみちゃんがふいに顔を近づけてきた。
「えっ」
クラゲの顔に、なぜドキリとしてしまったのだろう。みなみちゃんは何も言わず、見つめ合うこと数秒。クラゲと見つめ合っているだけなのに、なんだろうか、この雰囲気は。くすぐったいような、落ち着かないような。
「あ、あの……?」
なんだかいたたまれなくなってきた千鳥が我慢の限界を迎えた頃、ふいにクラゲが笑った。
「ねぇ、深海パスポートは持っているかい?」
「はい?」
それは、渾身のいたずらを思いついた子どものように弾む声だった。着ぐるみの固定された顔に、満面の笑みが浮かんだように千鳥には見えた。
「みなみちゃんの特別追加コースへご案内ー!」
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