七夕はいつも雨

 年代物のラジオから雑音混じりのメロディが流れて、天文台のコンクリートの壁に染み込んでいった。

 ラジオの隣の赤い魚の玩具を指でつつくと、コロンと転がって腹を見せる。ガラクタにしか見えないそれは、天文部の体験入部という名目のバイトで手に入れたものだ。思い返せば岬の小さな水族館は、不思議な出会いに満ちていた。

 夏休みもすぐそこに、明日は七夕だ。

「七夕の屋台、イカ焼きあるかなー」

 かき氷、たこ焼き、チョコバナナ、焼きそば、リンゴあめ、それからそれから、と指折り数える部長を、ツインテールの少女が呆れた顔で眺める。

「あんたは食べることしか頭にないわけ」

 よほど楽しみなのか、鼻歌が止まらない。商店街にある竹に飾るそうで、短冊になにやら書き付けている。千鳥の手元にも同じような短冊があった。部長から押し付けられたものであるが、まだ白紙だ。

「せっかく七夕なのに、天の川の天体観測とか、企画しなくていいんですか?」

 千鳥の何気ない言葉に、折戸谷は音を立てて固まった。それから、この世の終わりのような顔をする。

「ヤバイ……僕としたことが、こんな一般受けするイベントに乗り損ねるなんてっ……!」

 呻きながら頭を抱えた。デキル部員である千鳥は、落ち込む部長をすかさず励まし、別のことに意識を向けさせる。部長の扱いにもだいぶなれてきたようだ。

「元気出してください。ほら、短冊にお願い事書くんでしょう?」

「うぅ、どうか部員が百人できますように!」

 折戸谷は太いマジックで野望を書きなぐると、両手で挟んで深々と空を拝んだ。

 ミホは夏祭りにはそれほど興味がないのか、気だるそうに自慢のツインテールを指でいじっている。

「だいたい明日はバレー部の試合だしぃ」

 千鳥はふと、前から感じていた疑問を口にした。

「……あのぅ、ミホちゃん。私の記憶が確かなら、ミホちゃんと出会った時は兼部しているのは陸上部って言っていたような。でも、次聞いた時はテニス部で、今はバレー部って言いませんでした?」

 聞くたびに所属する部活が違う気がすると訴えた千鳥に、答えたのは折戸谷だった。

「ああ。こいつ、いくつも部活を掛け持ちしてるんだよ。全部で5つだっけ?」

「5個も?」

 驚いた千鳥に、ミホはさらっと頷いた。

「この天文部を含めれば6コよ。天文部は本当におまけだから、5.5ってところかしら」

「なんで小数点をつけるんだよ!」

 しかし、ミホの活躍は部長も認めるところらしく、まぁ仕方ないけど、と肩を竦めた。

「運動部のエースだから、あちこちから助っ人頼まれるんだよな。試合だけでも出てほしいって顧問や部員が頭下げに来るんだ」

「エースなんですか。すごいですね」

「えへへ、そう?」

 折戸谷と千鳥にほめられて、ミホは照れたようにツインテールをクリクリと指でいじった。

「そんなわけだから、敬いなさいよ!」

「いや、天文部において運動部の実績は関係ない」

 平常運転で騒がしい天文台には、最後の部員である深海の姿はなかった。彼は幽霊部員らしくめったに顔を見せない。彼の撮影した海の写真が、彼の代わりに騒がしい仲間達を見守っていた。

 玩具の赤い魚を眺めて、千鳥は彼の無口な弟を思い出していた。海辺のアパートを訪れたのは、つい昨日のことである。

「……金魚、やっぱり飼いたかったのかな」

 ちゃぶ台の下に隠された空っぽの金魚鉢。水族館で魚を熱心に見つめていたし、魚が好きなのだろう。

 しかし、兄は動物を飼うのに否定的だった。

 あ、と千鳥は思い付く。

 転がった赤い玩具の魚。

 年代物のラジオから流れる洋楽が途切れ、続いてアナウンサーが明日の七夕は雨模様だと淡々と告げた。

「ほら、雨だって。残念ねぇ、屋台」

「ふふん、商店街はアーケードがあるから雨とか関係ないんだよ!」

 あいにくと当日は雨模様のようだが、折戸谷の言う通り、七夕祭り自体は前日を含めて行われている。今、商店街はそれなりに賑わっていることだろう。金魚すくいはできないけれど、代わりに、これなら。

「ユウちゃん、喜んでくれるかな」

 ポケットに魚の玩具を突っ込んだ千鳥の隣で、ミホがぼんやりと呟いた。

「そういえば、七夕はいつも雨なのよねぇ」




 隣を通りすぎた女の子達の浴衣の帯が、金魚の尾のようにゆらゆら揺れた。鮮やかな赤と金が目の端を撫でる。夏祭りの熱気に酔いそうになりながら、千鳥は人の波にうねる商店街を歩いていった。

 近道だからといって夏祭り中の商店街を突っ切ろうとしたのは間違いであったと千鳥が悟るのに、商店街に足を踏み入れて一分も必要なかった。前日にも関わらず、というか、本番が雨なのでむしろ晴れているうちにと人々が集まった為に、当日並みに賑わった商店街。屋台でしか味わえない食べ物に、子ども達が親とおねだりの攻防を繰り広げている。かき氷のブルーハワイの青は、夏の色だ。

