月とゼリーと金魚
ミツキ?
少年と少女が見つめあったは、ほんの一瞬だけだった。誰かの名前らしきものを呟いて呆けた顔をした深海だったが、すぐに千鳥に気づいて普段の冷静さを取り戻していた。
「あ、あの。ごめんなさい。勝手にお邪魔して」
千鳥が慌てて頭を下げると、深海は千鳥の隣にべったり張り付いている子どもに肩を竦める。
「いや、こいつが連れてきたんだろ? こちらこそ、迷惑かけたみたいですまないな」
説明などしなくても聡く察してくれたようで、深海は家主の不在に勝手に家に侵入したことは笑って許してくれた。
「……で、それは?」
しかしいくら聡明な少年といえども、ちゃぶ台の上の惨状の状況は理解できなかったらしい。怪訝な顔で散乱したイチゴのパック、生クリームの飛び散ったボウルと泡立て器、デコレーションケーキのページが広げられた料理本、それから白い皿の上に乗った傾いたケーキを順番に眺めた。
「あの、これは……」
千鳥は脇を見下ろした。ユウは兄の帰宅を察すると、ぱっと千鳥の後ろに隠れてしまった。それから怒られた仔犬みたいな様子で、千鳥越しにもじもじしている。
千鳥はそもそも自分が何故ここにいるのかを思い出し、使命を果たさんと決意の顔を深海に向けた。首を傾げる深海に、落としてしまったケーキの箱をおずおずと見せる。割れたチョコレートケーキに、深海は目を丸くする。
「……もしかして、俺の誕生日の?」
こくん、と頷くのは、千鳥のスカートの裾を握りしめたユウだ。
「すみません。私がもっと注意していれば……」
謝りかける千鳥を制して、深海は幼い弟と視線を合わせるようにしゃがみこむ。それからそっと手をのばすと、小さな頭にぽんと手を置いた。
「それで、代わりにケーキを作ってくれたのか?」
ユウは千鳥と料理本を交互に指さし、大きく頷く。
「そっか。ありがとうな」
深海の目が、眩しいものを見たように細くなる。
目を閉じて気持ち良さそうに兄の手のひらを受け入れるユウに、千鳥はほっと胸を撫で下ろした。
「千鳥も気を遣わせてすまなかったな」
それからちゃぶ台に散らかったどら焼の包み紙をチラ見して、苦笑をこぼす。
「まぁ、うちにケーキの材料なんてなかったはずなのにどうやって作ったのか、食べたらわかるかな」
「あはは。あんまり味はケーキっぽくないかもしれませんけど……」
千鳥は元どら焼、現ケーキを横目で見た。ケーキの中身はフルーツではなくたっぷりのあんこである。
「せっかくだから、千鳥も食べていってくれ」
そう言って深海は、黒い箱を差し出した。
「バイト先でもらったんだ」
たぶん洋菓子なのだろう。黒地に、金色の箔押しの高級そうな箱だ。メルトブランカ、という菓子の名前らしき英文字と、夜空のイラストがしっとりと輝いている。プレゼントらしく赤いリボンが巻かれていた。
「中身はチョコレートらしいぞ」
金色の月に寄り添うように綴られた店名に、千鳥は覚えがあった。なにしろ、さっき行ってきたばかりである。
「商店街のお菓子屋さんのですか?」
「……ああ、店に行ってきたのか」
また一人で勝手に出歩いて、と苦くこぼす兄は、好奇心旺盛な弟に気苦労が絶えないらしい。
千鳥はお誘いに甘えて、ささやかな誕生日会に参加することになった。といっても、他にプレゼントやイベントがあるわけでもなく、ただちゃぶ台に並べられたケーキや菓子を食べるだけの質素なものだったが。
しかし主役でもないのに真ん中に陣取ったユウが口いっぱいにケーキを頬張る姿は、あまり表情を崩すことがない兄の頬を綻ばせるにはじゅうぶんだった。
「これはこれで、なんというか、インパクトあるな」
深海は、どら焼ケーキをなんとも言えない顔で完食した。あんことクリームとイチゴの相性は悪くないはずだが、味よりも驚きが勝ったようだ。
「美味しかったよ。ごちそうさま」
千鳥はついでに買った七夕ゼリーをプレゼントした。深海にあげたつもりだったのだが、隣でガン見してくる子どもの視線に耐えかねて、兄は弟に海色のゼリーを譲った。
「なんか悪いな」
「いえいえ」
色の違うゼリーを型抜きして半透明のゼリーに閉じ込めてあるようで、海色のゼリーの中には、月と魚が泳いでいた。スプーンでひとさじ、ユウは月をひと飲みにする。
「……おいしいですか?」
もぐもぐ、ごくん。と、ちいさなほっぺたを一生懸命に動かしている子どもに、千鳥は淡く微笑んだ。
壁の鳩時計から、コチ、コチと静かな音が響く。白いカーテンの揺れる窓、並べられた漂流物。年代物のラジオからは、眠くなるようなBGMが流れている。銀色のカンカンからドロップのようなシーグラスが転がり落ちて、畳に散らばっている。ユウはそれをおはじきのように指で弾いて遊んでいた。
千鳥はふいに時間が停止したような錯覚を覚えた。
ラジオから流れてくる知らないメロディも、シーグラスを通して畳に落ちた青い光も、チョコレートの甘い匂いも、夢の中のように淡く遠い。
その微睡むような光景の中、ふいに影を落とした深い黒色に、千鳥の視線は吸い寄せられた。
それはずいぶんと使い込まれた古いカメラで、埃と古い機械の匂いがケーキの甘い香りに混じった。
そういえば、ユウはずっとこのカメラを大切そうに抱えていたとぼんやりと思い出す。
「何かあったか?」
突然近づいてきた少年の顔に、千鳥は昼寝から無理矢理起こされたような顔をした。
「い、いえ。なんでもありません、すみません」
