海辺のアパート

 そこは、海辺の小さなアパートだった。

 古びた二階建ての、本当に小さな建物。潮風に錆びた鉄の階段と、トタン屋根と灰色のコンクリートの壁は深緑の蔦が覆っている。蔦が繁茂しすぎて、どこが入り口かわからないくらいだった。階段に置かれたプラスチックのプランターには、名前のわからない白い花が咲いている。軒下に燕が巣を作っていて、雛鳥がけたたましく鳴いて餌をねだっていた。

 目的の部屋は、二階の真ん中あたりだった。重い鉄の扉はノブも錆びていて、重々しく軋んだ音を立ててゆっくりと開いた。

「おじゃまします……」

 千鳥はおそるおそる、ドアの中を覗き込んだ。

 早速サンダルを脱ぎ捨てたユウは、こいこい、と千鳥を手招きする。千鳥はユウに招かれるまま、靴を揃えて玄関に上がる。ささくれた木の床が、ぎしっと音を立てた。

 返事はない。ユウが廊下でそわそわと待っているが、静かな部屋に人の気配はなかった。

 玄関先のビーズを連ねた暖簾を手で押し上げると、奥の部屋の壁にある鳩時計が目に飛び込んでくる。ほぼワンルームのような間取りで、玄関を上がるとすぐに居間のような部屋につながっていた。窓ガラスの模様は海面に揺れる波遊びのようで、色褪せたカーテン、擦りきれた畳、もう見かけない古い型のラジオといった、ごくありふれた家具が並んでいた。中央にでんと鎮座するちゃぶ台の上に灰皿があって、くしゃくしゃに潰れた煙草の箱が置いてある。部屋は少しだけ煙の匂いがした。

 千鳥はユウに続いて部屋に足を踏み入れると、ケーキの箱を灰皿の横にそっと置いた。

「お家のかたは、留守なんですね」

 ユウが一緒にいるとはいえ、勝手に家に上がってしまっている状況だ。千鳥はそわそわと落ち着かない様子で、しきりに玄関を窺うが、やはり誰も帰ってくる様子はない。

 千鳥はケーキの箱をじっと睨み、それからいったん息を整えて、えいやっと開けてみる。

「……はぁ」

 そして、重いため息をつく。

 当たり前だが、ケーキは割れたままだった。薔薇の飾りは粉々に砕けている。かろうじてメッセージカードとロウソクは無事だが、主役のケーキの無惨な姿は、千鳥の心にぐさりと刺さる。

 不幸な事故によって、美しいチョコレートケーキは、見事にまっぷたつに割れていた。

 さすがにショックを受けたらしいユウは、ケーキの箱を落とした姿勢のまま、固まった。千鳥は慌てて箱を拾ったが、時すでに遅し。買い直す予算もなく、サービスしてくれた店員さんにも申し訳なくて、千鳥とユウはケーキの残骸を抱えて途方に暮れた。そしていくら悩んでも、千鳥が出来そうなことは、一緒に謝ることだけだった。

 そこでユウに案内を頼み、彼の自宅を訪ねた千鳥だったが、ことごとくタイミングが悪いようで、肝心の深海は留守だった。そのまま帰るわけにもいかず、こうしてもじもじとケーキの箱の前で唸っているというわけだ。

 ユウは不安そうな顔で、じっと千鳥を見上げていた。その視線に気づいて、千鳥は無理矢理に笑顔を浮かべる。

「……大丈夫ですよ。ちょっと形は悪くなってしまいましたが、味は変わりませんし。ちゃんと説明すれば、お兄さんもわかってくれますよ」

 慰めるように頭を撫でると、気持ちよいのか、ユウは小動物のように目を細めた。

 窓は開いていた。カーテンが揺らめいて、リーン、と風鈴が澄んだ高い音を立てる。音に導かれるように視線を向けると、窓枠になにやら細々と、丁寧に並んでいるのに気づいた。

 乳白色の二枚貝の片割れ、何か船舶の一部であったと思われる管と繋がった釘、白く乾いた珊瑚の細い枝、星の模様か浮かぶウニの殻。海から拾ってきたのだろう漂着物のコレクションだった。

