〈少年Aと少女A〉星に願いを
世界全体が薄い色硝子を通したように、ほのかに色づいていた。淡く甘い紫は、夜と昼の間の色だ。一枚の幕を隔てるだけで、まるで別の世界に迷い込んだような錯覚を起こす。カメラのファインダーから覗く風景と同じだと、その色硝子に透過して色づいた少年の横顔を眺めて少女は思う。
「なにを撮っているの?」
「……あぁ」
少年は重そうなカメラを構えたまま、七色の簾の中から振り返った。
少女は足を止めた。少年と少女の間の距離は、遠くもなく近くもなくちょうど三歩ぶん。
夏祭りの最中だった。港町の小さな商店街の、ささやかな七夕の夕暮れ。古いアーケードの天井からは、飾りの簾が隙間なく落ち七色の滝のようだった。
腰を振る金魚のような浴衣の娘たち。屋台の旗や提灯の灯り。夜が始まったばかりの蒸した風。
どこにでも被写体は転がっていた。しかし少年はファインダーを覗いているものの、シャッターを切る様子はない。撮りたいものが見つからないのか、それとも何かの決定的なシャッターチャンスでも狙っているのか。少女に一瞥をくれるとすぐに顔を元に戻し、レンズ越しの夏祭り観察を再開した。
しばらく雑踏を観察する少年を観察していた少女は、不思議に思って少年に尋ねる。
「……ねぇ、撮らないの?」
「もう撮った」
少年はカメラを構えたまま、ポケットから一枚の写真を取り出した。少女は腕を伸ばして、写真を受けとる。
何かの記念だろう、モノクロの集合写真だった。男女合わせて十人もいない。和気あいあいとした雰囲気で、揃って若々しい笑顔をカメラに向けている。
少女は写真の端の幼い笑顔にそっと指を這わせた。
「みんなしあわせそうね」
「そう見えるか」
少年の問いに、少女は頷いた。
極彩色の祭りに目もくれず、少女の視線は淡々とした白と黒の写真に釘付けになっている。
「ねぇ、この写真、もらってもいい?」
おねだりするような甘い声に、どうぞ、と無愛想に答える少年。
「すごくよく撮れてるわ。上手なのね」
少女の褒め言葉に、少年は首を横に振った。
「上手いも下手もない。ただ、そこにある世界を切り取っただけなんだから」
「へぇ?」
少年の撮影ポリシーなのか哲学なのか。少女は興味無さそうに、しかし一応律儀に頷いた。少年は独り言のように続ける。
「カメラは世界を切り取る装置なんだ。この四角の小さな箱の中に、世界を閉じ込めると言ってもいい」
「世界を? 大袈裟ねぇ」
物々しい言いぐさに、少女は苦笑する。
「世界にはありとあらゆる箱がある。海を閉じ込めるための水槽という箱、知識を閉じ込めるための本という箱、子どもを閉じ込めるための学校という箱、死を閉じ込めるための墓という箱」
「囚人を閉じ込める、檻という箱もあるわね」
少年の言葉につないで、少女はくつりと刺のある笑みをこぼした。それからあわれみのような曖昧な眼差しで、写真に閉じ込められた若者たちを見下ろした。
「……彼女たちはティルナノーグの住人になった。永遠の楽園。あるいは永遠の牢獄。閉じ込められた妖精たちを、不幸だと思う?」
少女の問いに、少年は淡々と答える。
「ティルナノーグは装置にすぎない。水槽で飼われている金魚が幸せか不幸かなんて、金魚以外が決めることじゃない。ただの立方体に意味を押し付けるのは、勝手だろう」
「そうね、人間は勝手だものね」
少女は鞄から一冊の本を取り出すと、写真を大切そうに挟んだ。
その様子をカメラ越しに捉えたのだろう、少年は少女に視線を合わせないまま、低く呟いた。
「……その本、いつも持ち歩いているのか?」
金色の細い文字でタイトルが踊る黒い本だ。一見、なんということない本に見えるそれ。しかしそれは、もしかしたら世界を揺るがすことになるかもしれない魔法の装置だ。その価値を知るからこそ、少年は苦言を呈する。
「少し不用心に過ぎないか。皆がそれを狙っているんだぞ。人間も、……ミミックも」
「知っているわ」
少年に反して、少女は軽く肩を竦めただけだった。
「そのわりには、危機感が欠けるようだが?」
剣呑な少年に、少女の唇が三日月に歪む。それは何か企みを抱いた者の、ほの暗い笑みだった。
「皆がこれを、夢を叶える魔法の本だと思っている」
「トリトンの遺物だ。当然だろう」
少女はそうね、と呟いて、肩を竦めると笹に吊るされた無数の短冊を撫でた。商店街の七夕は、大きな竹にそれぞれが自由に短冊を吊るしてよいことになっている。子どもを中心に、街の人々の願い事が鈴なりに成っていた。
「……皆、お願いだらけね」
「星に願いを叶える力なんてないのにな」
「これは願いというよりも、祈りじゃないかしら」
「……何が違う?」
少年の疑問に、少女は曖昧に笑った。
「それは、気まぐれな深海の彼女に聞いたらいいわ。答えてくれるかはわからないけど」
ふん、と少年は鼻をならす。
「ところで、美味しいケーキ屋さんを知らない? バースデーケーキを買いに来たんだけど」
少女はそれ以上秘密について触れることはなかった。さっきまでのほの暗い空気は霧散して、ぱっと明るく朗らかな顔をする。
「……君の誕生日なのか?」
「いいえ。友人よ」
夏祭りの見物に来たわけではなかったらしい。少年はふん、と鼻をならしつつ、律儀に答える。
「なら、あそこだ」
そう言って少年が指さしたのは、こじんまりとした洋菓子店だった。言われなければきっと素通りしていたことだろう、地味な店構え。店名が書かれた白い看板の金色の文字はいかにも古い洋菓子屋といった風情で、玄関口に一匹の猫がのっそりと寝そべっている。
「あそこはいつもかわらない。ケーキはどれも古くさくて、玄関に猫が寝そべっていて、店員はショートカットの女の子で、店長は冴えない眼鏡をかけてる」
「あなたのおすすめはある?」
「今なら、七夕の特別ケーキがあるはずだ」
「あら素敵。私、甘いものは何でも大好きなの。ふわの生クリームなんて最高よ」
「……女子は何でもすぐにスイーツだな」
甘いものが苦手なのか、なぜかげっそりと呟く少年に、少女は軽やかに笑う。
すでにケーキを頬張ったみたいに表情を綻ばせていた少女だったが、思い出したように顔をしかめた。
「ああ、でも私、ゼリーだけは苦手なのよね。クラゲみたいで」
少年は皮肉げに唇を歪めた。
「ならちょうどいい。七夕の特別メニューは、ゼリーだからな」
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