 アーケードの真ん中、垂れる笹の葉と無数の七夕飾りが、さやさやと涼しげに揺れていた。短冊を持った人々が、願いを託そうと笹のまわりに集まっている。

 千鳥はその中に、ひときわ小さな影が大人達の足元でちょろちょろと頭を上下させているのを見つけ、首を傾げた。短冊を飾りたいのに、人の壁に遮られて近づけないでいるようだ。一生懸命に手を伸ばしているが、明らかに背が足りていない。

「……私がやりましょうか?」

 急に後ろから声をかけられて、ユウは驚いたように目を丸くして振り返った。

 目が合うと、乏しい表情の中に喜びが煌めいたように千鳥には思えた。

「ユウちゃん、また一人なんですか?」

 周囲を見回しても、深海の姿はない。前回と同じく一人で抜け出して来たのだと察して、千鳥は苦笑しながらしゃがみこんだ。

 視線を合わせると、ユウは握りしめた短冊と背の高い竹を交互に見比べ、薄い海色の短冊を千鳥に突き出した。やってくれ、という意味でよいのだろう。千鳥は手を伸ばして、短冊を受け取った。

「……はい、できましたよ」

 短冊が笹に吊るされるのを固唾を飲んで見守っていたユウに、千鳥は微笑みかける。一応なるべく書いてあることは見ないように気を遣ったが、あまりに真剣なその様子に、どんな願い事をしたのか気になった。

「あの、もしよければ、ユウちゃんのお願い、見てもいいですか?」

 おずおずと聞いてみると、ユウはあっさりと頷いてくれた。本人の了解を得たので短冊を手にとってみると、筆圧が強すぎて滲んだ文字が踊っていた。

「なかなか力強い字ですね」

 ひらがなを覚えたばかりなのか、たどたどしい一生懸命な文字だ。読みづらいが、ひとつひとつ文字を拾ってみる。

「えっと、おに、が、ように?」

 鬼? なんのことだ。

 千鳥が首を捻っていると、

「それ、おにいちゃんが、じゃないかな」

 突然後ろから声をかけられて、千鳥は危うく短冊を笹から引きちぎってしまうところだった。

「こんにちは」

 千鳥の目の前に、ショートカットの少女が笑みを浮かべて立っていた。

「……ケーキ屋さんの店員さん?」

 一瞬誰かわからなかった千鳥だが、彼女の抱えた白い箱と金色の文字に、昨日、ケーキ屋で親切にしてくれた少女の顔を思い出した。そういえば、店はすぐ近くだ。少女は、洋菓子のブランカ、と書かれた箱を抱え直す。

「ケーキはお兄さんに喜んでもらえた?」

「あ、は、はい」

 まさかすぐに台無しにしたとは言えず、もじもじする千鳥に、少女は人懐っこく話しかけてくる。

「よかったー、気になってたのよね」

「あ、ははは。いろいろとありがとうございました」

「今日は短冊を飾りに来たの?」

「あ、はい」

 千鳥はスカートにくっついている小さな頭に手を置いた。さらさらの細い髪が指にくすぐったい。

 少女の指摘に短冊を改めて眺めて見る。なるほど。

 おにいちゃんのおねがいが、かないますように。

 千鳥は目を眩しそうに細めた。

「ユウちゃんは、お兄さんが大好きなんですね」

 ユウは、しぃ、と小さな指を唇の前で立てた。

「……お兄さんには秘密なんですか?」

 こくん、と頷く。

「わかりました」

 千鳥はユウに頷き返した。

「本当に仲が良いのねぇ」

 ケーキ屋の少女は、千鳥とユウを姉弟だとでも思っているのだろう、微笑ましそうに眺めている。

「店員さんも、短冊を飾りに?」

「ああ、私は配達。この先の花屋さんからケーキの注文があって……」

 金魚の入ったビニール袋を掲げた子ども達が走っていった。赤い小さな魚に視線を奪われたユウに、千鳥はポケットから魚の玩具を取り出した。そして、当初の目的を思い出す。

「あの、よければ、これをどうぞ」

 差し出されたものに、ユウの赤茶色の瞳がまんまるに見開かれた。

「本物のお魚さんではありませんけど、この子ならお兄さんも飼って良いって言ってくれますよ」

 ユウは玩具の魚と千鳥の顔を交互に見て、それからおずおずと手のひらを差し出した。

 しかし受け取る直前、つるりと滑って魚は地面に落ちた。かちゃん、と音を立てて地面にのびる金魚。ユウはものを掴むのがあまり得意ではないらしい。つい先日もケーキの箱を取り落としている。

 おたおたとしゃがみこんだ。

「あら、あら」

 見ていたケーキ屋の店員さんが、ひもを通してくれた。

「はい、これで無くさないわよ」

「ありがとうございます」

 きっとこの魚は大切にされるだろう。

「私、アキラっていうの。またお店に遊びに来て。サービスするから」

「私は千鳥です。この子はユウちゃん」

「じゃあね、そろそろ雨が降りそうだから、早めに帰った方がいいわよ」

「はい。またお店に買いにいきますね」

 極彩色の人の波に消えていく少女と子どもは、友人と呼ぶにはまだ遠く、他人と呼ぶには少し近い。短冊に託された願い事のようなくすぐったい期待に、千鳥の足は自然と軽やかなステップを踏んていた。

 アーケードを出ると、千鳥はピタリと足を止めた。

 鼻の頭に冷たい雨粒が落ちる。

「……あ、雨だ」

 天気予報は当たりらしい。

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