「これは?」

 千鳥の興味津々の視線に気づいたようで、ユウは陳列物の中からキャンディの缶をとりあげると、千鳥にぐいっと押し付けた。見ろ、ということらしい。

 千鳥がポップな模様の缶を受け取って開けてみると、中からコロコロと丸いものが転がり出てくる。あめ玉かと思えば、それは色とりどりのシーグラスだった。海の味がしそうなドロップである。

「これは、ユウちゃんが集めたんですか?」

 コクと頷いたので、やはりこれはユウのコレクションらしい。

 大人から見ればゴミであっても、子どもにとっては特別な宝物。それは殺風景な部屋にあって、特別な宝石のようにキラキラと輝いていた。

 その陳列物の中に、見覚えのある黒い箱を見つける。どうやら先ほどの菓子店のものだ。誕生日ケーキを買おうとしたくらいなのだから、もしかしたら常連なのかもしれない。

『ブランカ菓子店』

 金色の文字は悠々と踊っていた。

 千鳥はその秘密の宝箱を、そっと開けてみる。まだ微かにお菓子の匂いが残っているようで、ふわりと甘くチョコレートが香った。

 中身は写真の束だった。最初の一枚は、一匹の巨大なクラゲが海中を漂ってるもの。虹色の輪郭に縁取られて、傘の中央に星のような模様が浮かび上がっている。おそらくは半透明の体内から透けて見える何かしらの器官なのだろうが、まるで星のように見えた。

「きれいですね」

 千鳥は一枚ずつ、丁寧に写真をめくっていった。

 しかし、数枚めくったところで、千鳥は訝しげに首を傾げた。

「クラゲのコレクションなんでしょうか?」

 めくってもめくっても、姿形こそそれぞれだが、すべてクラゲだった。

 何枚目かに写っていたピンク色の可愛らしいクラゲは、水族館のマスコットキャラクター、みなみちゃんとどことなく似ている気がした。千鳥の頬が自然と緩む。あの能天気な顔は、思い出しただけでも気が抜けるのだ。

 何十枚とあった写真は、やはりすべてクラゲだった。ユウはクラゲが好きなのだろうか。

 ただ、最後の写真だけは違っていた。

 失敗作なのか、ピントが外れてぼやけているが、誰か人物を撮影したものだった。それはふりむきざまの、少女の顔だ。

 千鳥は眉を寄せて、食い入るように写真を見つめた。この少女の顔を、どこかで見たことがあるような気がしたのだ。

 背景は水族館だろうか、水槽らしき硝子の箱が並んでいた。すぐに千鳥が思い浮かべたのは、岬の小さな水族館だった。暗っぽくてよく見えないが、なんとなく、雰囲気が似ている気がした。水槽の硝子に反射したのだろう、撮影者の影がまるで幽霊のように、ぼんやりと写り込んでいる。

 千鳥は写真を見終わると、箱に丁寧にしまう。

「素敵なコレクションですね」

 ほめられたのが嬉しかったのか、ユウの顔はどこか得意気である。それで気を良くしたのではないだろうが、ユウはちゃぶ台の上にあった菓子鉢を千鳥の前にでん、と置いた。中にはせんべいや最中やどら焼といった、渋い和菓子が入っている。

