海の歌
「じゃあ、美波水族館夏休み特別企画~ドキドキワクワクみなみちゃんと一緒に夜の水族館を探検しよう! ナイトミュージアムへのご招待~の臨時バイト、よろしくね!」
「は、はい」
千鳥は、手がもげるのではと心配になるような激しい握手を、悟りを開いたような顔で受け入れた。
千鳥が折戸谷から水族館の臨時バイトのオファーを受けたのは、夏休み三日前のことだ。生徒達の夏服のシャツの白さと天高くそびえる入道雲の白さとどちらが鮮やかだろうか、空気すらも色づくような季節。潮風は熱に炙られ、湿気に海の匂いがさらに濃くなっている。美波高校は夏のど真ん中にいた。
「よかったー。夜間バイトだから許可してもらえないかもってハラハラしたよ!」
折戸谷は人員確保成功にほっと息をついている。
企画上就業時間が遅くなるため、ゆるい校風の美波高校といえども、学校へのバイト申請が必要だった。深夜のプール侵入前科持ちの天文部の面々は、若干審査が厳しいのだ。
「保護者同伴での特別許可ですもんね。でも、折戸谷君のご家族が、水族館のスタッフさんだと知りませんでした」
「あははー、まぁ、身内採用ってやつ?」
千鳥は知らなかったのだが、折戸谷の家族が正規スタッフにいるらしい。水族館のバイトをはじめたきっかけも、その伝手だそうだ。
「おかげでこき使われてるよ」
折戸谷は肩を竦めた。
「詳しい打ち合わせはまた今度するけど、パンフレットが……て、あれ、確かここらへんに……」
水族館のイベントチラシを探して、折戸谷はごそごそと机の上を漁る。天文部の部室である屋上天文台は、部員の私物で九割を占めている。それも現部員だけでなく、歴代の部員達の置き土産を含めて。作りかけミニチュアセットや大袋入りの駄菓子、星座占いの本など、星や星に関係のないものまで雑多に積み上がっていた。つまり、がらくたの山である。
「あ、あったあった……って、おっと!」
玩具山から目標物を発見したはいいが、なぜかパンフレットは山の一番下に挟まっていた。そして無理に引き抜いたために、案の定、山を崩してしまった。折戸谷は慌てて雪崩れを止めようとするが、すでに半分以上が机に散らばっていた。千鳥はおっちょこちょいの部長に苦笑する。
「片付け、手伝いますよ」
「あわわ、ごめんねー」
片付けているのかさらに散らかしているのかわからない折戸谷の隣で、千鳥はテキパキと片付けていく。
ちなみにミホは運動部のミーティングで不在だ。深海の姿もない。結局、深海とは七夕以降も会っていなかった。
片付けの途中で、七夕で用意した短冊の残りが雑誌の間に挟まっているのを発見し、千鳥はくしゃくしゃになった白紙のままの紙切れを抜き取ると、ぼんやり眺めた。
「そういえば深海君のお願いごとって、なんだったのでしょう……」
ふと、七夕のささやかな出来事を思い出す。彼の幼い弟と、揺れる短冊。笹にはたくさんの願いごとが、滝のように流れていた。
「ん、なんかあった?」
折戸谷が顔を上げて、きょとんとした表情を千鳥に向ける。ぼんやりしていた千鳥は我に返ると、なんでもないと返そうとしたのだが、折戸谷は千鳥の手元に視線を落とし、ああ、と勝手に頷いていた。
「あ、それ、まだ残ってたんだ」
「え?」
千鳥は無意識だったのだが、偶然掴んだがらくたのひとつに、折戸谷はひょいと手を伸ばした。
それは、プラスチックの薄い板だった。手のひらにおさまる小さな長方形の箱に、丸い穴が二つ、内部に黒いテープが巻かれている。千鳥はそれを見たことがなく、用途不明の品物に首を傾げることになった。
「カセットテープだよ。見たことない?」
それは、はるか昔の音楽記録媒体だ。折戸谷はさらにテーブルの下からカセットテープの再生機であるラジカセを発見すると、ホコリを払って持ち上げた。
「歴代の天文部の先輩の置き土産なんだよね。そのテープにラジオとかで流れた音楽を録音してあるの」
電池を入れてボタンを押すと、かちゃっと音を立てて窓が開く。
「しばらく使ってなかったけど、まだ動きそうだね。試しに流してみようか」
劣化していないといいけど、と、折戸谷はふっとテープに息を吹きかける。
「なにか、聞きたいのある?」
千鳥はカセットの背に貼られたラベルを眺めてみるが、知らない曲ばかりだった。
千鳥は首を横に振る。
ラベルはすべて手書きの文字で、かわいく丸まった女の子の文字だったり、太い油性マジックで豪快に書きなぐられた文字だったり、繊細なレタリングの英文だったりした。
録音者が違うのだろう。暇つぶしだったのか星を見上げる夜のためのBGMだったのか。薄い半透明の箱の中に閉じ込められた音楽は、気まぐれで、年代もジャンルも歌手もてんでバラバラだ。
「……聞きたい音楽がわからないのは、人生に迷っているからなんだってさ」
折戸谷はなれた様子でカセットテープをラジカセに入れると、巻き戻し戻しボタンを押した。キュルキュルと不思議な音がして、テープが巻き戻っていく。
「だから、きれいな歌をたくさん聞くといいよ。知らない歌や懐かしい歌や、とにかくいろいろ」
カチッと音がして、テープが止まる。最初の曲に戻ったようだ。
「たくさん聞いていれば、ふと何が聞きたかったのか、わかる瞬間があるんだ」
「……私にも、見つかるでしょうか」
彼は白い歯を見せて、にかっと笑う。
「もちろん」
そのあとすぐに照れたように鼻の下を指で擦った。
「ま、じいちゃんの受け売りだけどね」
少年は再生ボタンを押した。
「これ、僕のお気に入りの歌なんだ」
少しのノイズのあと、流れ出したのは、ゆっくりとしたリズムの歌だった。
聞いたことがない曲だった。
耳を澄まして聞いていると、それは海の歌だった。
「ちょっと古い歌だけど、海を眺めながら聞くには最高なんだよ」
少年の指が机を叩く。軽やかに通りすぎていく、さざ波のようなリズムだ。海の歌が、天文台のコンクリートに反響して広がっていく。
千鳥は目を閉じた。この歌を残した人は、きっと海が大好きだったに違いない。
「楽しみだね」
少年の声は、白波のように軽やかで楽しげだった。千鳥は素直に頷いた。
「そうですね」
だって、明日から夏休みなのだから。
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