〈博士Aと役人A〉ユーマ

 役人のスーツのポケットがまた振動した。

「ちょっと失礼」

 役人は短く断りをいれると、携帯電話をいじりながら席を立ちまたすぐに戻ってくる。この会談が始まってからすでに数度中座しているが、博士は気にした風でもなく、自分のために入れ直した温かな紅茶を口に含む。ミントティーの瑞々しい香りが爽やかだ。

「何度もすみません。打ち合わせ中だと部下には言ってあるんですが……」

 役人の疲れの濃いため息に、博士は社交辞令として労いの言葉をかけた。

「そういえば、市民対応もされているのでしたね。一般の人々のミミックに対する間違った知識や対応も問題になっているとか。偏見や事故も多いのでは?」

「ええ、遺憾ながら。一般人とミミックの接触は、本当に気を遣うので……」

 何か厄介な案件を抱えているのだろう、役人の表情は厳しい。

「法的整備も間に合わず、勧告しかできないのが歯がゆいところです」

 博士はティーカップを置いた。

「例のイレギュラーですか?」

 博士の何気ない言葉に、役人は一瞬手を止め、それから緩やかに微笑んだ。

「……よくご存じですね」

「ええ、一応研究者ですから」

 博士は優雅に微笑み返し、ティーカップの縁についた口紅を指先でぬぐった。役人は諦めたように肩を竦める。

「まぁ、秘密にすることでもありませんが。むしろ、対応策について博士にご相談したいくらいで」

「私も断片的な情報と仮説があるだけですが」

 博士は壁に並ぶ水槽のひとつに視線を向けた。この研究室には無数の水槽があるが、その中でも取り立て変わったところのない地味な水槽だった。中にいるのは無数のクラゲで、つぶれたまんじゅうのような半透明の円盤が、いくつも折り重なってゆっくりと水に流れている。

「環境省では、そのイレギュラー存在の扱いに関して内部でも意見が割れている状態でして。というか、そもそもそれがどんなものかはっきりしていない」

 はっきりしないのはミミックという存在そのものに言えることであるが。博士は頷く。

「私はそれを、ユーマと呼んでいます」

「……ユーマ、ですか。確か、未確認生物の和製英語ですね。オカルト、いえ、SFでしょうか?」

 その手の雑誌や自称情報通のオタク達の間でまことしやかに囁かれる何か。役人は急に胡散臭くなった話に眉間に皺を寄せる。博士はその反応を楽しむように、ゆっくりとティーカップを揺らした。

「なんとなくその存在を感じていても、確かめることのできない何か。まるでミミックのようでしょう?」

 冗談めかした博士に、役人は仕事に追われるサラリーマンの疲れた顔で、淡々と質問する。

「トリトンとの関係は?」

 博士は肩を竦めて、さっと首を横に振る。

「わかりません。少なくとも、ティルナノーグ計画には記されていません。おそらくトリトンにとってもイレギュラーの存在でしょう」

 これは仮説ですが、と前置きして博士は続ける。

「ミミックの擬態のメカニズムは不明ですが、対象となる個人を模倣するという行程が必要不可欠だということはわかっています」

「コピーするには、そのコピー元が必要、ということですね」

 役人の確認に、博士はそうです、と頷く。

「例外はありません。いえ、ないはずでした」

「……と、いうと?」

 役人はユーマの正体に薄く感ずいて、眉間の皺を深くした。

「ミミックの定義は、人間の擬態モデルから姿を写し取った人類外種族のことです。ユーマは、ミミックの一個体とされていますが、しかしこのミミックを定義する条件に、ユーマは当てはまらないのです」

 もったいぶるように一旦口を閉じて、博士は海溝のように深くなる役人の眉間の溝を楽しげに眺めた。

「ユーマにはモデルとなる人間がいない。ミミックはモデルとの繋がりが切れると姿を維持できないとさえ言われています。それがどのようなシステムなのかわかりませんが、ミミックとモデルとなる人間との絆のようなこの繋がりは、ミミックにとっての生命線とも言えます。なにしろ、ティルナノーグ計画の根底を支えるシステムですから」