反射的に頭を下げる千鳥。
「別にいいが……ああ、これか?」
深海は千鳥の視線の先を追って、そこにあるものを見つけて頷いた。
カメラを手に取ると、使い込まれたその細かな傷跡をゆっくりと撫でる。
「ユウちゃんが持っていましたけど、深海くんのものなんですか?」
「まぁ、素人の下手な趣味だけどな」
「そういえば、天文部にも海の写真が貼ってありましたね。あれってもしかして、深海くんが?」
ああ、と深海は頷いた。
「部長には、天文部なら空の写真を撮れって文句言われるけどね」
「えっ」
千鳥は天文台の壁を飾る写真の撮影者を、ようやく知ることになった。てっきりプロが撮ったものだと思っていたが、深海の作品であったらしい。
「すごいですね。海に潜って撮影するんですか?」
「ああ。水中用に防水加工が……」
話し始めた兄達の横で、ユウは大人しく一人遊びをしている。ちゃぶ台の下へ潜り込むと、なにやらごそごそとやっていた。
「ユウちゃん?」
気になった千鳥がちゃぶ台の下を覗き込むと、ユウの丸まった尻があった。
ユウの小さな身体であれば、ちゃぶ台の下も秘密基地になるらしい。宝物の隠し場所へ、料理の本を返していた。巣に色々と溜め込む小動物のようで、なんとも微笑ましい。
ユウはシーグラスのおはじきに飽きたらしく、秘密基地から新しい玩具を引っ張り出してきた。
ユウがちゃぶ台下から押し出したのは、硝子の鉢だった。縁がひだ状になっていて、青色に着色されている。丸いぽてんとした形は、いわゆる金魚鉢であった。底にはシーグラスが底石代わりに敷き詰められていたが、水は入っていない。
「そういえば、もうすぐ七夕祭りですもんね。屋台とか金魚すくいもありますよね」
金魚を飼うのかとかわいらしい金魚鉢を見た千鳥に、深海はすっと目を細めた。
「……いいや。もう飼わないよ」
さっきまでの微睡むようなぬるい温度ではなく、ひやりとした氷のようなものが、深海の声に混ざった。
「……深海くん?」
千鳥の訝しげな視線に気づいたのかどうか、深海は 揺らめくカーテンを見つめている。
「子どもの頃さ、金魚を一匹飼っていたんだ」
凪いだ海のような声で、深海は続ける。
「赤いきれいな金魚でね、花びらみたいな尾をしてた。ただ、夏祭りの金魚すくいで一匹しかとれなくて、ずっとひとりぼっちだった。それじゃあ寂しいだろうと心配していた」
深海の声は、静かなアパートに染み込んでいった。
「かわいそうになってさ、海に放したんだ。広い海なら。仲間がたくさんいて寂しくないだろうって思ったんだよな。でもそのあと、金魚は海水では生きられないって知ったんだ」
かわいそうなことをしたよ。
少年の、大人びた顔で呟く声には色がない。
「広くて危険だらけの海よりも狭くて息が詰まっても水槽の方が良かったって、気づいたんだ」
千鳥はその横顔に、なんと言っていいのかわからなかった。いつの間にか一人遊びを止めたユウが、兄の膝にくっついていた。その頭をぼんやりと撫でながら、深海はここではないどこかを見ていた。
その時、ひび割れたブザー音が鳴り響いた。
「……今日は客が多いな」
深海は低く呟くと、玄関に向かった。
「どうも、市役所のものですが」
ドアの向こうに立っていたのは、小太りの壮年の男だった。黒縁の眼鏡が少しやぼったいが、人の良さそうなおじさん、という印象だ。肩にショルダーバッグをかけていて、夏用のシャツにズボン、暑そうにネクタイを緩めている。
深海は彼の顔を見るなり顔をしかめた。
「……どうも」
市役所の、ということは役人だろう。
役人の物腰は柔らかで、取り立てて警戒するような相手には思えないが、深海の顔には、はっきりとした険があった。
人見知りの子どもは、新しい客人の気配を察したとたん、野良猫のような俊敏さで部屋のすみに隠れてしまった。
深海と役人は、なにやら玄関先で話し込んでいる。
居間にいる千鳥には、会話は途切れ途切れにしか聞こえてこない。いけないとわかっていても、つい、聞き耳を立てていた。
「ですから、そろそろ手続き上の……」
「それは前に断ったはず……」
「ですが、いつまでも今のままというわけには……」
会話そのものは、一見穏やかそうに思えた。
しかし、深海の声は硬い。
しばらくやり取りは続いたようだが、やがて役人のほうが肩をすくめた。
「わかりました。とりあえずは様子を見ましょう」
玄関からは、居間の奥までは見えないだろう。
しかし、千鳥は何故か、役人が居間で息を潜めている自分達を見た気がした。
では、また来ますので。そう穏やかな声で告げて、役人は帰っていった。
コツ、コツと階段を降りる音が遠くなって、深海は大きく息を吐いた。
「……あの?」
「ああ、悪い。何でもないよ」
深海は気にするなと笑って見せる。
千鳥達も家庭の事情を深く聞くこともできなかったので、曖昧に頷くしかない。
鳩時計が六回鳴いた。
「もうこんな時間か」
「私もそろそろお暇しますね。ケーキ、ありがとうございました」
「ああ。また明日、学校で」
兄弟が並んで見送ってくれた。
夏の夕暮れに、海辺の街並みが赤く染まる。
少年達の姿も、赤く染まる。
手を振る小さな影に手を振り返して、千鳥は海辺のアパートに背を向けた。結局、自分が誰に間違えられたのか、聞くことはできなかった。
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