「あ、ありがとうございます」

 苦笑して、再びちゃぶ台に座り直す。チラリと鳩時計を見ると、四時を少し回ったところだった。

 そろそろ日も暮れる。しかし目当ての人物が帰ってくる気配はない。このままいつまで待てばよいのかと、千鳥が悩んでいたところだった。

 ん、と千鳥のシャツの裾をユウが強く引っ張った。

「どうしました?」

 千鳥が顔を向けると、ユウがいつの間にか一冊の本を抱えていた。千鳥は、ユウの頭を撫でる。

「絵本を読んでほしいんですか?」

 てっきり遊んでほしいのかと思ったのだが、ユウの反応は、千鳥が思っていたのとは少し違っていた。

 ふるふると首を横に振ると、千鳥に本をぐっと押し付ける。

 千鳥は首をかしげて、押し付けられた本のタイトルを見る。そして、目を丸くした。

「……はじめての手づくりケーキ?」

 ユウは千鳥に本を押し付けると、タタッとどこかに走っていった。と思ったら、何かを抱えて帰ってくる。

 ユウが持ってきたのは、イチゴとホイップクリームのパックだった。

 千鳥はちゃぶ台の上に並べられた料理本と食材に、ユウの言いたいことをようやく察した。

「……ケーキを作る、ということでしょうか?」

 千鳥が答えた瞬間、ユウの顔がパッと輝いたように見えた。しかし千鳥は逆に青くなって狼狽する。

「今からスポンジを焼くのはとても時間がかかりますし、材料も足りませんし、それにその……」

 しどろもどろに言い訳をする。

「私、あんまり料理は得意ではなくて……その、目玉焼きすらまともに作れないくらいでして……」

 消え入りそうな小声で呟いた。

 そう、千鳥は料理下手だった。いくら材料があっても、レシピがあっても、まったく出来る気がしない。

「ケーキは難易度高過ぎです……」

 千鳥の言葉に、ユウの顔から生気が消えた。

「ああっ、ご、ごめんなさい!」

 千鳥は項垂れた。

 今日はうまくいかないことばかりだった。せっかくユウと仲良くなれたのに、肝心な時に役立たずで。

 そうして落ち込み出すと、どんどん気分が暗くなっていく。ゆっくりと海底に沈んでいく沈没船のように、沈むたびに暗く冷えていく。

「はぁ……」

 ため息も凍りそうな千鳥が座礁するその時だった。

 俯いた少女の影に、ふいにピンクの影が横切る。

 え、と呆けたように瞬く千鳥の目の前を、能天気な顔のクラゲが踊っていた。

 それは一瞬の幻影だった。

 さっきまでクラゲの写真を見ていたせいだろう。あんなに派手なピンク色は、どこぞの水族館のマスコットキャラクターしか思い浮かばない。

 あの不思議なクラゲスマイルを思い出した途端、ふいに身体が軽くなる。悩んだり落ち込んだり忙しくても、きっと彼ならそれすらも楽しむのだろう。波に遊ぶ魚のように、自由に、軽やかに。

 千鳥はちゃぶ台の上の和菓子に、ふと目を止めた。

 その瞬間、閃くものがあった。

「これは、もしかしたら……」

 いつ帰ってくるかわからないが、小さな子どもがいるうちだ。家人の帰宅はそう遅くはならないだろう。時間はあまりない。迷っている時間はなかった。

 千鳥は立ち上がった。

「なんとか、なるかもしれません……」

 むんず、と千鳥が掴んだのは、菓子鉢の中に入っていた、どら焼だ。

 千鳥の勢いに驚いたのか、パチパチと瞬きするユウに、千鳥は真剣な顔を向ける。

「やれるだけのことを、やってみましょう!」

 早速包装紙を破いて、どら焼を取り出す。茶色の丸い円瓶は、ふっくらと甘い香りを漂わせていた。ぎっしりとあんこがつまっていて、和菓子の主役の一人だと主張している。

 まず皿の上にどら焼を積み上げる。積み上げた途中でバランスを崩したので、いったんどら焼の皮をはがして裏表を揃えて積み直すという作業を繰り返す。三個あったどら焼をすべて使って積むと、なかなかの高さになった。

 次に泡立て器でホイップクリームを泡立てる。もくもくと雲のように盛り上がる白いクリームを、積み上げたどら焼にクリームを塗りたくった。表面を覆うように塗っていけば、筒の形の白い台になる。

 砕けた薔薇は砂糖菓子なので、思いきって粉にして、パラパラとクリームに振りかけた。

 そして最後にカットしたイチゴを乗せて、無事だったローソクを立てる。

 怒涛の作業を終えて、千鳥は額に浮かぶ汗をぬぐった。その拍子に手についたクリームが顔についたが、気にしている余裕はなかった。

「で、できた……」

 クリームはベタベタだし、ピサの斜塔みたいに傾いているせいで、イチゴが今にもずれおちそうである。

 しかしいくら不恰好でも、それは確かにケーキだった。

 ユウは突然現れたケーキを、瞬きを忘れるほどじっと見つめていた。

「これなら……!」

 千鳥は鳩時計を見上げる。

 ちょうど鳩が飛び出して、五回鳴いた瞬間だった。

 ガチャン、と後ろから何か落ちる音がする。

「……ミツキ?」

 呆けたような声。

 音に驚いて千鳥は振り返った。

 そこには、驚きに目を見開いているせいで、どこか幼く見える少年の顔があった。

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