 博士の言わんとしていることは、役人にはよく理解できた。むしろ、諸々の使命が課せられている役人にとって、覆されてはならならいものですらあった。

 博士は役人の刺すような視線に悠々と微笑み返す。

「人間に依存しない擬態。いえ、それはもう、擬態ではないのかもしれない」

 博士はあくまでも研究者だ。自分の好奇心とただ自由に遊ぶ。少なくとも博士にとって、研究とはそういうものだった。役人は苦々しく言葉を吐き出す。

「……それはそもそも、ミミックなのでしょうか?」

 さぁ、と博士は肩を竦めた。

「だから、特異点なのですよ」

 博士は席を立ち、水槽のひとつに歩みよった。クラゲの水槽だ。ほんのりと赤いそれらは、ゆらゆらと博士の指先をすり抜けていく。

「クラゲはね、体組成の九割以上が水分なんですよ。水と、ほんのわずかな塩分や有機物でできている」

「まるで海と見分けがつかないですね」

 博士の突然の話題転換にも役人は慣れてきたようで、あまり興味なさそうに相づちをうつ。

 水槽にたゆたうクラゲ達は、海に半分溶けたような透ける身体を水の流れに任せ、ゆっくりとゆっくりと水槽じゅうに広がっている。まるでそれは、海の一部に溶けこもうとしているように見えた。

「永遠の命を持つクラゲをご存じですか?」

「永遠の命?」

 また飛躍する話題に、役人は目を瞬かせる。

「ベニクラゲという種です。永遠の命というと、それこそオカルトじみていますが、しかし事実その種は存在する。彼らはね、若返るのですよ。一度成体になった個体が、卵に戻り、また成長する。そうやってひとつの個体が永遠を繰り返すのです」

 自然界には驚くべき生態を持つ種族が多くいるが、その中でも不可思議を体現するような種だ。そして、それは人類の求める禁断の領域にごく近い。

「まるでおとぎ話の妖精のように、永遠の国の住人なのです」

 博士の話は脈絡ない。しかしそれは問いの答えだ。

「……それが、ユーマの正体だと?」

「可能性の話ですわ」

 博士はあごに手を添え、ふふ、と少女のように小首を傾げる。わかっていることは、ひとつだけ、と。

「それは海の底に潜んでいて、深海の彼女と呼ばれているそうです」

「…………」

 黙って考え込んでしまった役人を、博士は面白そうに眺めた。

「まぁ、本当に女性なのかわかりませんけど」

 博士は黒い本を引き寄せる。

「今までミミックと人間は、不可侵のバランスが保たれていました。しかし、ティルナノーグ計画、ユーマという特異点、あるいは深海の彼女。バランスを崩す要因は揃ってしまった」

 役人は、眼鏡の縁を指先で押し上げた。

「それは、忠告でしょうか?」

「いいえ、とんでもない」

 博士は笑顔で首を横に振る。

「ミミックという不思議の正体に迫るためには、必要な衝撃だと判断しますわ」

 博士の態度は、役人をけしかけているようにも思える。役人は目を細めて、博士の青い目を見つめた。気まぐれな海のような無邪気な色。

「水槽の中は安全です。ティルナノーグは完璧な楽園。けれど、退屈です。ユーマは楽園を飛びだした好奇心旺盛なピーターパンなのかも」

「無知の代償は高くつきそうですが?」

 嫌味のように役人は呟いた。

「無知は悪ではありませんよ。知の探求は無知の自覚から始まる。すべての偉大なる科学者たちは、無知から生まれたのだから」

「ユーマが何を夢見ているのか知りませんが、こちらとしては計画を引っ掻き回すのは勘弁していただきたいのですがね」

「それはなんとも。ティルナノーグ計画がすでに動き始めている以上、彼女の介入も視野に入れるべきでしょうね。なにしろ海は彼女のおもちゃ箱なのだから」

 博士はくるりと回転して、水槽に背を向けた。水槽の青い光に白衣と白い顔の輪郭が照らされて、なにか妖精じみていた。

「知っていましたか? 人間もほぼ八割が水分なのですよ。そしてその組成は、海水と酷似している」

 クラゲも人間もそう変わらないのだと言う博士。

「胎児は羊水の中で成長しますが、その様子はまるで生物の進化をなぞるようだと言われています。35億年ぶんの生命の進化を、生まれるために辿るのです」

 細胞だったものが、複雑な組織を獲得していく。魚類から爬虫類から両生類、そして哺乳類へと。えらとひれを捨て肺と足を得て。

「それは人もまた、海から生まれてくるということ」

 博士は微笑み、役人は唇を噛む。

「それは、海に支配されるということですか?」

「そうかもしれません。深海の彼女とは、海を支配する女王様なのかも。あまり下手なちょっかいをかけると、大変な事になってしまうかもしれませんよ」

「やはり、忠告ですか」

 役人は眼鏡をぐいと押し上げる。

 博士は恋歌のように囁く。

「いいえ、お誘いです。一緒に、その女王様を……」

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